第3話 ”正義”の刃と、“理”の神
「影山くん、だよね?」
背中からかかった声は、変に丁寧で、どこか切羽詰まっていた。
振り向いた俺の前に立っていたのは――
真っ赤に腫れた目をした、中年の女。
見覚えがある。
記憶の引き出しをざらざらひっかき回して、すぐに名前が浮かんだ。
クラスメイトの、母親だ。
「ちょっとだけ、いいかな。時間、あるよね?」
質問という形をしているけど、待つ気はないみたいだった。
女は勝手に歩き出し、俺は数歩遅れてその背中を追う。
人目につかない、校舎と塀のあいだの細い道。
夕方の光も届きにくい、薄暗い場所。
ここなら、カメラもいない。
通行人も、ほとんど来ない。
――ああ、なるほど。
遅れて、嫌な予感が形になる。
◇
女はそこで立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
「……ねえ、聞いてもいい?」
近くで見ると、その目は本当にひどかった。
泣きすぎて、もう涙は出ない種類の充血。
「どうして、あなただけ、ここにいるの?」
直球だった。
遠回しも、クッション言葉もない。
「俺にも、分からないです」
それは、本心だ。
俺が教室の外にいたから――なんて説明はできる。
でも、それは“結果”であって、
あの瞬間に「誰が残るか」を決めた理由じゃない。
「嘘つかないでよ」
女の声が、じわりと低くなる。
「テレビで見たの。
ネットでも、いっぱい言われてた」
ああ、出た。
「“唯一の生存者は何かを知っている”って」
こっちは何も言ってないのに、
勝手に“知っている側”にされている。
「うちの子ね、よくクラスの話をしてたの」
唐突に始まる、思い出話。
「サッカー部の坂上くんが面白いとか、
先生が優しいとか……」
そこで一度、言葉が途切れる。
「――影山くんって子が、いつも教室からいなくなるとか」
そこだけ、ほんの少しだけ、棘があった。
「……」
何も返せない。
女は、一歩、近づいてくる。
「ねえ、影山くん」
声が震えたりはしていない。
逆に、妙に落ち着いている。
「本当は、何があったの?」
「何も、知らないです」
「嘘」
今度は、はっきりと吐き捨てるような声だった。
「光の使徒と称する人間達に連れて行かれた子たちが、
どこかで戦ってるって、みんな言ってる」
“みんな”って誰だよ。
「“悪”を倒して、“世界”を救ってるって」
誰の言葉を、そのまま口にしてるんだろうな。
ワイドショーか。
週刊誌か。
それとも、“預言者”を名乗ってた誰かか。
「――なのに、どうして、うちの子は戻ってこないの?」
それは、俺だって聞きたい。
けど、その問いはもう“質問”じゃなかった。
責めるためだけの形をしている。
「どうして、あなただけ、ここにいるの?」
二度目。
今度は、はっきりと俺を狙い撃つような声音で。
「……俺に聞かないでください」
それしか、言えない。
「俺だって、知らない。
俺だって、置いていかれた側ですよ」
「被害者ぶらないでよ」
女の顔が、ぐちゃりと歪んだ。
「あなたが何かしたんじゃないの?
