第11話 影の魔将
北方からの撤退行軍と転移陣を乗り継いで、俺たちは魔王城へ戻ってきた。
今いるのは、城の一角にある客間だ。
石造りの壁に、重い天蓋付きの寝台。
窓の外には、魔王城の黒い塔と、遠くに広がる魔族の街が見える。
さっきまで戦場にいたとは思えないほど、静かだ。
「ふう……」
粗末というには豪華すぎる寝台に腰を下ろしながら、ようやく自分の身体の重さを自覚する。
ダークエルフの肉体になってから、疲労の許容量は人間の頃とは比べ物にならない。
だが、それでも限界が消えたわけじゃない。
結界をねじ曲げて、勇者様の光をいなして、全員まとめて引き上げる――なんて真似をすれば、さすがに反動は来る。
(……それでも、昔よりはよっぽどマシか)
日本で、人間の身体で、クラスのパシリをやらされてた頃より。
今のほうが、よほど“自分の体で戦ってる”感じがある。
口調まで荒っぽくなったのは、ダークエルフの器に引っ張られてるせいか。
それとも、ただ単に遠慮する理由がなくなっただけか。
多分、両方だ。
そんなふうにぼんやり考えていると、扉の向こうからノックの音がした。
「ショウマ殿、入るぞ」
低く、ざらついた声。
「どうぞ」
返事をすると、重い扉がきしんで開き、ドルガが入ってきた。
鎧は新しいものに換えているが、肩や腕にはまだ焦げ跡が残っている。
北方からそのまま一緒に転移陣で戻ってきたはずだが、顔の傷が増えていないのは不幸中の幸いか。
「体の具合はどうだ」
「死にはしない程度には元気だ」
「……そうか」
ドルガは、どこか安堵したように笑った。
「さっき、レアたちからも報告を受けた。
お前がいなけりゃ、あいつらはあの森で焼かれてた」
「俺がいなくても、ギリギリで何とかしてたかもしれないだろ」
「自分の功績を、もう少し素直に受け取っても罰は当たらねえぞ」
そう言いながら、ドルガは窓際の椅子にどかりと腰を下ろした。
「“影走り”の連中も、重傷者は出たが、死人はひとりもいない。
この状況で、それは奇跡みてえな数字だ」
「奇跡って言葉は、正直あんまり好きじゃないんだけどな」
「そうかもしれんが、現場の兵からしたら、そうとしか思えねえさ」
ドルガは腕を組み、少しだけ視線を落とした。
「……レアがな」
「レアが?」
「『隊長失格かもしれない』って、やけにしょげてやがった」
らしくないな、とドルガは苦笑する。
「あいつの言い分はこうだ。
“もっと早く撤退判断をしていれば、ショウマに殿を押し付けずに済んだかもしれない”ってな」
「真面目だな、あいつ」
「ああ。真面目すぎるくらいにな」
ドルガは眉間を指でぐりぐりと押さえた。
「だから一応、伝えておく。
お前があそこであいつを抱えて引きずってくれたおかげで、“影走り”は隊長を失わずに済んだ。
俺からも礼を言う」
「礼を言われるほどのことじゃない。
ドルガとの約束を守っただけだ」
「約束?」
「“レアだけはどうにか返してやりたい”って言っただろ」
ドルガの片目が、ぱちりと瞬いた。
「よく覚えてるな」
「ああいうのは、忘れたくても残るもんだ」
日本で、誰も約束なんて守ってくれなかった分だけ。
今こうして「任せた」と言われたことは、妙に印象に残る。
「……そうか」
ドルガは小さく笑って、立ち上がった。
「本当はここで酒でも持ってきて騒ぎたいところだが、あいにくそんな余裕はねえ。
この後、ミラ様とグルド殿がお前に話があるそうだ」
「話?」
「俺から言えるのは、“悪い話ではない”ってことだけだな」
意味深にそう告げて、ドルガは部屋を出ていった。
悪い話ではない、か。
(こっちの世界じゃ、“良い話”ってやつも信用ならねえんだが)
