第25話 夜麗姫の帰還報告
謁見の間の空気は、張り詰めたままだった。
魔王城は広い。だが今は、広さが息苦しい。報告が遅れるほど、悪い想像が増える。
玉座の前――魔王マギアの寝所に繋がる奥扉は固く閉じられ、代わりに玉座脇の高椅子にミラが座していた。
銀黒の髪、紅の瞳。背筋は折れない。けれど指先だけが、微かに強く組まれている。
その隣にはグルド。好々爺の顔で杖を抱え、目だけが忙しなく扉を追っている。
周囲には幹部格、武官、伝令。皆が黙って待っていた。
扉が開いた。
影の魔将ショウマがまず入る。
次に、影走りの隊長――レア。
そして最後に、黒紫の意匠を纏った令嬢が歩む。
場の温度が一段、上がった。
「……生きて戻った」
誰かが漏らした声は、すぐに飲み込まれる。だが安堵は隠せない。
ショウマは一歩前に出て膝をつき、簡潔に言った。
「北方国境付近、鉱山拠点。捕虜を確認した分は全員確保。護送完了。追手は監督と雑兵のみ。追跡を振り切って帰還した」
ミラの肩が、ほんの僅かに落ちた。
だがすぐに、次を見る目に戻る。
「……捕虜は?」
「医療班へ回した。ここには連れてこない。今この場で倒れられたら、混乱が増える」
「判断は正しいわ」
ミラの声は、いつも通り凛としていた。
ただその一言に、城全体の緊張が少しだけ解ける。
次に、令嬢が前へ出た。
歩幅、姿勢、目線――すべてが完璧だ。謁見の間に“格式”を持ち込めるのは、こういう個体だけだと誰もが理解する。
彼女はドレスアーマーの裾を揃え、ゆっくりとカーテシーを決めた。
「魔王軍四天王、リュシエンヌ=ノクティル」
「……夜麗姫、ここに復帰を宣言し、併せてご報告いたしますわ」
幹部の一人が息を呑んだ。武官が目を見開く。
“重傷の四天王”がここに立っている。その事実だけで、魔王軍の重みが戻る。
ミラはすぐに頷いた。
「許可するわ。報告を」
「ありがとうございます」
リュシエンヌは顔を上げ、視線を滑らせた。
その視線がショウマに触れた瞬間――流し目の角度だけで、空気が変わる。
「此度の救出、並びに捕虜奪還。……すべては影の魔将殿の采配にございます」
さらりと言う。
しかしその言い方が、ただの評価ではない。確信と執着が混ざっている。
グルドが一瞬だけ咳払いをした。顔は好々爺のまま、目だけが笑いそうになっている。
武官の何人かが硬直し、レアが一拍だけ眉を寄せた。
リュシエンヌは構わず続ける。
「鉱山の礼拝所――捕虜を縛る“祈りの蛇口”を沈黙させ、鎖の術式を弱めましたの。そこから坑道は、本来の用途を失い、“出口”へと作り替えられた」
「追手は殲滅されておりません。無力化され、迷わされ、沈められただけ」
「それが何を意味するか――お分かりでしょう?」
武官の一人が反射的に頷きかけ、途中で止めた。
殲滅は気持ちがいい。だが撤退戦で必要なのは、勝利ではなく帰還だ。
リュシエンヌは微笑み、今度は少しだけ甘い声音を混ぜた。
「……それだけではございませんの。影の魔将殿は、その先――山越えの導線まで、最初から“帰還”として組んでおいででした」
「捕虜たちの歩幅、疲労、恐怖。列が崩れる瞬間を、結界で支え、影走りと噛み合わせて運ぶ」
「追う者の線を折り、迷わせ、報告が上がる前に城へ戻す。……徹底した采配でしたわ」
言葉の端々が、上品に刺してくる。
“気に入った”と叫ばずに、誰もがそう理解する褒め方だ。
レアの腕組みが、ほんの少しだけ固くなる。
肩が一拍だけ張り、すぐに戻った。
ショウマはため息を吐いた。
そして、公の場で、さらっと口にした。
「……リュシ。盛りすぎだ。要点だけでいい」
空気が止まった。
四天王に、呼び捨てに近い短い名で声を掛ける。
しかもそれを、本人が笑って受け入れている。
武官の何人かが反射で口を開きかけ――閉じた。
止める者がいない。止められない。
四天王の“お気に入り”に、口を挟める現役武官など存在しない。
リュシエンヌは流し目のまま、愉しそうに微笑んだ。
「まぁ。影の魔将殿は欲張りではありませんのね。……では要点を」
「捕虜は確認できた分、全て救出。鉱山拠点の鎖術式は機能不全。現場監督は無力化、雑兵は追跡不能。以上ですわ」
端的なのに、最後の「ですわ」で余韻を残す。
それがまた腹立たしいほど上手い。
ミラが咳払いを一つ。場を締めた。
「報告、受理する。四天王リュシエンヌの復帰も、ここに認めるわ」
「……そして影の魔将。北方の士気は上がる。捕虜奪還と四天王奪還は、それだけで“反撃”の証明よ」
「了解」
ショウマが短く返す。
グルドがにこやかに頷きながら、さらっと爆弾を落とす。
「いやはや、影の魔将殿の働きは見事。加えて四天王のご帰還。これで古文書の辻褄が――」
言いかけて、ミラに睨まれて止まった。
「……失礼。研究の話は後ほどに」
レアが一歩前に出て、必要な情報だけを添える。
「影走りの損耗は軽微。追跡に使われた可能性のある導線は、山側で切断しました。今夜のうちに、周辺の偽装も更新します」
真面目な報告。完璧だ。
だがレアの視線が一瞬だけ、ショウマとリュシエンヌの間に落ちる。
それを見逃すほど、グルドは鈍くない。好々爺の顔で、目だけが面白そうに細まった。
リュシエンヌは、また一歩だけショウマ側へ寄った。
当然の距離の詰め方だ。
「影の魔将殿――改めて」
声は柔らかい。
しかし柔らかいほど、周囲への圧になる。
「わたくしから“お礼”を差し上げたいのですの。正式に。……とても、大切なことですわ」
レアが、ほんの少しだけムッとした。
腕は組んだまま、内側で袖布をきゅっと掴む力が入る。
ショウマは面倒そうに目を細めたが、無視はしなかった。
無視をすれば、余計にこじれると分かっている。
「リュシ。今は軍の場だ。礼は後」
「ええ。後ほど、ですわね」
リュシエンヌは満足げに微笑む。
その微笑みが、まるで“予約”のようで、余計に厄介だ。
ミラは淡々と告げた。
「今日はここまで。医療班の報告が来次第、次の手を決める。影の魔将、レア、リュシエンヌ――三人とも休め」
休めと言いながら、休ませる気がない目だ。
戦局は動く。教会がこの失態を黙って飲むはずがない。
ショウマは謁見の間を出る直前、因果の線を一度だけ見た。
遠く、北方の方向から、細い線が伸びている。
現場の怒号ではない。“報告”の線だ。
(……上がるな。もう上がる)
背中で扉が閉まる。
廊下に出た途端、レアが小さく息を吐いた。
リュシエンヌは楽しそうに、歩調を揃える。
ショウマは頭を掻き、短く言った。
「……面倒が増えた」
リュシエンヌは流し目で笑い、レアはほんの少しだけムッとしたまま、視線を前に戻した。
魔王城の夜は、救出の余韻と、新しい火種を抱えて更けていく。




