第12話 影の魔将、影の狩場を描く
地図だらけの部屋、というものを初めて見た。
魔王城の一角にある作戦室――そこは、壁一面に地図と報告書が貼り付けられ、机の上にも紙と駒がぎっしり並んでいる、いかにも「前線は火の車です」と言っているような空間だった。
「北方戦線、現状は――こうだ」
太い指で地図を押さえながら、ドルガが低い声で言う。
「レア隊救出後、一時的に人間側の動きは鈍った。だが、連中は後方で戦力を整え直している。再侵攻は、そう遠くねえ」
地図の上で、赤い印がじわじわとこちら側へにじみ寄っている。
「このまま防衛ばかり続ければ、じり貧です」
ミラが、きゅっと唇を結んだ。
「支配域を削られるだけではありません。前線で戦える兵も、少しずつ削られていく……」
その横で、グルドが長い髭を撫でる。
「光の使徒と称する人間達とやらの“勢い”は、侮れませぬからな」
視線が、自然と俺のほうに集まる。
魔王軍の新入り。
魔将の席をもらったばかりの、よそ者の顔を。
「――で、ショウマ殿」
ドルガが、片目を細めて問う。
「お前さんは、どう見る」
俺は地図に目を落とした。
山脈。谷。森。街道。
その上に、いくつもの矢印と印。
(正面でぶつかって、押し負けてるのは見ての通りか)
数の差。
加護の差。
それを、真正面から根性で埋めるつもりはない。
「守りだけやってても、死ぬだけだ」
俺はあっさりと言った。
「かと言って、このまま“正面同士の殴り合い”を続けても、勝ち目はない。向こうには光があって、こっちには影しかないんだからな」
ミラの眉が、ぴくりと動いた。
「では、どうするべきだと?」
「簡単な話だ」
俺は、指先で地図の上をなぞった。
前線。街道。森の縁。小さな谷。
「目に見える戦場の“外側”に、俺たちだけの戦場を一枚重ねる」
「……重ねる?」
ミラが首をかしげ、グルドが目を細める。
「例えばだ」
俺は街道沿いの森を指さした。
「ここからここまでの森と谷に、“こっちだけが知っている道”を通す。音が吸い込まれる道、光の向きが狂う道、戻ったつもりで戻れてない道」
「戻れていない……?」
「結界だ」
俺はあっさり種明かしをする。
「《結界操作》で森や谷に“筋”を通して、敵から見える景色と、こっちから見える景色をずらす。人間側から見ると普通の森と谷。だが、魔王軍からは“近道”にも“抜け道”にも見える、そういう筋だ」
ドルガが、ふんと鼻を鳴らした。
「要するに、森ごと味方に付けちまうってわけか」
「そういうことだな」
俺はうなずく。
「正面の押し合いは、お前ら前線組に任せる。その横と後ろを、俺と“影走り”で食い破る」
レアの肩が、ぴくりと揺れた。
作戦室の隅。
報告役として同席していたレアは、焦げ跡の残る黒衣のまま、黙って話を聞いていた。
銀黒の髪に、細い耳。
視線が、俺と地図のあいだで揺れる。
「影走りのやり方を、使わせてもらう。森で敵を削ってきた“手癖”を、結界で広げる形だ」
「……それって」
レアが、おずおずと口を開いた。
「今まで私たちがやってきたのは、森や影に“身を隠す”ことだったけど……ショウマは、森そのものを“影側に引き寄せる”ってこと?」
「近いな」
俺は少しだけ口元をゆがめる。
「今までは『暗い場所に隠れる』だけだった。これからは、“どこを暗くするか”をこっちで決める」
ミラが、じっと俺を見つめた。
恐怖と――ほんの少しの期待。
その紅い目に浮かぶ感情が、前よりも少しだけ分かるようになってきている自分に、内心で苦笑する。
「グルド」
「は」
「ショウマの結界権能で、そこまでのことは可能ですか?」
問いかけに、老魔導師はふふ、と笑った。
「可能か不可能かで申せば――十分に、可能でしょうな」
「ただし」
と、俺は口を挟む。
「一晩で全部やれと言われたら、さすがに文句のひとつも言うぞ」
「当然だ」
ミラが小さく笑って、真顔に戻る。
「……時間は、かかる。ですが――このままじわじわ削られるくらいなら、危険を承知ででも“影の狩場”を用意したほうがいい」
作戦室に、短い沈黙が落ちる。
やがて、ミラは決意を決めたように頷いた。
「魔将ショウマ」
名を呼ぶ声は、以前よりも少しだけ落ち着いて聞こえた。
「北方戦線に“影の狩場”を描く役目――あなたに任せます。影走り隊と協力して、魔王軍だけの戦場を作ってください」
「了解」
俺は素直にうなずいた。
「光が表の戦場を好きにするなら――裏側は、こっちがもらう」
炎色の瞳と紅い瞳が、短くぶつかり合う。
