第17話 影の魔将と、神の見る夢
冷たい。
背中に触れている床が、じわじわと体温を奪っていく。湿った土と、石の硬さ。
(……どこだ、ここ)
重い瞼をこじ開ける。
薄暗い天井。粗く削られた岩肌。
洞窟。それも、自然じゃなく、誰かが手を入れた「穴」だ。
上体を起こそうとして――失敗した。
「っ……?」
足には何も絡んでない。鎖も枷もない。それなのに、一歩、前へ踏み出そうとした瞬間。
空気が、ぐにゃりと固まった。
膝のあたりで、見えない何かにぶつかった感触。そのまま体のバランスを崩し、前のめりに床へ突っ込む。
両手をつこうとしたが、それも何かに押し返された。
(空気……? 違う。これ、結界か)
胸から上だけ、見えない手で押さえつけられているみたいに動かない。足は動く。首も、ぎりぎり回せる。
だが、一歩前へ出ようとした瞬間に、目に見えない壁が立ちはだかる。
部屋全体は、そう広くない。土と岩の壁。隅には薄い寝台と毛布。簡素なテーブルと椅子が一組。
そして、その椅子に――人影が一つ。
「起きたか、勇者様」
低い声だった。
暗がりの中、ふっと灯りがともる。テーブルの上に置かれた魔石のランタンが、ぼんやりとした光を放ち始めた。
フード付きの黒い外套。長い脚を組んで、椅子にふんぞり返るように座っている。
影になっていて顔はよく見えない。だが、その輪郭だけで「人間じゃねぇな」と分かる耳と、長い指。
(魔族……)
高城ユウキは、奥歯を噛みしめた。
「魔王軍、ってやつか」
「そう呼ぶらしいな、そっちでは」
フードの下で、男が肩をすくめる。
「一歩で飛びかかろうとするあたり、根性はある。でもここは、“暴れたら床が抱きついてくる部屋”だから、あんまりオススメはしないぞ」
「ふざけんなよ……」
ユウキは、再び立ち上がろうとする。足には、何の抵抗もない。問題は、それより上だ。
胸を起こしたところで、見えない重りがのしかかる。肩から背中にかけて、ぐぐっと見えない手で押さえつけられたように、床から身体が離れない。
押し返そうと力を入れるたびに、床が余計に重くなる。
「おいおい」
椅子の男が、指先をひとつ鳴らした。空気がきしむ。ユウキの身体を押さえつける力が、さらに増した。
肋骨が悲鳴を上げる。
「っ、ぐ……!」
「言ったろ。暴れると、床が抱きついてくる仕様だって」
男は、あくまで退屈そうな声で言った。
「こっちとしても、逃げられると後始末が面倒なんでな」
力が、すっと抜ける。重しが軽くなり、ユウキはどうにか上体を起こした。
息が荒い。ただ床から起き上がろうとしただけで、この消耗だ。
(……やべぇな。マジで負けた側の捕虜ってわけだ)
喉の奥に、乾いた笑いがこみ上げてくる。
「で、あんたは何者だよ」
睨みつける視線の先で、男が少しだけ顎を上げた。
「肩書きで言うなら、北方戦線担当の魔将」
フードの影の奥で、目だけが笑っている。
「最近は、“影の魔将”で通ってる」
「魔将……ね。四天王の下くらいか?」
「お、話が早い。あとはそうだな――」
男は、わざとらしく間を置いてから言った。
「さっき、お前らの“光”をちょっといじったやつだ」
ユウキの背筋を、冷たいものが走った。
聖界一掃。聖骸核。焼けた森。味方の悲鳴。
あの白い光の向こう側に見えた、焼け野原。
「……お前かよ」
「どっちかって言うと、お前らのほうが自分で自分を焼いてたけどな」
男――影の魔将は、軽く片手を振った。
「俺は、ちょっと光の向きをいじって、“正義の光”を正義の側で浴びてもらっただけだ」
「正義の側、ね……」
喉の奥から、ひきつった笑いが漏れた。
「じゃあ、あれで焼けた奴らも“正義の側”だったってか」
「自分の言葉で肯定してくれるとは思わなかった」
影の魔将は、皮肉っぽく口の端を上げた。
