第20話 影の魔将、鎖の音を地図に刻む
森でのあの戦いから、ひと月が過ぎた。
北方の風は相変わらず冷たいが、血の匂いだけは少し薄くなっている。
「また様子見ってところか」
ショウマは、枝の上から森の縁を見下ろした。
背中には樹皮の感触。足場代わりの枝が、わずかにきしむ。
木々の影の向こう、少し離れた丘に、人間の斥候が数人。
旗も上がっていない。鎧の数も少ない。
森の手前で足を止め、遠巻きにこちらの様子をうかがっている。
「来るでもなく、帰るでもなく、ね」
隣の枝に、レアが腰を下ろした。灰銀の髪が、風に揺れる。
黒い長耳が、かすかな鎧の音を拾って動いた。
「主力は後ろの砦に籠もったまま。ここしばらく、こんな小競り合いしかないわ」
「勇者様がいなくなると、どうにも腰が引けるらしい」
ショウマは、丘の上の聖騎士たちを眺めた。
彼らの線は、森に踏み込むところまで伸びていない。
近づいては戻り、戻ってはまた別の場所から覗く。
そんな線が、何本も往復している。
「で、あれが怖がってるのは、森か? それとも“光の誤爆”か?」
「両方じゃない?」
レアは、少し肩をすくめた。
「森に入れば、影走りの罠がある。光を撃てば、自分たちの陣地ごと焼ける。
……普通に考えたら、近づきたくないでしょ」
「同情はしないけど、理解はするな」
ショウマは、枝から軽くぶら下がり、静かに地面に降りた。
森の中の空気は、ひと月前より静かだ。
木々は焦げ跡を残しつつも、新しい芽を出し始めている。
それでも、焼けた匂いは完全には消えていない。
「で、勇者様から聞いた“鉱山の話”は、どうなった?」
ショウマの問いに、レアは軽く頷いた。
「北境の古い鉱山ね。影走りで確認した。
魔族と魔物の捕虜が、鎖で繋がれて働かされてる」
「数は?」
「見えただけで三十……四十。それ以上にいるかも。
坑道の中までは、まだ潜り込めてない」
ショウマは、まぶたの裏に、ユウキとの会話を浮かべた。
『捕虜にした魔族? 北側の鉱山で穴掘らせてるだけだよ』
あのときの口調。“だけ”と言ったときの、わずかな揺れ。
『危なくなったら、光でまとめて焼けばいいだろ。
聖なる加護があるんだからさ』
何でもないことのように吐き出そうとして、吐き出しきれていなかった言葉。
「……“穴掘らせてるだけ”ね」
ショウマは、足元の土を軽く蹴った。
因果の視界を広げる。森の北側へ、線を伸ばす。
遠く。
山。
古い地下道。
冷たい岩の中に、細い線がいくつも絡まっている。
痩せた手足。擦り切れた鎖。血と汗の匂い。
暗闇の中で、短く切れかけている魔族たちの線。
「“だけ”にしては、ずいぶん音が重いな」
鎖が擦れる音が、耳鳴りのように響いた気がした。
「ミラに持ち帰って、正式に話そう。
森を守るだけじゃ、窮屈で仕方ない」
「あなた、そう言うと思った」
レアが、口元にわずかな笑みを浮かべる。
「影走りとしても、放っておきたくない話だしね。
鎖に繋がれたまま働かされてるなんて」
「じゃ、決まりだ」
ショウマは森の奥へと歩き出した。
木々の影が、二人の姿を呑み込んでいく。
「森は、ひとまずこっちのものだ。
次は、鎖を取り返しに行く」
◇
魔王城の作戦室。
壁一面に古い地図が貼られ、その上から新しい紙片が重ねられている。
机の上には、粗い線と印で描かれた“世界の輪郭”が広がっていた。
「――北境の古い鉱山、ね」
ミラが、指先で一箇所をなぞった。
そこには、急いで描き足された山の記号と、小さく「鉱山」と記されている。
机の片側にはショウマとレア。
反対側には、ミラとグルドが立っていた。