それが、“影の魔将”としての最初の正式な仕事だった。
◇
――翌日。
城の一角、小さな中庭を改造した臨時の打ち合わせ場所に、地図と木の枝で描いた簡易図面が広げられた。
「じゃあ、影走りのやり方を、もう少し詳しく教えてくれ」
俺の言葉に、レアは少しだけ姿勢を正す。
「分かった」
銀黒の髪を耳の後ろでまとめ直し、一本の枝で地面をなぞる。
「まず、森や谷での“身の置き方”から。風向きと匂い、足音の抜け方……敵から見える影と、こっちから見える影の違いを利用する」
枝で描かれた線が、ぐるりと森を囲う。
岩陰。倒木。茂み。
それらの影にどう潜り、どう動き、どう退くか。
「“影走り”は、走り回るのが仕事じゃない。動いてる“ふり”をしながら、敵の視線と意識を削るのが仕事」
「なるほどな」
俺は枝の軌跡を目で追いながら、頭の中で別の線を重ねる。
匂いの流れ。
気配の濃さ。
気温のわずかな変化。
この身体になってから、そういう“線”がやたらと分かりやすくなった。
(ダークエルフの器、ってやつか)
理の神の声が、脳裏の奥でぼんやりと響く気がする。
寿命。魔力回路。感覚の鋭さ。
おまけに、口の悪さまで“強化”されている気がするのは、たぶん気のせいじゃない。
「それと、小隊内の合図」
レアが小さく咳払いをして、続けた。
「大きな声は出さない。鳥の鳴き真似、指先の動き、短い囁きだけで意思疎通をする。敵に気づかれないように、でも隊の誰も取りこぼさないように」
「了解。そこは、お前のやり方をそのまま使う」
俺は枝を一本借りて、レアの描いた線に別の線を重ねた。
「で――ここからが、俺の仕事だ」
森の外周。
谷の入口。
街道から伸びる道の途中。
「ここに“音を吸う帯”を通す」
「帯?」
「この線の内側では、足音と声が外に漏れにくくなる。代わりに、こっち側の音も外から届きづらくなるが――そのぶん、敵の足音が結界を叩くから、通ったかどうかはすぐ分かる」
レアが、きょとんと目を瞬かせた。
「そんなことも、できるんだ」
「できるようになったんだよ」
俺は肩をすくめる。
「それと、ここ」
今度は丘の稜線に沿って一本線を引く。
「ここは“光の向きが狂う帯”にする。敵には眩しく、こっちには陰が深く見える。外から見たらただの坂道だが、中にいるこっちには“影が濃く落ちている通路”に見える」
「……ズルくない?」
「今さらだろ」
俺は笑う。
「光側が散々ズルしてんだ。こっちは影でやり返すだけだ」
レアも、ふっと笑った。
「そうだね。こっちが正面から真面目にやる理由なんて、どこにもない」
その笑みが、妙に自然で。
初めて会ったときよりも、ずっと距離が近くなった気がして――少しだけ居心地が悪い。
「……しかし、ショウマ」
レアがふいに、じっと俺を見た。
「何だ」
「前より、口が悪くなってない?」
「器のせいだ」
即答すると、レアは堪えきれずに吹き出した。
「そこは自分のせいを認めなよ」
「やなこった」
そんな他愛もない会話をしながら――
俺たちは、地図と地面の上で、北方の森と谷に“影の筋”を少しずつ描き足していった。
その作業は、一日で終わるようなものじゃない。
◇
それから数日。
日中はグルドや術師たちと結界の理論を詰め、
夕方はレアと影走り隊と一緒に、簡易の地形を使って試行錯誤を繰り返した。
音が吸われすぎて、味方同士が見失いかけた日。
光を曲げすぎて、味方が酔ったようにふらついた日。
失敗しながら――少しずつ、魔族側にとって“都合のいい影”だけを残していく。
「……前言撤回」
ある夕暮れ、レアが小さく肩で息をしながら言った。
「何だ」
「これ、ズルいとかじゃなくて、ただの“手間の塊”だよ」
「今さら気づいたか」
俺は額の汗を拭って、空を見上げる。
ダークエルフの身体は丈夫だが、神様チートを戦場に敷き詰めるのは、それなりに疲れる。
(まあ、嫌いじゃないけどな)
光の正面に立つのは、ごめんだ。
だが、その光の足元に影を仕込んで、転ばせるのは――悪くない。
「ショウマ」
レアが、不意に真面目な声で名前を呼んだ。
「何だ」
「ショウマが影の狩場を作るなら、私はそこで走る側をやる。今までどおり」
薄紫の瞳が、真っ直ぐこちらを見る。
「ただし」
「ただし?」
「勝手に死ぬのは、なし」
そう言ってから、レアは自分で少し顔を赤くした。
「……誰かを生きて連れて帰るって言ったのは、そっちなんだから」
あの日、峡谷で。
「今日は“生きて連れて帰る日”だ」と言った自分の声が、なぜか妙にクリアに蘇る。
「約束は守るさ」
