第23話 夜麗姫、鎖の芯で微笑む
錠前は、呆気ないほど静かにほどけた。
《結界操作》で「閉じている」という意味だけを殺した瞬間、鉄扉がただの重い板に変わる。
ショウマが指先で押すと、扉の隙間から冷たい空気が漏れた。
湿った坑道の匂いに混ざって――甘い。血の香り。
それは生臭さじゃない。もっと上品で、もっと危険な匂いだった。
「……来るよ」
レアが半歩後ろで短剣を構え、声を落とす。
ショウマは頷き、扉を押し開けた。
最奥区画。
中は狭い。だが圧がある。壁と床には聖印がびっしり刻まれ、鎖の文様が幾重にも重なっていた。
人間が“封じる”ために用意した部屋。祈りと呪縛の、最も濃い場所。
部屋の中央に、一人。
太い鎖が、天井と床を貫くように張られ、その中心で誰かを縛り付けている。
鎖はただの金属じゃない。光の刻印が走り、血管みたいに脈打っている。
その鎖の先にいるのは――
少女だった。
いや、少女に見えるだけだ。
白磁みたいな肌。艶のある長い黒髪。ワインレッドの瞳。
ボロボロの布をまとっているのに、背筋だけは崩れていない。
“捕虜”ではなく、最初から“令嬢”としてそこにいるような姿勢。
彼女はゆっくりと顔を上げ、微笑んだ。
「……まぁ」
声は小さく、貞淑で、理知的だった。
「魔王軍の方々? まだ、わたくしどもを見捨ててはいませんでしたのね」
その瞬間、ショウマの因果視界がはっきりと告げる。
線の格が違う。周囲の捕虜の線が「削られ、折れ、薄くなる」線なら、これは「削られているのに、なお濃い」線だ。
枯れているようで枯れていない。むしろ、枯れたふりをして底で燃えている。
(――魔王軍の報告書にあった。四天王二名戦死、一名重傷、戦場で消息を絶つ。)
(生死不明。だが“死体が出ていない”。……その意味が、今ここで繋がった)
レアが息を呑む。空気が刺す、と言っていた冷気の正体が、今ははっきり分かる。
冷たいのではない。“飢え”だ。
少女――吸血姫の視線が、ほんの一瞬だけレアの首筋へ吸い寄せられた。
次の瞬間には、何事もなかったように、また上品な微笑みに戻る。
だが、目の奥だけは赤いままだった。
「名を名乗れ」
ショウマが短く言うと、彼女は律儀に頷いた。
「魔王軍四天王。リュシエンヌ=ノクティル」
声が震えていない。
飢餓に喉が焼けているはずなのに、言葉は澄んでいる。
「二つ名は、そう……夜麗姫、とでもお呼びになって」
「夜麗姫、ね。俺はショウマ、影の魔将を頂戴した新参だ。」
ショウマが一歩踏み込むと、床の聖印が淡く光った。
鎖の刻印が彼の足首へ向かって線を伸ばす。触れれば、縛ろうとする。
ショウマは《結界操作》で、その線を叩き落とした。
光が空振りして床へ戻る。
「礼拝所の蛇口は止めた。鎖の加護は弱まってる。……残るのは、ここだ」
リュシエンヌは微笑んだまま、瞳を細めた。
「ええ。祈りが途切れてから、鎖が“わたくし”へ戻ってきましたの」
自覚している。
鎖の芯にされたことも、今の状態も。
「……申し訳ございませんわ」
次の言葉は、少しだけ呼吸が乱れた。
「少し……目眩が。飢えが、もう……」
飢えの波が上がる。
視線がまた、レアへ向きかける。首筋、手首、動脈の位置。
理性が押し返す前に、獣が先に動こうとする。
レアが一歩退き、短剣の刃先を下げたまま身構えた。
戦う構えじゃない。飛びかかられた時に、致命を避ける構えだ。
「……姫」
レアが低く言う。
「今は味方。分かる?」
リュシエンヌは微笑みを崩さない。
だが唇が少しだけ開き、犬歯が覗いた。
ショウマは舌打ちを飲み込み、迷わず自分の掌を切った。
薄い刃で、浅く。だが確実に。
血が滲む。熱い。
ダークエルフの器を流れる血――長命種の魔力と、三十人分の権能を抱えた血。
「落ち着け」
ショウマは掌を差し出した。
「……こっちを使え」
リュシエンヌの瞳が揺れた。
香りを嗅いだ瞬間、令嬢の仮面がひび割れる。
それでも、最後の一線は貞淑さが保った。
「まぁ……」
囁きが、震えた。
「なんて……濃い……のでしょうか……」
彼女は鎖に縛られたまま、上体だけを前に倒し、ショウマの掌に唇を寄せた。
そして、少量だけ啜る。
吸血は、音がしない。
ただ、熱が奪われる感覚だけが確かにある。
リュシエンヌの肩が小さく震えた。
瞳の赤が濃くなり、次にすっと澄む。
暴れる前に、理性が戻った。
「……あぁ。これで……」
息を吐く。
その瞬間、部屋の空気が変わる。
鎖が、軋んだ。
聖印が、怒ったように光る。
だが同時に、リュシエンヌの線が太くなる。干からびた川に水が戻るみたいに。
――そして、彼女の瞳の奥で、何かが“見た”。
ショウマの中の記憶が、血を介して断片的に漏れる。
雨の校舎。
黒板の出席欄に書かれた二文字――「不要」。
スマホ画面の罵倒の波。笑い声。