「昔、人間どもに奪われた銀鉱の一つじゃ。
その後、魔力を帯びた鉱石も掘り出されるようになったと聞く」
グルドが、古い地図の端をめくりながら言う。
「魔族が攻め返したことは?」
「ない。あの辺りは、地の利が悪い。
山道は狭く、人間どもは上から光を降らせる。
攻める側には、分が悪い土地じゃ」
「だからこそ、捕虜を押し込むには好都合な場所、ってわけね」
ミラの瞳に、苛立ちの光が宿る。
「影走りの報告では、魔族と魔物の捕虜が三十から四十。
坑道の中を含めると、その倍近くかもしれない。
見張りは聖騎士と徴募兵。小さな礼拝所も併設されているそうよ」
「礼拝所……」
ショウマは、そこに小さな印を付けた。
「どうせ、“光の加護”とやらを鎖にかけてるんだろ。
逃げないように、力を削がないように。
便利な言葉だな、“加護”って」
「その“加護”とやらを、今回は剥がしに行くわけか」
グルドが、楽しそうに目を細めた。
「勇者から聞いた話と、影走りの報告が重なるなら――
あそこは、見過ごしてよい場所ではない」
「そうね」
ミラは、一度目を閉じてから言った。
「魔王軍としても、捕虜を見捨てていいとは思えない。
ただでさえ兵が足りないのに、働かされて削られていくなんて」
「兵の数だけじゃない」
ショウマは、地図から目を離さずに言った。
「“仲間を取り返す戦い”ってのは、理由が分かりやすい。
森を取り返したときより、兵は動く」
ドルガの顔が脳裏をよぎる。
あいつなら、こういう話には真っ先に飛びつくだろう。
「行くのは、私とレアだ」
ショウマは、淡々と言った。
「大部隊を動かせば、鉱山ごと光で焼かれかねない。
少数で潜り込んで、鎖を断つ。
出口を確保したら、一気に連れ出す」
「あなたと、レアだけ?」
ミラの眉がわずかに寄る。
「他に誰が行けば、目立たない?」
ショウマは肩をすくめた。
「俺の結界とレアの影走りがあれば、普通の小隊くらいならどうにかなる。
派手にやるなら、ここじゃないほうがいい」
「……陰湿」
レアが、ぼそりと挟んだ。
「褒め言葉だって」
ショウマが返すと、ミラはため息をひとつ吐いた。
「分かったわ。
魔王軍としても、捕虜を見捨てたくないのは同じ。
ただし――帰ってくること前提で計画して」
「死にに行くつもりはない」
ショウマは、ミラの目を見る。
「俺は“悪”だけど、無駄死にする趣味はない。
鎖を断って、使える戦力を取り返して帰ってくる。
それが、今回の仕事だ」
「……なら、魔王として命じる」
ミラは姿勢を正した。
その背後、玉座の影から、聖炎に焼かれた魔王マギアがこちらを見ているのが分かる。
「影の魔将ショウマ。影走り隊長レア・シルバ。
北境の鉱山に捕らわれた魔族・魔物を救出し、
可能な限り人間どもの“光の鎖”を断ってきなさい」
「拝命、ってやつか」
ショウマは片手を胸に当てた。
レアもそれにならう。
「任せて。
鎖を断つのは、影走りの仕事だから」
「こちらも、城で待機する」
グルドが言う。
「遠見の結界を張り、何かあればすぐ援護を送れるようにしておこう。
ミラ様と共に、汝らの線を見守っておる」
「見られてると思うと、あんまり変な死に方できねぇな」
ショウマは苦笑した。
「期待に応える程度には、陰湿にやってくるよ」
◇
夜の作戦室は、昼間とは別の顔をしていた。
蝋燭の光が少なくなり、代わりに魔石のランタンが静かな光を落としている。
地図の上には、小さな石駒と印がいくつか置かれていた。
鉱山。
礼拝所。
見張り塔。
そこから魔王軍側の森へ向かう、細い線。
「ここまでは影走りで行ける。