「ま、そういう連中の話も一応聞きたいんでな。座れ、勇者様」
テーブルの向かい側。そこには、粗末な椅子が一脚。
見えない壁は、テーブルの手前で止まっているらしい。膝をつきながら慎重に動いてみると、そこまでなら何とか動けた。
椅子に腰を下ろす。目の前には、影の魔将。ランタンの光に照らされたフードの影から、瞳だけがじっとこちらを見ていた。
「勇者様、だったよな? 名前は――」
「言うと思うか?」
「高城ユウキ」
男はあっさりと口にした。
「二年三組。“二番手扱いの勇者様”。で、合ってるよな」
「……何で、俺のクラスまで知ってんだよ」
「線を見れば、大体分かる」
フードの奥で、男が指先を上に向けた。空中をなぞるように、何本か線を描く。
ユウキには、何も見えない。だが、そのたびに背骨の奥がぞわりと震えた。
「ま、今日はそんなに詰めない。お互い、顔見せみたいなもんだ」
影の魔将は、椅子の背にもたれかかった。
「ちょっと、話そうぜ。勇者様」
◇
話は、思っていたよりも淡々としたものだった。
拷問も脅しもない。殴られることも、今のところはない。
投げかけられるのは、拍子抜けするくらい普通の質問ばかりだ。
「“聖都”ってのは、ここから見てどっちだ?」
「……北東」
口が、勝手に答えていた。(やべ――)
「おお、素直だな」
「今のなし。教えるつもりは――」
「いいよ、もう分かった」
影の魔将は、肩をすくめる。
「北東。川を遡って、山脈の手前の盆地。そんな顔だ」
「顔で判断すんな」
「線の揺れ方もだ」
また、空中を指でなぞる。見えてはいないはずなのに、「何かに触られている」感覚だけが背筋を撫でた。
「勇者様は、お前だけか?」
「……さぁな」
「“高城様”以外にも、“何人もいる”って顔だな」
じわじわと、苛立ちが溜まっていく。
「お前、人の顔見て勝手に話進めるタイプかよ」
「便利なんでな。こっちは“光の使徒と称する人間達”について、まだまだ勉強中なんだわ」
影の魔将は、面倒くさそうに頭をかいた。
「聖教会ってやつは、お前らの国を全部まとめて仕切ってるんだろ? 戦の権限も、兵も、金も」
「……大体は、そうだよ」
言っても差し支えなさそうな範囲だけ、ユウキは吐き出した。
光を掲げる教会。それに連なる人間の国々。名目上は各国の王が治めているが、戦争と信仰と勇者の運用に関しては、ほぼ聖教会の一存。
そんな話を、ぽつ、ぽつ、と。
影の魔将は、淡々と聞いている。途中で口を挟むことも、責め立てることもほとんどない。ただ、時折指先で空を撫でて、何かの「線」を確かめているだけだ。
「……今日はこんなもんでいいか」
あるところで、男はふっと息を吐いた。
「え、もう終わりかよ」
「何だ、もっと話したかったのか?」
「そういう意味じゃねぇよ」
「今お前の身体、ボロボロだろ。聖骸核の光浴びて、自分の味方焼いて、そのあと落っこちてきたんだ」
脳裏に、焼けた森がよみがえる。白い光。黒い影。焦げた匂い。
喉の奥が、苦くなった。
「……うるせぇな」
「休ませないと、面白いものも出てこねぇ」
影の魔将は、ゆっくりと立ち上がった。椅子が軋む音。
「一日じゃ終わらないさ、こういう話は。聖教会の話も、お前ら“光の使徒と称する人間達”の話も」
さりげなく、ランタンに触れる。光が少し落ち、部屋の中がまた半分影に沈んだ。
「今日はここまで。寝ろ、勇者様」
「勝手に区切んな……」
毒づこうとした舌が、途中で重くなった。まぶたが、勝手に落ちそうになる。
「……何、した」
「ちょっと、結界に“眠気”を混ぜただけだ」
男の声が、遠くなる。
「今のうちに、ちゃんと寝とけ。起きてても、どうせロクなこと考えないだろ」
最後に聞こえたのは、その言葉だけだった。
ユウキの意識は、そのまま黒に沈んだ。
◇
「殺さないんだね」
