第22話 影の魔将、祈りと鎖を断つ
礼拝所の扉は、薄い木板を鉄の帯で補強しただけの粗末なものだった。
だが、隙間から漏れる光だけは妙に清潔で、そして――不快にまぶしい。
ショウマは指先で扉を押し、きぃ、と鳴りそうな継ぎ目を《結界操作》で撫でて音を殺した。
レアが背中で壁に張り付き、短剣を逆手に握る。合図は要らない。互いの呼吸だけで十分だ。
扉が開く。
中は狭い石造りの室内。外より少し暖かく、甘い香が漂っていた。香油――祈りのための匂いだろう。
正面に簡素な祭壇。布ではなく硬い白い板で作られ、上には小さな塔型の聖具が置かれている。水晶とも金属ともつかない材質。周囲には粉雪みたいな光の粒がふわりと舞い、床の文様へ溶けていた。
床の文様は、鎖の輪を模した円環。そこから細い線が幾重にも伸び、壁を伝って、鉱山の方向へ向かっている。
つまりここは、鎖の“蛇口”だ。
そして、その蛇口の前で――小柄な神官が跪いていた。
白い法衣、金の小さな聖印。背中をこちらに向け、両手に掲げた聖印具に向かって、途切れない祈りを注いでいる。
「……光よ、悪しき魔に連なる者を縛り、其の心を折れ――」
その言葉が耳に入った瞬間、レアが滑り込んだ。
影が影を踏む。短剣の柄で後頭部を打つでもなく、喉を裂くでもなく――口を塞いで、顎を引く。声を潰すための動き。
神官がびくりと跳ねたところへ、ショウマの結界が床から立ち上がった。
透明な枷が足首に絡み、膝に、腰に、腕に――動作の自由を奪う。
神官は祭壇にすがろうとしたが、指先が届く前に、結界の“縄”が肘を締めた。
「んぐっ……!」
潰れた悲鳴。
祈りの声が途切れ、礼拝所の光が一瞬だけ揺れた。蛇口の水圧が乱れるように。
レアが神官の耳元で囁く。
「騒いだら、舌を抜く。分かった?」
優しい声なのが、逆に怖い。神官の喉がこくりと鳴った。
ショウマは祭壇の前に立ち、因果の視界を落とした。
線。束。流れ。
この部屋には、「祈り」という言葉で隠した命令線がある。光を降ろし、鎖へ流し、捕虜の身体と心を削り続ける線。
(構造は単純だな。祈りで増幅して、まとめて投げてる)
捕虜ひとりひとりに術者が触れているわけじゃない。
ここから流し込む。鎖の文様が配管になっている。
「……お前、これを“加護”って呼んでるんだな」
ショウマが神官を見下ろすと、神官は恐怖で目を見開いた。
こちらの姿は、人間からすれば“悪しき魔”の象徴だろう。長耳。灰がかった肌。闇色の瞳。
しかも今は、影の中から現れている。
「っ……あ、悪しき魔に……連なる者……」
言いかけた瞬間、レアが口を塞ぎ直す。
ショウマは肩をすくめた。
「その台詞、教会のテンプレか? 便利だな。何でも“悪”にできる」
神官の視線が祭壇へ、必死に逃げる。祈りを続けたいのだろう。鎖を締め直したいのだろう。
だがショウマは、わざと祭壇の上に指を置いた。
「確認だ。ここから坑道の鎖に流してる。合ってるな?」
神官は震えながら頷くしかない。
ショウマはその線の揺れを見た。嘘をつく余裕もない。そもそも、嘘をつくほど頭のいい歯車ではない。
「よし。お前は寝てろ」
ショウマが結界を少し締めると、神官の瞼が引き攣った。拘束は強くするが、呼吸は奪わない。殺さない。
レアが短く言う。
「消さないの?」
「こいつは“祈り係”だ。鎖の命令を決めたのは、もっと上だろ」
「上の人はここにいない?」
「いない。だから、ここは“根元”だけ抜く」
ショウマは祭壇へ向き直った。
塔型の聖具。その横に、光る欠片がいくつか。小さな核のようなもの。