まあ、魔王軍側がわざわざ俺を殺しに来ることはないだろう。
やるなら、もっと前の段階でやってる。
そう考えていると、ほどなくして、二度目のノックが聞こえてきた。
「ショウマ、入るわよ」
ミラの声だ。
その後ろに、杖をつく足音。
「どうぞ」
扉が開き、ミラとグルドが姿を現した。
ミラは、いつもの黒紫のドレスアーマー。
けれど、その肩にはまだ若干の疲れが残っているように見えた。
「体調はどう?」
「おかげさまで“死にかけ”から“普通に動ける”くらいには戻った」
「……死にかけ、どころじゃないとは思うけど」
ミラは呆れたようにため息をつく。
「レアたちから報告は聞いているわ。
勇者側の光を受け止めて、峡谷ごと焼き切られるところを止めて、
その上で全員連れて撤退したって」
「あいつら、話盛ってないか?」
「盛ってないわよ」
ミラの紅い瞳が、まっすぐ俺を射抜く。
「むしろ、私のほうが報告を聞きながら『盛ってるんじゃないでしょうね』って何度も確認したもの。
でも、ドルガも部下も、口を揃えて同じことを言ったわ」
グルドが、そこで一歩前に出た。
「実際問題として、ショウマ殿の初陣としては上出来どころではありませんな。
“勇者側”にあなたの存在を示し、なおかつこちらの損失を最小に抑えた」
穏やかな笑みを浮かべたまま、グルドは言葉を続ける。
「……その結果として、ひとつ決定したことがあります」
「決定?」
ミラがこくりと頷いた。
少しだけ姿勢を正し、言葉に力を込める。
「魔王マギアの名において――ショウマ」
妙に真面目な響きだった。
「あなたを、魔王軍の北方戦線を預かる“魔将”として正式に任じるわ」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気がわずかに変わった。
窓の外のざわめきとは別の、静かな緊張。
「……魔将、ね」
最初から“魔将候補”として拾われたのは知っていた。
だが、本当にこのタイミングで正式任命されるとは思っていなかった。
「早すぎないか?」
「早いわね」
ミラは即答した。
「正直に言うと、本来ならもっと段階を踏むべきだと思ってる。
でも――そんな余裕は、私たちにはもうないの」
紅い瞳に、短い迷いと、長い覚悟が浮かぶ。
「北方戦線は、もう限界ぎりぎりよ。
今回だって、本来なら“勇者”が自ら出てくるような規模の小競り合いじゃなかったはずなのに、あっさり越境してきた」
「なるほど。向こうも焦ってるわけか」
「焦ってる、というより……勢いづいている、って言うべきかしらね」
ミラは唇を噛んだ。
「だからこそ、ここで一度、流れを変える必要がある。
“勇者側”にとっての予想外を、私たちの“当たり前”にしていく必要があるのよ」
「そこで、俺を魔将に、か」
「そう」
ミラは真っ直ぐに頷いた。
「ただの戦力としてじゃなく、この北方を預ける顔として。
あなたに“影”の称号を与える」
「影?」
「魔王軍の記録には、昔から“影”の任が存在するの」
グルドが補足するように続ける。
「表立って旗を掲げて前線に立つのではなく、戦場の裏側で流れを変える役目。
敵の目が向いておらぬところに手を伸ばす、黒い影ですな」
「正面から殴り合うのは、他の魔将たちに任せているわ」
ミラの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「あなたは――そうね、“影の魔将”とでも呼ぶべきポジションになる。
北方戦線における隠密戦力と、ゲリラ戦を統括する魔将」
「影の魔将、ね」
口に出してみると、自分でも違和感はなかった。
人間の頃から、正面に立つことなんてなかった。