いじめられてたんでしょう? ネットで見た」
あーあ。
「“教室で浮いてた生徒が、クラスごと消した”って」
どこまでが真実で、どこからが創作か。
自分でも分からなくなってるんだろう。
「……何も、してません」
それは、嘘じゃない。
「信じられない」
女は、ポケットに手を突っ込んだ。
銀色が、ちらりと光る。
(――あ)
包丁だ、と気づいたときには、
もう、刃先が胸のすぐ手前まで来ていた。
「返してよ……」
ぐい、と。
冷たい感触が、胸の皮膚を割る。
そのまま、肉を裂き、骨をかすめて、肺に突き刺さる。
「返してよッ!! うちの子をッ!!」
押し出された刃が、さらに奥へ。
呼吸が、ぐしゃぐしゃにかき回される。
空気の代わりに、熱い液体が喉を逆流してくる。
視界がぶれる。
世界の輪郭が、溶けるみたいに歪む。
視界の端で、誰かがスマホを構えていた。
誰かが叫び。
誰かが、半笑いで「やば」と呟き。
誰かが、録画ボタンを押す。
世界は、今日も元気に“コンテンツ”を作っている。
(ああ――)
(また、“正義”に殺されたな、俺)
胸の中で、妙に冷めた声がそう呟いた。
意識が、ずぶずぶと沈んでいく。
(せめて、一発くらい殴ってから死にたかったな)
坂上マサトの顔。
藤原の困ったような笑い。
クラスメイトの視線。
(ぶっ壊したかったな)
その未練だけが、最後までしつこく残った。
そして、世界はすとん、と音もなく暗転した。
◇
真っ暗だった。
目を開けているのか閉じているのかも分からない。
そもそも、瞼があるのかどうかも怪しい。
身体の輪郭も、重さも、呼吸もない。
それでも、「考えている」という事実だけは、ここにあった。
『観測完了。対象、魂の分離を確認』
声がした。
男か女かも分からない。
高さも低さも、温度もない。
ただ、無機質で、妙に耳に馴染む声。
「……誰だよ、お前」
口を動かした覚えはないのに、
言葉がそのまま外に流れ出る。
『こちら側の言葉で言うなら――そうだな。“理”の神とでも呼ぶがいい』
「神、ねぇ」
なんかもっと、“ありがたい”感じを想像してたんだけど。
『感謝も祈りも不要だ。必要なのは観測と調整のみ』
ああ、やっぱりそういうタイプか。
『汝は、刺されて死にかけている』
「知ってる」
神様に実況されなくても、さっきの感覚で十分分かる。
『その前に。汝のクラスは、別の世界へ召喚された』
唐突に、あの日の教室が脳裏に浮かぶ。
坂上の声。
藤原の慌てた叫び。
白い光。
誰もいなくなった教室。
「……ああ。あれか」
『光を掲げる存在に賛美を捧げ、“光の使徒”と名乗る人間たちがいる』
声は淡々と続ける。
『彼らは異世界で、悪と定めたものを討つ戦力を求めた。
結果として、汝のクラス三十余名が、まとめて引き抜かれた』
「勇者、ってやつか」
『自称はそうだな。彼らを支える宗教的勢力も、そう呼んでいる』
自称・勇者。
自称・光。
笑える。
『問題は、そこからだ』
声の質が、ほんのわずかに硬くなる。
『光の使徒と称する人間達に、三十余名分の“加護”が与えられた。
世界の理は、“光”に大きく傾いた。
このまま進めば、魔も光も、まとめて壊れる』
「そうなればいいじゃん」
即答だった。
「正義も悪も、まとめて爆発すりゃスッキリする」
『汝の感情には一定の理解を示そう。
しかし、それは我の職務上、不都合だ』
職務。
世界のバランス調整係、ってところか。
「で? わざわざ俺に説明してくるあたり、“お願い”があるんだろ」
『察しが良い。
光の使徒と称する人間達が数で振り切った以上、
魔側には“質”で対抗させる必要がある』
闇の中に、何かが浮かんだ。
『召喚された三十人の中に、汝の魂も本来は含まれていた。
教室という“枠”の中にな』
「でも、俺は外に出されてた。……坂上のパシリでな」
購買。
職員室。