視界の奥で、嫌な既視感が一瞬だけ走った。
(……潰して固めた線)
ほんの一刹那。
人の輪郭が押し潰され、薄い板みたいになって重ねられている、あの手触り。
まだ確信じゃない。だが、混ざっている。確かに。
「気分悪い玩具だな」
ショウマは低く呟き、塔型の聖具を《結界操作》でそっと包んだ。
叩き割れば早い。だが、ここを壊した瞬間に“最後の命令”が鎖へ走る可能性がある。捕虜を殺せ、力を振り絞れ、逃げる者を焼け――教会はそういう命令を平気で仕込む。
「……段階だ。まずは信号線を止める」
ショウマは床の鎖文様をなぞり、そこから伸びる光の線を目で追った。
途中で細い分岐がいくつかある。鎖が複数系統に分かれている証拠だ。
「レア。扉の外、見張り箱はそのまま維持。音も匂いも漏らすな」
「了解」
レアが扉の隙間から外を確認し、すぐ戻る。焚き火の方は静かだ。箱の中の連中は眠ったまま。
ショウマは分岐点に、小さな結界を“差し込んだ”。
まるで、配管の途中に栓をするみたいに。
光の線が一瞬ふらつき、床の文様に戻っていく。鎖へ届かない。
神官が目を見開いた。祈りを再開しようと喉を鳴らすが、レアがその口元を軽く押さえる。
祈っても、届かない。蛇口は回っているのに、配管が詰まっている。
「次。核を抜く」
塔型の聖具を包んだ結界の中で、ショウマは“意味”だけを削った。
物質を壊すんじゃない。機能を壊す。
祈りの命令線が、束になって絡んでいるのを一本ずつほどく。縛る線を優先して抜く。守る線はどうでもいい。そもそも捕虜を守っていない。
「……“守る”と“縛る”が同じ束になってる。嫌な作りだ」
指先で空をなぞるたび、光の粒がしゅるりと萎む。
祭壇の上の聖具が、ただの石に戻っていく感触。
最後に、ショウマは結界を閉じた。
礼拝所の光が、ふっと弱まった。
窓から漏れていた清潔な眩しさが、薄い灯火程度に落ちる。
同時に、ショウマの因果視界の中で――坑道へ伸びていた線が、きしんだ。
鎖が鳴る。
重さが、少しだけ抜ける。痛みが、一段階和らぐ。
ショウマは、祭壇の脇にあった光る欠片を二つ、布で包んで袋に落とした。
グルドが喜ぶだろう。こいつの中身が何であれ、解析材料になる。
ただ、触りたくはない。あの“潰して固めた線”が本物なら、なおさら。
「礼拝所は壊さない」
レアが小声で言う。
「形が残ってたほうが、人間も安心するから?」
「中身の抜けた安心ほど、都合のいいもんはない」
ショウマは神官を見下ろした。
恐怖で涙が浮かんでいる。だが、命を乞う声は出せない。結界とレアの手が押さえている。
「お前は、そのまま朝まで祈ってろ。届かない祈りをな」
残酷に聞こえるが、殺すよりずっと軽い。
ショウマは扉へ向き直った。
「次は坑道だ」
レアが頷く。
二人は礼拝所を出た。外気は冷たく、焚き火の匂いが弱い。
門前の見張りたちは透明な“箱”の中で眠り続けている。揺すっても起きないように、結界の圧を少し強めたままにしてある。
鉱山口は、ぽっかりと口を開けていた。
捕虜は鎖で繋いであるから、門を閉める必要がない。
その油断が、今夜はありがたい。
ショウマは鉱山の闇へ踏み込んだ。
湿った冷気が肌を撫でる。音が反響しやすい。
だから《結界操作》で足音を吸う。空気の膜を薄く張り、音を布に包むように殺す。
坑道の奥から、規則的な音がする。
がつん。がつん。
ツルハシ。
掘る。掘る。掘る。
しばらく進むと、薄暗い灯りの下に、魔族と魔物の捕虜たちが見えた。
鎖。足枷。首輪。腕輪。
