第19話 焼けた森と、虚ろな勝利
森は、もう森とは呼べなくなっていた。
黒く立ち尽くす木の棒。枝は焼け落ち、幹は炭の柱と化している。地面はところどころ白く泡立って固まり、靴底で踏めば、ガラスを踏んだようにざりりと鳴った。
「……ひでぇな」
聖騎士隊長レオン・バルクの部下である小隊長が、焼けた幹にそっと手を触れた。指先に、黒い粉がつく。
鼻を刺す焦げ臭さ。鉄と肉が一緒に焼けた、重い匂い。
「魔族の死体は?」
「ほとんど見当たりません、隊長殿」
別の兵が、焦げ跡の間から兜を拾い上げる。聖騎士団の紋章。
「見つかるのは、こっちの装備ばかりで……」
足元には、焼けて縮んだ鎖帷子。折れた剣。溶けた盾の装飾。
そこかしこに、「そこに人がいた」痕跡だけが落ちている。
一方、魔族側のものと思しき残骸は、驚くほど少なかった。
「魔族は、ほとんど逃げたか、最初からいなかったか……そんなところか」
小隊長が、苦い顔で呟く。
「これで“魔族に大打撃”って、どう書くんだか」
「報告書には“魔族多数撃破”って書かれるんでしょうね」
若い兵が、声を潜めて笑った。笑いというより、乾いた音だ。
「上の方は、数を盛るのが好きですから」
「聞こえるぞ」
小隊長が軽く睨むと、兵は肩をすくめた。だがその目には、笑いも反省もなかった。
「高城様の痕跡は?」
「こちらに、マントの切れ端らしきものが」
兵が拾い上げた布切れは、ところどころ黒く焦げている。縁の刺繍に、勇者の紋章。
「血は?」
「……見当たりません。鎧の破片も、これといっては」
小隊長は、短く息を吐いた。
「峡谷に落ちたって話だ。下まで転がり落ちてたら、そっちのほうが探しようがないか」
「高城様なら、生きてるって声もありますけどね」
「生きてりゃいいがな」
小隊長は、あえてそれ以上何も言わなかった。
ふと、別の兵が焼け跡の端を指さす。
「隊長殿。あそこ、変じゃありませんか」
「どこだ」
「あの辺りです。聖界一掃の範囲なのに、何か……焼け方が違う」
示された先には、地面がわずかに盛り上がったような跡があった。
焼けている。だが、一帯を覆っていたはずの光の威力が、そこだけどこか緩んでいる。
「見えない壁にでも、守られてたみてぇだな」
兵の一人が、冗談めかして言った。
「昨日、生き残った奴が言ってましたよ。森が、罠みたいに動いたって」
「罠?」
「足元の土が急に崩れたり、見えない壁にぶつかったり。光が跳ね返ってきたって言ってたやつもいました」
違う、と小隊長は思った。跳ね返ってきたんじゃない。向きが変えられたんだ。だが、それを言葉にすることはない。
「影の中に、誰かいたって話も聞きました」
若い兵が、声を潜める。
「姿は見えないのに、笑い声だけ聞こえたって。光がこっち向いた時、そいつが“楽しそうに笑ってた”って」
「影の中を歩く魔族の将、か」
小隊長は鼻を鳴らした。
「酒場の怪談にしちゃ、でき過ぎだな」
「でも、名前がつき始めてるみたいですよ。前線の連中の間で」
「名前?」
「影を歩く魔王軍の幹部。“影の魔将”だって」
兵たちの間に、小さなざわめきが走った。恐怖と、どこか現実味のない興奮とが混じった音だった。
「……噂話はあとだ」
小隊長が区切る。
「高城様の痕跡と、味方の遺品を優先して回収しろ。魔族の死体がほとんどないことも、ちゃんと書き留めておけ」
「そんなの、上で書き換えられるだけじゃないですか」
「だったら、元の数字が残ってるほうがマシだろ」
小隊長は、焼け野原を一望した。
「何もなかったとは、誰にも言わせねぇよ」
◇
前線本部用の大きなテントの中は、妙な熱気に包まれていた。
外の空気は冷えているのに、ここだけは妙に暑い。油と紙の匂い。祈りの香と血の匂いが混ざり合っている。
長机の向こう側に、聖教会の司祭セルベルトが座っていた。豊かな金髪を後ろで結び、白い法衣の上から金糸のストールを垂らしている。その指は、報告書の束を軽く叩いていた。
「――以上が、森掃討戦の戦果であります」
書記官が読み上げる声を聞きながら、聖騎士隊長レオン・バルクは黙って立っていた。