クラスでも、家でも、世間でも。
いつも“枠の外”で、誰かの影みたいに扱われていた。
なら今度は、最初から“影”として名乗ってやればいい。
「任命だけじゃないわ」
ミラが、少しだけ顔を緩める。
「“影の魔将ショウマ”の直轄部隊として、“影走り”を正式に配属する。
レアたちは、これからあなたの“影”になる」
「あいつらの意思は?」
「聞いたわよ。全員一致で『面白そうだから行く』って言ってた」
「もっと他に言い方はなかったのか、あいつら……」
思わず苦笑すると、グルドがくつくつと喉を鳴らした。
「“面白そう”というのは、魔族にとっては最高の誉め言葉ですぞ」
「それはそれでどうなんだ」
肩をすくめていると、扉がもう一度ノックされた。
「あ、あの――入ってもいい?」
控えめな声。
銀黒の髪が、扉の隙間から覗いた。
「レア、入りなさい」
ミラが促すと、レアはおずおずと中へ入ってきた。
軽い包帯こそ巻いているが、致命傷はなさそうだ。
「ショウマ。体、大丈夫?」
「お前の矢を真似たおかげで、こっちは楽をさせてもらったよ」
「……そ」
レアは一瞬、呆気にとられた顔をして、それからくすりと笑った。
「なら、よかった」
「レア」
ミラが呼びかける。
「さっきの話、本人の前で改めて確認しておきたいんだけど」
「うん」
レアはこくんと頷いて、まっすぐ俺を見る。
「“影走り”は、正式にショウマの直轄になる。
ミラ様から聞いた通りだよ」
「いいのか、それで」
「いいも何も――」
レアは、迷いなく言い切った。
「“影の魔将ショウマ”の影になるって決めたの、私だから」
その口調には、弱さも迷いもなかった。
「森で抱えられて走ったとき、正直ちょっと頭が真っ白になったけどさ」
「それは忘れていい」
「忘れないよ」
レアは、じとっとした目で睨んだ。
「“長”を強制的に前に連れてくのは、正直かなりむちゃくちゃだと思った。
でも、それで全員生きて帰ってこられたのも事実なんだよね」
ふっと目を細める。
「そういうむちゃくちゃをやれるやつの影に付いてくの、嫌いじゃない」
「変わった趣味だな」
「魔族だからね」
レアが肩をすくめると、ミラもつられるように笑みをこぼした。
「――というわけで」
ミラが、改めて俺のほうへ向き直る。
「ショウマ。影の魔将として、北方を頼める?」
「頼むも何も、もう逃げ道は用意してないくせに」
「気付いてた?」
「ここまで話を固めてから本人に確認に来るの、日本でもよく見たパターンだ」
ただ違うのは――。
「向こうの世界と違って、少なくともお前らは最初から“俺を使う”つもりで話してる」
犯人扱いして消費するためじゃなく。
パシリとして雑に扱うためでもなく。
「ならまあ、乗ってやるよ」
俺は軽く笑って、頷いた。
「影の魔将、悪くない。
正面で光を掲げる馬鹿どもを、裏からぶち落とす役目ってことだろ」
「ええ」
ミラの瞳に、ほっとした光が宿る。
「ようこそ、魔王軍の“影”へ」
グルドが穏やかに杖を鳴らした。
「これにて、影の魔将ショウマ殿の任命、完了ということでよろしいですかな、ミラ様」
「ええ。異論はないわ」
「レアは?」
「異論なんてあるわけないでしょ」
レアは胸を張り、俺に向かって片手を差し出した。
「これからよろしくね、影の魔将ショウマ」
その手を、一瞬だけ見つめる。
人間だった頃、こんなふうに真正面から差し出された手なんて、ほとんどなかった。
「……ああ。よろしくな、レア」
握り返した手は、小さいが、しっかりとした力を持っていた。
こうして――
世界の“光”にとっての、最初の“影”がひとつ。
正式に、魔王城の中で形を持った。