金属に光の文様が刻まれ、それが皮膚をじわじわ焼いている。
だが今は、その痛みが少し弱いのだろう。捕虜たちの呼吸が、わずかに楽そうだった。
「……軽い?」
誰かが、小さく呟いた。
鎖を引く音が、いつもより乾いた。
レアが影のまま背後に回り、耳元へ囁く。
「動かないで。今、鎖を外す」
捕虜がびくりとしたが、叫びはしない。
その目は、まだ戦える目だった。
ショウマは近づき、足枷の文様に指を置いた。
因果視界で“縛り線”を掴み、一本だけ抜く。
すると光がすっと消え、ただの金属の枷になった。重さは残るが、焼ける痛みが消える。
捕虜が息を呑んだ。
「……魔王軍、か」
声が震えている。信じたいのに信じきれない声だ。
「静かに」
ショウマは短く言った。
「今は逃げるな。動けるやつから順番を決める。騒いだら全員死ぬ」
冷たい言い方だが、嘘じゃない。
ここで叫べば、人間の監督役が来る。最悪、鉱山口の外へ走り、礼拝所へ戻り、鎖へ“最後の命令”を投げる。
捕虜を殺せ、と。
レアも続ける。
「まず、足を動かせる人から。弱い人は後。今は我慢して」
捕虜の中の何人かが、ぎゅっと唇を噛んで頷いた。
血の味を飲み込むみたいに。
ショウマは二人、三人と文様を抜いた。
外れた枷はそのまま。音が出るから外さない。
重要なのは、“光の縛り”だけ消すこと。身体が動けば十分だ。
「一気に全部外すと、パニックになる」
レアが低く言う。
「動ける人が走り出したら、動けない人が踏まれる」
「分かってる。叫びそうなやつは後回しだ」
ショウマは淡々と言う。
「逃げるより先に声が出るやつは、“今”はいらない」
冷酷に聞こえるが、これは作戦だ。
救出は“善行”じゃない。戦いの一手だ。ここで全員を救えなければ、結果的に誰も救えない。
鎖の文様を抜いていくうち、ショウマはふと足を止めた。
因果の線が、逆流している。
礼拝所の蛇口を止めたことで、鎖の“負担”がどこかへ戻っている。
それは坑道の奥――あの“最奥”だ。
「……やっぱり根っこは奥か」
ショウマが呟く。
レアが眉をひそめた。
「空気が変だね。冷たいっていうより……刺す」
「封印術式が濃い」
二人は坑道をさらに進んだ。
捕虜たちの姿が減る。監督役の人間の足音もない。
代わりに壁に、光の聖印が増えていく。床に鎖の痕。天井に吊られた鉄具。
ここは“労働の場”じゃなく、“封じる場”だ。
ショウマの因果視界には、一本だけ異様に濃い線が見えていた。
枯れているようで枯れていない。
動いていないのに、周囲の線を支配していた痕跡がある。
まるで鎖の“心臓”。
「ここまで来ると、“ただの捕虜”って雰囲気じゃないな」
ショウマが言うと、レアは短く頷いた。
「心臓を抑えれば、鎖は全部止まる」
「心臓がこっちに牙を向けたら、面倒だがな」
「面倒なものほど、価値はあるよ」
そして、最奥区画の前に辿り着いた。
重い鉄扉。
表面には聖印が幾重にも刻まれ、鎖と錠前で厳重に塞がれている。
だが、人間の見張りはいない。術式と封印具だけで足りると判断したのだろう。
ショウマが扉へ手を伸ばす。
鉄が冷たい。だが、その冷たさの奥に――別の気配があった。
血。
甘い香り。
そして、息を潜めたような“飢え”。
因果視界の中で、濃い一本の線が、わずかに震えた。
礼拝所の蛇口が止まり、鎖が緩んだことで、あちらもこちらの気配を感じたのだ。
「……奥にいるのは、鎖の芯か。それとも」
ショウマは錠前に指をかけた。
レアが半歩後ろで、短剣を構える。
「悪趣味な収蔵品ってところか」
錠前が、かすかに鳴った。




