【閑話】北の森にて(後編)
レアリア=ノクス・シルバ。
通称レアが城に来てから、魔王城の空気は少しだけ賑やかになった。
ミラが一方的にしゃべり、レアがきょとんとし、
少し間を置いてから短く返事をする。
それだけのことが、やけに新鮮だった。
◇
「れ、あ、ってよぶの。とうさまが、そういってた」
まだ舌足らずな幼い声で、レアはそう言った。
ミラより二つほど年下。
耳はミラよりも長く尖り、肌は少しだけ深い褐色。
じっとしていれば人形みたいだが、動きは小動物じみて素早い。
「じゃあ、レア! こっち!」
ミラは自分の部屋の宝物――布の人形や木の剣――を、次々とレアの前に並べていく。
「これはミラのつるぎ! これはこうやって、えいっ!」
ぶんぶんと振りまわし、床に転び、その様子を見てレアが「……ころんだ」とぽそり。
ミラはなぜか誇らしげに胸を張る。
「レアもやる?」
「……えい」
レアが、ミラから木の剣を受け取って、恐る恐る振る。
その一振りは――妙に筋が良かった。
空気を切る音が、ミラのものより鋭い。
「すごい!」
目を丸くするミラに、レアは小さく首をかしげる。
「ふつう」
そのやりとりを、扉の隙間から覗いていた乳母たちは、揃って肩をすくめた。
「……どちらも手がかかりそうですねぇ」
「でも、仲がよろしいのはいいことでしょう」
それからしばらくは、そういう日々が続いた。
ミラが本を読むと、レアは横でじっと聞いている。
ミラが魔力操作の初歩を習えば、レアも一緒に真似をし――
「……あれ?」
ミラの手のひらに、ちろりと黒い火のようなものが灯った日。
レアの指先には、その何倍もの濃度の闇が、当たり前のように揺らめいた。
「レア、すごい!」
「……ミラが、やったから」
当たり前のように告げるレアに、教師役の魔術師はしばし言葉を失い、
その日の夜、グルドにこっそり相談を持ちかけた。
◇
「才能というやつですな」
報告を聞いたグルドは、ひげを撫でながら笑った。
「ダークエルフの血とやらが、ただの噂ではなかった、ということですじゃ」
魔王マギアは、窓の外――夜の空を眺めたまま問う。
「放っておけばどう育つ」
「放っておけば、ですと?」
「ミラと同じように育てたとき、だ」
グルドは少し考え、肩をすくめる。
「城の中で大人しく暮らすだけなら、何の問題もありますまい。
ですが――“才”というものは、磨かねば錆びる。
あの子は、働き口を見つけてやったほうがよい」
「働き口、ね」
「戦場に出す、という意味ではありませぬぞ。
森の声を聞き、結界を張り、契約を結ぶ。
そういった“裏方”の才は、おそらくミラ様より上でしょうな」
マギアは、そこではじめて振り返った。
「……ミラと、あの子を分けて育てるべきか」
「いえ」
即答だった。
「一緒にお育てなされませ。
姫様は“表”に立つ器。レア殿は、自然と“陰”の器になりましょう。
陽と陰は、離すより並べたほうが、よい形に落ち着くものですじゃ」
マギアは、わずかに目を細める。
「お前は、本当に城のこととなるとよくしゃべるな、グルド」
「年寄りの道楽でございます」
ふたりのやりとりを、扉の外でこっそり聞いていた小さな影があった。
レアである。
(……働き口)
その言葉の意味は、まだよく分からない。
でも、ミラと一緒にいられる、とだけ分かって、胸が少しだけ温かくなった。
◇
年月は、魔族にとっては短く、人間にとっては長く流れた。
ミラは十代の後半になり、正式に「次代魔王」の名を冠されるようになる。
軍議にも顔を出し、魔王軍の幹部たちと意見を交わすようになった。
レアは――その影で、静かに成長していた。
結界の編み方を覚え、森の気配を読む術を磨き、