この尾根を越えた先からが、人間の監視ライン」
レアが、一本の細い線を指でなぞった。
「昼間は、弓兵と見張りが数人。
夜は、交代で焚き火の周りに寄り集まっているだけ。
油断してるってほどじゃないけど、緊張感は薄い」
「森での失敗が尾を引いてるか」
ショウマは、鉱山周辺の因果を覗き込んだ。
坑道の中で、規則的に動く線。
鎖の音に合わせて、上がったり下がったりする。
それに比べて、見張りの線は緩い。
表面だけをうろつき、坑道の奥には踏み込んでいない。
「見張りが中まで入ってないのは、悪くないな」
「どういう意味?」
「鎖の管理と祈りの管理を、分けてるってことだ。
鎖の加護は礼拝所のほう。
見張りは、出口の番だけ」
ショウマは、鉱山の入り口と礼拝所の間に小さな線を引いた。
「なら、礼拝所を潰せば、光の鎖はだいぶ弱くなる。
結界で封じてやれば、なお良し」
「礼拝所の神官は?」
「ユウキの話だと、ああいうところには“下っ端”が回されるらしい。
前線で大口叩いてた司祭ほど厄介じゃないだろ」
「それでも、“光の加護”は扱える」
レアの声に、警戒が混じる。
「油断したくない」
「油断はしない。
ただ、相手の線の強さは見ておきたい」
ショウマは、自分の指先を見た。
因果の線をなぞるたび、指先に「どれだけの力が乗っているか」が分かる。
森を焼いた聖界一掃の線に比べれば、
鉱山の礼拝所で扱われている光は、ずっと細いはずだ。
「やることを整理するぞ」
ショウマは、石駒をいくつか並べた。
「一つ。捕虜の救出。
鎖を外し、坑道から出す。
二つ。礼拝所の無力化。
光の鎖の加護を切る。
三つ。可能なら、聖具や聖骸核の回収。
聖教会の“玩具”は、こっちで研究したほうがいい」
「やらないことは?」
レアが問う。
ショウマは、そこで一拍置いた。
「降伏している雑兵の虐殺。
無抵抗の捕虜を盾にした戦い方。
あと――捕虜を見捨てて鉱山ごと潰すのも、やらない」
「最初からそこまで言ってくれるなら、安心して殿ができる」
「殿は最初からする前提なのやめろ」
「だって、殿は私の仕事だもの」
レアは、当たり前のように言った。
「でも、鎖に繋がれたまま放っておくのは、もっと嫌。
森で殿をやるのと、鎖に繋がれて働かされるのは、全然違うから」
「……そこは同意だな」
ショウマは、地図から目を離し、レアを見た。
彼女の瞳は、静かに燃えている。
「“悪しき魔に連なる者”ってのは、向こうの決めつけだ。
だからって、こっちまで同じやり方で仲間を潰す必要はない」
「じゃあ、仲間を取り返すために戦う悪には、喜んで従う」
レアは、少しだけ笑った。
「陰湿でもね」
「お前、その単語好きだな」
「あなたが似合うから」
「誉め言葉ってことで受け取っとく」
ショウマは、鉱山から森へ向かう細い線を、最後まで引いた。
救出した捕虜たちが通るであろう道。
同時に、人間の補給線に刃を入れるための“逆流路”でもある。
(森は奪い返した。
次は、鎖を断つ)
地図の上の線が、静かに輝いて見えた。
ショウマは椅子から立ち上がる。
「出発は、明日の夜明け前だ。
それまでに、影走りの装備だけ整えとけ」
「もう準備はできてるよ」
レアが立ち上がる。
灰銀の髪が、ランタンの光を受けて揺れた。
「殿も、救出も、ぜんぶやる。
影走りだもの」
「じゃ、魔王軍の新入りの悪も、ちゃんとやってくるさ」
二人は、作戦室を後にした。
夜の魔王城の廊下を、足音だけが静かに進む。
鎖の音が、遠くの山から微かに響いている気がした。
それを断つために、影の魔将と影走りは、闇の中へと歩き出す。