結界牢から離れた通路。影走りのレアが、壁にもたれかかってこちらを見ていた。
灰銀の髪。長い耳。暗がりに溶けるような黒い瞳。
「殺すって言ってないだろ」
ショウマ――影の魔将は、肩をすくめる。
「さっさと殺してやるほど、俺は優しくない」
「やっぱり陰湿」
「お前、そればっか言うよな」
軽口を返しながら、ショウマは結界牢のほうへ一度だけ視線を向けた。ユウキは、もう完全に眠りに落ちている。部屋の中に薄く張り巡らせた結界の線が、それを教えてくれる。
(聖都、北東。川と山脈の盆地。勇者は何人も。聖教会が戦争のスイッチ)
さっき聞き出した情報が、頭の中で整理されていく。グルドやミラに話せば、すぐに地図の上に線が引かれるだろう。今日のところは、それで十分だ。
問題は――自分自身のほうだった。
「どうしたの」
レアが、じっとこちらを見る。
「さっきから、ちょっと変な顔してる」
「顔っていうか、性格っていうか」
ショウマは短く笑った。
「こっちに来てから、段々“俺”じゃない部分が増えてきてる気がしてな」
人を狩るときの高揚感。因果をいじって敵を焼かせたときの、ぞくりとする快感。どれも、前の世界の「影山ショウマ」にはなかったものだ。
「ダークエルフのせい?」
「多分な」
この身体の本能。長命種としての感覚。戦うことを当然としてきた種族の「器」。そこに、自分の人格が少しずつ溶けていく。それが、どこか怖かった。
「……一回、確認してぇ」
ぽつりと呟く。
「俺がまだ、“バランスを取る側”なのかどうか」
「誰に?」
「世界のバランス見てるやつ」
ショウマは、指先で空をなぞった。森の因果線を辿るときとは、逆方向へ。外の世界ではなく、自分自身の線に触れる。
魔王城。北方の森。聖骸核の光。そこから先へ。
魔王軍に呼ばれた夜。理の神と会った暗闇。さらに逆再生するように指を這わせる。
教室。ワイドショー。包丁。血の匂い。
その瞬間を越えたところで――何か硬いものに、指先が触れた。
◇
闇だ。
音もない。匂いもない。ただ、均一な「無」が広がっている。
前にも来たことがある。
「……来ちまったか」
ショウマが息を吐いたと同時に、声が落ちてきた。
『久しいな、汝』
どこからともなく響く声。だが、その声は、はっきりと「一つ」の存在を指している。
理の神。世界の「光」と「魔」の均衡だけを見ている存在。
『この世界における汝の線は、なお“必要な異物”として働いている』
淡々とした声。感情も評価もない。ただ事実だけを述べる声。
「質問に答える前に、それかよ。“必要な異物”、ね」
『何を確認しに来た、汝』
「俺は、まだ“こっち側”か?」
ショウマは、単刀直入に問うた。
「この世界にとって、俺はまだバランスを取る側か。それとも、そろそろ排除していいくらいの異物になりかけてるか」
少しの沈黙。世界が、線を数えているような静けさ。
『現時点において、汝は“魔側に寄った力”として光の偏りを補正している』
理の神の声が、また落ちてくる。
『この世界の理から見れば、汝はなお“必要な異物”である』
「“現時点において”か」
ショウマは、苦笑した。
「ダークエルフの身体に入ってから、段々“俺”じゃない部分が増えてきてる。人を削るのが楽しくなってきてる。森を狩場にするのも、ちょっとした遊びみたいに感じてる」
影走りと組んだ狩り。因果をいじって、味方を味方の光で焼かせた瞬間。あのぞくりとする感覚を思い出して、舌打ちしたくなる。
「これが“器”の問題なのか、それとも――お前から見て、俺が世界ごと潰しかねない線にズレてきてるのか。そこを知りたかった」
『器の因果は、宿り手の性質にも影響を与える』
理の神は、事務的に告げる。
『長命であり、戦うことを常とする種族の身体を選んだ時点で、その線は織り込まれている』