やがて、前線の偵察や隠密行動を任されるようになる。
「姫様の“影”には、もってこいですな」
ドルガ将軍――粗野だが面倒見のいい大男――が、レアの肩をぽんと叩く。
「殴り合いは俺たちの仕事だ。
お前はお前の得意な場で、俺たちを助けてくれりゃあいい」
「……はい」
レアは、いつものように短く返事をした。
彼女は多くを語らない。
だが、任務を外したことは一度もない。
夜の森に紛れ、人間たちの野営地の配置を盗み見、
聖教会の巡回路をひっそりとずらし、
魔王軍の小さな部隊を、何度も危地から救い出してきた。
ミラはそんなレアを誇らしく思う一方で、少しだけ不安も抱いていた。
「レア、無茶してない?」
「……してない」
「ほんと?」
「ミラが怒る前に、戻る」
「そこ基準なの?」
そんな会話を交わしながらも、レアはいつも前線へと出ていく。
自分が、“拾われた子”だからだ。
森から連れ帰られ、名を与えられ、城で育てられた。
ミラと同じ食卓につき、同じ教師の授業を受けた。
だからこそ、どこかで思っている。
(役に立たなきゃ。ここにいていい理由を、見せなきゃ)
その感情は、誰にも言葉にしない。
ただ、任務に向かうたび、胸の奥で静かに燃えている。
◇
やがて。
戦況は、ゆっくりと、だが確実に悪化していった。
聖教会と人間諸国は、毎年のように兵を送り、
小さな砦が一つ、また一つと削られていく。
その中で、レアの仕事は増える一方だった。
「レア隊、北東の峡谷に潜んでくれ。
敵の補給路を見張り、隙あらば食いつぶせ」
「はい」
「西の丘陵地で、兵站の隊列が動いている。
夜陰に紛れて、荷だけ燃やしてこい」
「……了解」
そんな命令を、淡々と受け、淡々とこなす。
いつしかレアには、小さいながらも専属の隊が付くようになっていた。
隠匿や斥候に長けた魔族たち――レアの指揮のもと、ゲリラ戦を専門とする部隊。
「隊長、次はどこまで行くんです?」
「……ここ」
地図の一点を指し示すレアに、部下のひとりが「また人間領のど真ん中だ」と苦笑する。
レアは、少しだけ唇の端を上げる。
「帰ってくる。……みんなで」
その一言に、部下たちはにやりと笑って頷いた。
「了解、隊長」
その約束は、長い間守られていた。
◇
――だが、すべてが崩れたのは。
世界の“どこか”で、あのクラスが召喚されてからだ。
ある日を境に、前線から届く報告が、一気に変わった。
『空が割れたような光が降り、砦が一つ消えた』
『聖教会の新たな加護持ち――“光の使徒”とやらが現れた』
『戦場に、常識外れの炎と光が満ちる』
はじめは、遠くの話だった。
だが、距離など、すぐに意味を失った。
光の使徒と称する人間達が通った跡は、“線”ではなく“面”で焼けていく。
一つの砦ではなく、一帯の森ごと、谷ごと。
その流れ弾のような聖なる炎が、ついに魔王マギアをも焼いた。
レアは、その現場にはいなかった。
それでも、後方で聞いた報告は、骨の髄まで冷えるようなものだった。
『魔王様が……!』
『聖なる炎をまとった“勇者”と名乗る光の使徒が――』
城に戻されたマギアは、半身を焼かれ、結界と治癒を重ねてもなお、炎が消えなかった。
ミラは、父の手を握りしめ、泣き腫らした目で必死に声をかけていた。
「父上……父上……!」
レアは、その背中をただ見ていることしかできなかった。
自分がここにいる理由。
戦場に立つ意味。
それらが、改めて胸に突き刺さる。
(……守らなきゃ)
城を。
ミラを。
拾ってくれた、この場所を。
そのためなら、自分が殿になっても構わない――
そんな感情が、知らず知らずのうちに根を張っていく。
◇
そして、あの日が来る。