自軍損害。戦死者。行方不明者。負傷者。
数字が、淡々と並べられていく。
「魔族側の死体確認数、十数。焼却により判別不能な物も相当数存在すると推測されます」
そこだけ、わずかな濁しが入る。
「聖骸核の使用数は十。うち三は過負荷により崩壊。残りも光量が大きく低下しております」
セルベルトは、ゆっくりと頷いた。
「ふむ。魔族どもは、森を失い、拠点を焼かれた。これは大きな前進です」
レオンは、手元の報告書に目を落とした。
魔族の死体確認数「十数」。
味方の戦死・行方不明は、その数倍。
聖骸核は十本消費。そのうち三本はもう使い物にならない。
「……確認ですが」
口を開いたのは、レオンだった。
「この数字で、“魔族に大打撃”と記録するおつもりですか」
テントの中の空気が、わずかに張り詰める。
セルベルトは、穏やかな笑みを崩さずにレオンを見る。
「もちろんですとも、レオン隊長。森を失うことは、魔族にとって大きな痛手です。彼らは森と共に動く。森を焼いたということは、魔族の戦意を焼き払ったも同然」
「しかし、敵の死体確認数は――」
「魔族どもが焼ける前に逃げ出したのでしょう」
セルベルトは軽く肩をすくめた。
「逃げるということは、恐れを抱いたということです。光の軍勢が彼らに恐怖を刻み込んだ。それこそが勝利なのです」
「……は」
レオンは、一応の相槌を打った。
納得したわけではない。だが、ここで真正面から否定しても、何かが変わるとは思えない。
「それに、今回は勇者・高城殿のご活躍もあった」
セルベルトは、わざとらしく天を仰ぐ。
「彼の放った聖界一掃は、森の一角を一撃で消し飛ばした。我らの陣地まで巻き込んだのは、残念なことではありますが……」
「“残念”で済ませるおつもりですか」
レオンは、思わず言葉を挟んでいた。
「高城殿は前線の要でした。彼とその部下たちが築いていた防衛線を、自軍の光で焼き払う必要が、本当にあったのでしょうか」
セルベルトの笑みが、ほんの一瞬だけ薄くなる。
「勇者は、光のために命を賭す存在です」
声には、微かな棘が混じっていた。
「彼らの犠牲は、より大きな勝利の礎となる。高城殿も、きっと本望でしょう」
(本人の口から聞いたわけでもないのに、よく言える)
レオンは、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
焼け跡で見たものが、頭から離れない。
炭になった兵。溶けた剣。焦げた布。
彼らは、本当に“本望”でそこに横たわっていたのか。
「高城殿の捜索は?」
レオンは、問いを変えた。
「現在も行方不明。遺体は確認されておりません。峡谷に落ちた可能性が高い、との報告です」
「形式上は、捜索を続けましょう」
セルベルトは、さらりと言った。
「しかし、本陣をこれ以上この森に留めておくのは得策ではありません。魔族の反撃がない今こそ、戦線を整理し、次の作戦に備えるべきです」
「戦線を……引く、ということですか」
「言葉を選ぶなら、“再編”です」
司祭は、満足げに微笑んだ。
「聖界一掃により、我らは光の力を示した。魔族どもは森を失い、怯えて巣に籠もるでしょう。ここで無駄に聖骸核を消耗するより、一度聖都寄りの砦まで下がり、体勢を整えるべきです」
数字を見れば、撤退は妥当だ。
これ以上ここで小競り合いを続けても、聖骸核と兵だけが削れていく。魔族の主力は、影の中に姿を隠したままだ。
だが。
「……了解しました」
レオンは、絞り出すように答えた。
「本隊の撤退準備に入らせます」
「兵たちには、勝利の報告を。高城殿の栄誉も、しかと伝えてください」
セルベルトは、そこでようやく席を立った。
「彼の名は、きっと聖都の説教壇で語られるでしょう。光のために戦い、光の中に消えた勇者として」
(光のために、か)
レオンは、去っていく司祭の背中を見送った。
(誰の光のためなんだろうな)
◇
前線キャンプの中央にある空き地に、兵たちが整列していた。鎧は煤と血で汚れ、包帯を巻いた腕や脚が目立つ。