俺は短く答えた。
「お前も、勝手に殿を買うな。殿やるのは、全部終わらせる覚悟決めたときだけだ」
「うっ……それ、こないだも言われた」
「なら、二度言わせるな」
口が勝手に荒れていくのを、自分で他人事のように眺めながら、そう言った。
レアは一瞬むっとした顔をして――すぐに、ふっと笑う。
「やっぱり、口が悪くなってると思う」
「器のせいだ」
また同じ会話をして、同じように笑った。
そんなふうにして、数日が過ぎた。
◇
そしてある日、俺たちは魔王城の訓練場にいた。
簡易の木壁と岩を並べ、森と谷を雑に再現した空間。
その上に、俺が描いた簡易結界の“筋”がいくつも通っている。
「では――影走り隊、開始」
グルドの合図と同時に、黒装束の魔族たちが影の中に飛び込んだ。
足音はほとんど聞こえない。
だが、《因果閲覧》の視界では、彼らがどこを走り、どこで止まり、どこで息を殺しているか、はっきりと分かる。
「……おお」
観覧席代わりの石段で、ドルガが唸った。
「見えねえ。姿が完全に消えちまった」
「結界の筋に乗っているときだけ、気配が薄れるよう調整しておるのです」
グルドが嬉しそうに解説する。
「逆に言えば、筋から外れれば、今までどおりの気配になります。味方が迷わぬよう、結界の“道”はあくまで限定的に」
「なるほどな」
ミラはじっと目を凝らしていた。
影の落ち方が、さっきまでと微妙に変わっている。
素人目には分かりづらいが、訓練場全体が「こちら側に傾いて」いるのが、魔力の流れから伝わる。
「ショウマ」
「何だ」
「これ……本当に戦場に広げられるの?」
「全部とは言わん」
俺は肩を回しながら答える。
「だが、森の縁と谷の出入口。いくつかの丘の上くらいなら、十分だ」
「それだけでも、前線の兵たちはずいぶん楽になるでしょうな」
グルドが頷き、ドルガが腕を組んでうなる。
「こっちが一歩下がるだけで、敵は三歩分迷うってわけだ。……いいな、それ」
「迷っている間に影走りが削り、迷っているまま前線にぶつかってくるなら、こっちは対応しやすい」
ミラの目に、はっきりとした光が宿る。
「光の使徒と称する人間達が“光の道”を押し広げてくるなら――
私たちは“影の道”で包む。それなら……まだ、戦える」
その言葉に、訓練場の空気がわずかに軽くなった。
誰も「勝てる」とは言っていない。
だが、「ただ押しつぶされるだけじゃない」と思えるだけで、十分に大きな変化だ。
「――影走り隊、戻れ!」
レアの号令で、影から魔族たちが次々と姿を現した。
息は上がっているが、目は輝いている。
「隊長、これ……本番でもやれるぞ!」
「敵の目の前を走ってるのに、全然気づかれない感じがしました!」
「調子に乗るな。迷子になったら笑いものだよ」
レアはそう言いながらも、口元を緩めている。
視線が、訓練場の端に立つ俺へと向けられる。
「ショウマ」
「何だ」
「……ありがと」
その一言は、小さかったが、よく通った。
俺は、肩をすくめて受け流す。
「そっちがうまく走ってくれないと、せっかくの影の狩場も無駄だからな」
レアが、ふっと笑った。
◇
その日の夕方。
訓練場の片付けが一段落した頃、伝令が血相を変えて駆け込んできた。
「報告――! 北方の空に、再び光柱を確認!」
場の空気が一瞬で張り詰める。
「光柱?」
ミラが顔を上げる。
「どこからだ」
「北方前線のさらに後方――人間側の本陣付近と思われます! 前線各所からも確認情報が上がっております!」
俺たちは思わず、城の外へ視線を向けた。
遠く、地平線の向こう。
雲の上まで突き抜けるような白い光が、細く、しかしはっきりと伸びている。
あの日と同じ――いや、少しだけ太く見える光。
「また、光の使徒と称する人間達が何かを……」
ミラの声が震える。
ドルガは奥歯を噛みしめ、グルドは静かに目を細めた。
俺は、ただ無表情のまま、その光を見た。
(急かすなよ、“勇者様”)
胸の内で、ゆっくりと笑う。
(こっちはやっと、影の狩場の土台ができたところだってのに)
「ショウマ」
隣で、レアが小さく呼ぶ。
薄紫の瞳が、不安と、それ以上の何かを宿して揺れている。
「行くんだよね、あの光の下に」
「ああ」
俺はうなずいた。
「光がそこまで自己主張してくれるなら、行き先に迷わなくて済む」
炎色の瞳に、光柱の白が映る。
「光は表で騒いでいればいい。――影は、その足元で仕事をするだけだ」
そう言って、俺は静かに踵を返した。
“影の魔将”として描いた狩場を、
実際の戦場に重ねるために。