光の使徒と称する人間達の一団が、またひとつ前線の砦を焼き払い、
退路を断たれかけた魔王軍の部隊が、峡谷の奥で立ち往生した日。
レアの隊は、本来なら別の地点で敵の補給を狙う予定だった。
だが、ドルガ将軍の使いが血相を変えて駆け込んできて、命令が変わる。
『レア隊は即座に進路を変え、退却中の部隊を援護せよ。
状況によっては、殿を引き受けろ』
殿――しんがり。
その二文字に、部下たちの顔色が一瞬、わずかに曇った。
レアは、短く息を吸う。
「……了解した。ドルガ隊長に伝えて」
少しだけ迷い。
それを、噛み殺す。
「――必ず、誰かを返す、と」
そう言って、レア隊は峡谷へ向かった。
◇
そして今。
レアは、狭い谷間の途中で深く息を吐いていた。
前方では、魔王軍の敗残兵たちが必死に退却している。
後方では、聖教会の聖騎士たちが、光の槍を掲げて迫ってくる。
「……ここで押さえる」
レアが言うと、部下のひとりが顔をしかめた。
「隊長。ここで足止めしても、長くは――」
「長くなくていい」
レアは淡々と首を振る。
「前にいる連中が、峡谷を抜けるまででいい。
そのあと、追いつかれない距離をつくる」
「でも、それじゃあ――」
「分かってる」
それが、自分と、自分の隊の命の残り時間だ。
それでも、レアの声はぶれなかった。
「……前だけ、見させる。
こっちを見る余裕がないくらい、うるさくする」
部下たちは、一瞬だけ顔を見合わせ――
「了解、隊長」
笑った。
静かな、しかし覚悟の混じった笑みだった。
◇
聖教会の聖騎士たちが、谷の入り口に姿を現した。
白銀の鎧。
光をまとった槍。
その先頭には、他とは違う“何か”がいる。
聖なる加護をこれでもかと重ね着した、中心人物。
(あれが――)
まだ、“勇者”と名乗る前の光の使徒。
あるいは、ただの聖騎士に過ぎないのかもしれない。
だが、レアにとってはどちらでも同じだった。
(ミラと、みんなの敵)
それだけだ。
レアは、短く息を吸い――
「――撃て」
合図とともに、谷の両側の岩場から矢と魔法が一斉に降り注いだ。
突然の奇襲に、聖騎士たちの陣形が一瞬乱れる。
だが、すぐに光の障壁が張られ、矢は弾かれ、魔法はかき消される。
先頭の聖騎士が、光の槍を振りかぶるのが見えた。
「貴様ら、闇に連なる者ども――!」
眩い光が、谷全体を焼き払おうと膨れ上がる。
レアは、歯を食いしばりながらも、振り返らない。
(前だけ見て。走って)
崖の上から見える、撤退する味方の背中。
それが、少しずつ遠ざかっていくのを確認しながら――
(ここで足を止めたら、誰も帰れない)
その瞬間。
風を裂く音が、頭上から落ちてきた。
聖なる光の中に、影がひとつ。
谷の前方――先頭の聖騎士の頭上から、黒い何かが落ちてくる。
レアは、思わず目を見開いた。
「……え?」
その影が、勢いそのまま、聖騎士の胸元めがけて足を叩き込む。
鈍い衝撃音。
光の鎧が、ありえない方向へひしゃげ飛ぶ。
聖騎士が、言葉にならない悲鳴を上げながら後方へ吹き飛んだ。
谷に、短い沈黙が落ちる。
(なに――?)
崖の上から見下ろすレアの視線の先。
そこには、黒いローブを翻しながら、ゆっくりと立ち上がる影があった。
褐色の肌。
炎のような瞳。
そして――どこか懐かしい、森の匂いをまとった気配。
(……ダーク、エルフ?)
喉まで出かかった言葉を、レアは飲み込んだ。
まだ、このときの彼女は知らない。
この“黒い影”が、やがて自分の隊の行く末を変え、
ミラと魔王軍の未来に、いやでも踏み込んでくることを。
ただひとつ。
レアは、胸の奥で静かに思った。
(……助かった)
その感情に、理由はない。
だが、確かにそう思ったのだった。