胸に刺さる痛み。冷たさ。
暗闇の中で、無感情な“神”と向き合う孤独。
リュシエンヌは、微笑んだまま目を閉じた。
そして、ゆっくりと目を開く。
「あなた……この世界の方ではありませんのね」
声が、確信を帯びていた。
見たのは断片だけ。だが感情の温度は十分だったのだろう。
「それでも“悪”を名乗るのですか」
皮肉ではない。興味と敬意が混じった声。
「ご趣味が、よろしくてよ」
「悪趣味には慣れてる」
ショウマは掌を引っ込め、血を結界で止めた。
傷は浅いが、今は動きやすさを優先する。
「立てるか」
「ええ。……今のわたくしは」
リュシエンヌは、胸元の鎖に目を落とした。
そこに刻まれた聖印が、さっきよりも弱く震えている。
「血を得たことで、“過剰回復”が走っておりますの」
自覚している。
オーバーヒール。全盛以上。だが――
彼女は、胸のあたりへ指先を当てた。
そこだけ、ほんの少し痛みを含んだ顔になる。
「ただし、聖なる傷は……完全には消えませんわね」
「そこは残る。だから暴れるなよ」
ショウマが言うと、リュシエンヌは上品に笑った。
「暴れませんわ。……少なくとも、味方には」
ショウマは頷き、契約系の権限を一度だけ噛ませる。
言葉にしない契約。血に触れたことで繋がった“線”を、軽く結ぶ。
(味方を狙わない。暴走の兆しが出たら、結界に従う)
代わりに(必要な時は血を貸す)。
あくまで“今夜だけ”の簡易。
リュシエンヌの瞳が、僅かに細まった。
契約を理解している顔だ。
「まぁ。意地悪ですのね、影の魔将殿」
「悪なんでな」
次の瞬間。
彼女は、鎖を――自分で解き始めた。
聖印を指でなぞり、意味をほどく。
鎖に刻まれた“縛る”の命令が、内側から逆回転する。
ミシミシ、と嫌な音。光がひび割れ、破片が霧のように散った。
ショウマが外側の結界で“鍵”を殺し、
リュシエンヌが内側から“封印”をほどく。
二人で同じ錠を内外から回した形になる。
最後に、太い鎖が床へ落ちた。
金属が鳴るはずの音は、ショウマの結界が吸った。
リュシエンヌは、ゆっくり立ち上がる。
次に起こったのは、服の変化だった。
ボロ布が、血の魔術で“皮膜”に置き換わる。
魔力が薄い膜となって身体を包み、そこへ意匠が刻まれる。
レース、金糸、黒紫の紋。
豪奢な貴族の服――そして、戦える強度を持ったドレスアーマー。
“夜麗姫”が戻ってくる。
空気が一段、整う。
リュシエンヌは優雅に歩み、ショウマの前で足を揃えた。
そして――完璧なカーテシー。
「魔王軍四天王、リュシエンヌ=ノクティル」
静かな声。
「救援に深く感謝いたしますわ。影の魔将殿」
レアが目を細める。警戒は解けないが、敵意もない。
ショウマは短く頷いた。
「感謝は後でいい。今は脱出だ」
「ええ。……それと」
リュシエンヌが、さらりと言った。
「日中も活動はできますわ。夜ほどではなくてよ。
……日輪は嫌いですけれど、致命ではありませんの」
「便利だな」
ショウマが言うと、彼女は微笑む。
「ただし、夜のわたくしはもっと強い。
あなたの血が、今ならそれを“越えさせる”」
自覚している。
オーバーヒールが今だけの“贈り物”だと。
「反動は来る?」
「来ますわ。ええ、きっと」
さらりと笑って言うのが、逆に怖い。
「だからこそ、今夜は働きますの」
◇
最奥区画から出た瞬間、因果が変わった。
鎖の“芯”が抜けた。
礼拝所の蛇口を止め、最奥の心臓を取り戻したことで、鎖の線がぷつぷつと切れていく。
坑道の奥から、微かなざわめきが返ってくる。
「……痛くない」
誰かの声。
鎖の焼ける痛みが、一段ごそっと落ちたのだ。
ショウマは走らない。
レアが前に出て、捕虜の列を作る。動ける者から順番に。
ショウマは要所の鎖の刻印を抜き、動ける者を増やす。
リュシエンヌは落ち着いた声で、捕虜たちに言った。
「静かに。走りませんの。
……ここで騒げば、光はまた鎖を締めますわ」
その声には、不思議な説得力があった。
同じ鎖に繋がれていた者の言葉だからだ。
捕虜たちの目に火が戻る。
だが叫びは上げない。
今は戦いではなく、脱出だと理解した。
――その時。
最奥区画の奥で、“鐘”が鳴った。
音ではない。
聖印そのものが震え、空間を叩くような鳴動。
封印破断の警報。人間側の術式が、「異常」を周囲へ告げる合図。
ショウマの顔が引き締まる。
「来るぞ」
坑道の向こうから、足音が響いた。
複数。監督役の靴音。怒号。鉄の鳴る音。
「何の音だ!?」
「中を見ろ! 封印が――!」
レアが即座に捕虜の肩を押す。
「列を作って。前へ。転ぶな」
リュシエンヌは微笑んだまま、瞳の赤を一段濃くした。
「まぁ。お迎えが早いこと」
ショウマは弓へ手を伸ばしながら、結界の膜を坑道に張り始める。
脱出戦が始まる。
夜の鉱山は、まだ終わらない。