『それでもなお、自らの異物性を測ろうとする視点を保っている限り、汝はまだ均衡の一部だ』
「……ギリギリセーフ、ってことかよ」
肩の力が、少しだけ抜ける。同時に、自嘲の笑いが込み上げた。
「自分で怖がってるうちは、まだまともってやつか」
『恐怖もまた、線を保つ要素である』
まったく慰めにならない言い方だ。だが、それでいい。慰めが欲しくて、ここに来たわけじゃない。
「じゃあ、ついでにもう一つ」
ショウマは、話題を切り替えた。
「俺以外の“異物”はどうだ」
『光の使徒と称する人間達』
理の神は、即座に言い当てた。
『本来、この世界に呼ばれるべき異物は、一度に一つか二つで足りる』
『聖教会は、それをクラス単位で呼び込んだ。勇者。光の使徒。聖骸核の素材』
『数は過多であり、質も偏っている』
淡々とした評価。そこに怒りも非難もない。ただ「バランスとしておかしい」というだけの指摘。
『このまま戦が長引けば、この世界の理そのものが、汝らの元いた世界の理に侵食される』
「そいつは、ごめんだな」
ショウマは、短く吐き捨てた。
「じゃあ、その“異物”をどうするかって話になるわけだ」
『いずれ、そうなる』
理の神の声が、少しだけ硬さを増した。
『この世界から見て、過剰な異物を排除する方法は、おおむね二つ』
『一つは、この世界において線を断つこと』
殺す。
『もう一つは、汝らの元いた世界へ線を戻すこと』
戻す。
その言葉に、ショウマの脳裏に別の光景がよぎった。
ワイドショーのスタジオ。テロップ。「二年三組集団失踪事件」。
緩い笑い声。泣き叫ぶ母親。冷たい包丁。自分の胸に突き立つ感触。
「……戻す、ね」
思わず呟いていた。
「そっちでの“後始末”には、興味ないってことか」
『この世界は、この世界の理が見る』
理の神の声は変わらない。
『汝の生まれた世界は、その世界の理が定めることだ』
「ずいぶん、割り切ってんな」
『我は均衡を司る。善悪にも、感情にも、興味はない』
分かっていたことだ。理の神は、どこまでいっても「バランス」しか見ない。だからこそ、信用できる。少なくとも、この世界の線に関しては。
『いずれ、均衡がある程度戻った時点で、汝には選択してもらう』
静かな声が、続ける。
『この世界で異物の線を断つか、元の世界へ戻すか』
『そのとき、我は汝の選択を実現する門を開こう』
「宿題、ってやつか」
ショウマは、乾いた笑いを漏らした。
「分かった。そのときが来たら――俺が、“悪”としてどっちか選ぶ」
『汝の選択が、この世界の線を定める』
理の神の声が、少しだけ遠ざかっていく。暗闇がほどけ始めた。世界の輪郭が、再び戻ってくる。
◇
目を開けると、見慣れた天井があった。粗末な寝台。石の天井。魔王城の一室。
身体が、妙に重い。聖骸核の光をいじった反動と、さっきの夢の余韻が、骨の奥にひっかかっている。
「……“帰してやる”って選択肢も、あるわけか」
ぽつりと呟いた。
それが、救いかどうかは別として。
いや――
(少なくとも、“光の使徒と称する人間達”から見れば、救いに見えるんだろうな)
元の世界に帰れる。家族のところに戻れる。そう思うだろう。自分も、一度はそう思った。その先に何が待っているかなんて、知らずに。
「……性格悪ぃな、ほんと」
自分で自分に呆れながら、ショウマはゆっくりと上体を起こした。
部屋の外には、まだ北方の冷たい風の気配がある。地下のほうへ、薄く結界の線を伸ばしてみた。
あの勇者――高城ユウキの気配。まだ、そこにある。眠りの底で、何かを見ているかもしれない。
「行ってこいよ、勇者様」
誰にも聞こえない声で呟いた。
「聖教会の中で、もう少しあがいてこい。どっちに落とすか決めるのは――そのあとでいい」
影の魔将は立ち上がり、地下へ続く階段へと歩き出した。