メロンパンとアイスコーヒー。
戻ってきたら、誰もいなかった教室。
出席簿の“空白”と、『空気』『不要』の落書き。
『あの瞬間、召喚術式は“その場にいる者”を条件として発動した。
汝は“不要”として枠から外れ、光の側は汝を見なかった』
「つまり――捨てられたわけだ」
『要約としては適切だ』
さらっと言いやがる。
『本来なら、そのまま汝は元の世界で生を続けるはずだった。
だが、汝は世界から、社会から、“正義”とやらから再度刺された』
ネットリンチ。
ワイドショー。
さっきの母親の目。
『積み重なった怨嗟は、なかなかに良質だ。
光にも闇にも属さぬ、純度の高い“否定”』
「褒められてる気はしないな」
『褒めてはいない。ただ、評価している』
ブレないな、この神様。
『そこで提案する。
汝を魔側の“重し”として使う』
「重し」
『光の使徒三十に対し、魔の一。
天秤の片側に、汝ひとりを乗せる』
「……ひとりで三十人分、か」
笑うところじゃないのかもしれないけど、笑いそうになった。
「無茶言うなよ、神様。どう考えても数が合ってねぇだろ」
『数だけ見れば、不利だ。
だからこそ、汝一人に三十人分の権能を“詰め込む”必要がある』
詰め込む、って言い方よ。
「人間の身体でそんなもん入れたら、即爆発だろ」
『その通りだ。ゆえに、汝の器を人間のままとはしない』
闇の中に、映像のようなものが浮かんだ。
長い耳。
褐色の肌。
炎の色をした瞳。
灰銀の髪。
『この世界には、かつて“契約”と“因果”を扱う長命種族がいた。
三百年前、光を掲げる人間達の聖戦とやらで絶滅させられた――ダークエルフだ』
「絶滅種に乗っかれ、って?」
『空き枠だ。都合がいい。
寿命は人間の二十倍。魔力回路も強靭。
複数系統の権限を保持し、長期にわたって運用できる』
「……なるほど。器の問題はそれでクリア、か」
長生きとか、もうピンとこないけど。
『どうする、人間――いや、影山ショウマ』
名前を呼ばれて、胸の奥がちくりと痛んだ。
『汝は、この世界で何者として生きたい?』
クラス。
坂上マサト。
藤原。
テレビのスタジオ。
週刊誌の見出し。
ネットの匿名アイコン。
さっき包丁を握っていた母親。
その背中を押した、どこかの“善意の言葉”たち。
いろんな顔が浮かんで、ぐしゃぐしゃに混ざって、黒く沈んでいく。
「……何者でもいい」
自分でも驚くくらい、すっと言葉が出た。
「正義とか、もういい。
“いい奴”でいようとしても、意味なかったしな」
あの教室。
あの日の光。
出席簿の空白と、『不要』の二文字。
「この世界では――俺は“悪”でいい」
空っぽの喉で、はっきりと言う。
「悪として、全部ぶっ壊す側に回る」
闇が、わずかに揺れた気がした。
理の神は、少しの間だけ沈黙してから、淡々と告げる。
『了解した。
では、汝をダークエルフの器に落とし、魔王軍へ接続する』
「さっき言ってた“三十人分を詰め込む”ってやつは?」
『因果閲覧。因果改稿。契約権限。情報耐性。
結界関連の素質。その他、魔将候補として必要な補正を一括で付与する』
「……詰め込みすぎじゃねぇかな」
『足りぬよりは良い。
ただし、使いこなせるかどうかは汝の問題だ』
責任は取らない、ってことか。
まあ、神だしな。
『行け、影山ショウマ。
この世界では、汝の望み通りに“悪”を名乗るがいい』
足元が、ふっと抜けた。
闇が裂け、その向こうから、熱と血と、知らない空気の匂いが雪崩れ込んでくる。
俺は、笑っていることに気づいた。
自分でも理由は分からない。
ただ――
「正義」に刺されて終わるだけだった人生が、
ようやく“何か”をぶっ壊せる場所に繋がった気がしたから。
そんな馬鹿みたいな理由で。
俺は笑いながら、闇の裂け目へと落ちていった。
新しい世界の“悪役”として、目を覚ますために。