簡易の壇の上に、セルベルト司祭が立った。その斜め後ろに、レオンが控える。
「諸君」
セルベルトの声が、よく通る。
「我らはこの森において、邪悪なる魔族どもに大きな痛手を与えた」
ざわめきが、一瞬だけ広場を撫でて消える。兵たちの表情は、疲れ切っていた。
「勇者・高城ユウキ殿は、聖界一掃の光をもって、魔族の拠点を焼き払った。その輝きは、諸君もこの目で見たはずだ」
レオンは、兵たちの顔を眺めた。
あの光を、震えながら見上げていた顔。自分たちの陣地が焼けるのを見ていた顔。
「その戦いのさなか、高城殿の行方は、光の向こうへと消えた」
司祭は、両手を天に掲げる。
「だが、恐れることはない。勇者は神の兵。彼の身は、必ずや光に守られている」
(どこでどう守られているのか、具体的に言ってみろ)
レオンは、心の中で毒づいた。表情には出さない。
「彼の戦いと犠牲を無駄にしてはならない。我らはこの勝利を礎とし、次なる戦いへ備えるのだ」
勝利。
その言葉が、焼けた森と、黒い柱と、ガラスの地面と、一緒くたになってレオンの頭の中を回る。
「以上が、聖教会としての戦果報告である」
セルベルトが一礼し、後ろへ下がった。
代わって、レオンが一歩、前に出る。
「前線聖騎士隊長、レオン・バルクだ」
喉が少し乾いていた。だが、声はよく通る。
「命令を伝える。これより本隊は、後方砦まで下がる。負傷者と物資の整理を急げ。森での作戦は、ここで終わりだ」
兵たちの間に、安堵が走った。
帰れる。
この焼けた森から離れられる。
その感情は確かにあった。
だが同時に、「これで勝利と言われても」という空虚さも、同じくらい濃く漂っていた。
「各隊長は、順次撤退の順番と経路を確認しろ。以上だ」
レオンは短く締めくくり、一歩下がった。
拍手が起きる。
だが、それは士気の高さを示すものではなく、儀礼としての拍手だった。手と手が触れ合う音に、熱はない。
テントの裏手では、既に荷物をまとめ始めた兵たちが、小さな声で話していた。
「魔族、そんなに死んでたか?」
「俺たちの仲間ばっかり焼けてた気がするけどな」
「高城様だって、あの司祭に煽られて撃たされたんじゃねぇの」
「でも、あの光撃たなかったら、もっと死んでたって話も……」
「どっちにしても、焼けるのは俺たちだろ」
笑いとも愚痴ともつかない声が、焚き火の煙に紛れていく。
「なぁ、“影の魔将”って話、聞いたか」
別の兵が、声を潜めて言った。
「森の影の中にいて、光をいじった奴がいたって。高城様を狙ってたのは、そいつだって」
「本当にいるなら、あいつのほうがよっぽど“魔王軍の将”って感じするわ。顔も見えねぇのに、こっちの隊列ぐちゃぐちゃにしてきやがるんだから」
「……次は、あいつと正面からやり合うことになるのかね」
「その前に、光で焼かれなきゃいいけどな」
焚き火がぱちりと弾ける。
誰も、それにツッコミを入れようとはしなかった。
レオンは、少し離れた場所からその会話を聞いていた。聞こえないふりをしながら、全部耳に入ってくる。
(兵たちはもう、“魔族との戦い”だけを怖がってはいない)
森で焼けたのは、敵か、味方か。
誰の命が軽く扱われ、誰の言葉が重く扱われるのか。
その線引きが、はっきりと見えてしまった者たちの声だ。
夕暮れの空は、薄く曇っていた。
レオンは、その空を見上げる。
(本当に“光の戦い”なのか、この戦は)
聖教会の掲げる光。
勇者たちが振るう光。
聖界一掃で森を焼いた光。
(勇者も兵も、光の名のもとに焼かれて――それでも“勝利”と呼ぶのなら、それは誰のための勝利だ)
答えは出ない。
ただ、胸の奥に、鈍い重さだけが残った。
「隊長殿、撤退準備、整いつつあります」
副官が駆け寄ってくる。
「ああ、分かった。最後の部隊まで、置いていくなよ」
レオンは顔を下ろし、現実に視線を戻した。
焼けた森を背に、聖教会軍は静かに後退を始めた。
森を巡る小競り合いは、ひとまずここで終わる。
だが、焼け跡に残されたものは、消えはしない。
焦げた匂いと、虚ろな勝利の言葉だけが、しばらくこの場所に残り続けるのだろう。




