離縁間近で急に引き止められても困ります
「アリシエール! 待ってくれ……!」
冷静沈着、眉目秀麗だと評判の夫が汗を滴らせながら私を引き止める。
「頼む……離縁なんて考え直してくれ……!」
ついさっきまで身支度する私を無表情で見つめていたくせに、一体どういう心の変化なのか、私には皆目見当もつかなかった。なぜなら、彼――オリヴァーは、結婚してから一度も私を愛したことはなかったから。
侯爵家次男で頭の切れるオリヴァーは、王城で働いていた。王太子の秘書として常に冷静に振る舞い、おまけに顔は彫刻のように美しい。銀色の髪はその美しい顔を際立たせ、ミステリアスだと女性たちに騒がれていた。
私はそんな彼とただ政略結婚で結ばれただけの、幸運な女。冴えない一重まぶたは、彼のハッキリとした二重まぶたを引き立てる。周りは皆、私たちの結婚を面白おかしく語っていた。
「オリヴァー様もお可哀想に。きっと公爵家からの申し出で、断り切れなかったのね」
「もっと釣り合う女性がいたはずなのに、気の毒だわ」
公爵家の三女という立場である私が無理に迫ったのだろう、と噂をたてる者もいた。そう言われても仕方がないほど、私は彼に釣り合っていなかった。
けれど、結婚当初は私も頑張ってみたのだ。オリヴァーが少しでも家で安らげるように、甲斐甲斐しく妻の務めを果たそうとした。
彼が仕事に集中できるよう、屋敷と使用人の管理はもちろん、あまり得意でない社交についても笑顔でこなしてきたつもりだ。彼がどんなに私を真顔で見つめようと、絶えず笑顔で接してきた。我儘を言わず面倒でない、扱いやすい妻であるかのように。
しかし、結婚生活が二年を経とうとしても、私を見つめるときの彼の表情は変わらなかった。
べつに愛されたかったわけではない。彼は人気者だ。身分だけがまとわりついた私を愛しい眼差しで見てくれるだなんて、最初から期待していない。でも少しくらいは、いつかその堅い表情を崩してくれるのでは、と思っていた。
私が笑顔で接し続ければ、彼も穏やかに笑う顔を見せてくれるのではないか、と……。そして、そんな日は来なかった。
それだけならまだしも、彼は一度も私を抱かなかった。王太子から呼び出しがあったから、と初夜に未遂のまま寝台へ置き去りにされてから、私の身体は清いまま。気にしてないふりをして、彼を支えようと笑顔で過ごしていたら、既に子供がいてもおかしくない月日が経とうとしていた。
そんな生活を送り二年記念日を迎え、当然のように別々の寝台で夜を明かしたら、突然ポッキリと心が折れた。もういい。彼と別れよう。きっとその方が彼も幸せだ。
公爵家の私から離縁を告げれば、彼はまた表情も変えず頷くだろう。お父様には叱られるかもしれないけれど、幸いにも公爵家の娘だし、相手を選ばなければ再婚も可能なはず。
次の夫がどこかの老人貴族だったとしても、若い女なら笑顔で接してくれるに違いない。美しいけれど常に真顔のオリヴァーより、ふくよかで老いていても、笑いかけてくれる夫の方がいい。
そう決意して、記念日の翌朝、静かに朝食をとっている彼に告げた。
「離縁しましょう。このまま一緒にいても、何も生まれないのですから」
「…………」
――彼は何も言わなかった。それどころか、やはり無表情で食事を終え、席を立った。無言、それは了承なのだと思い、私は離縁の準備を進める他なかった。
彼が心の内で何を考えているか、何も知らない私には想像もつかなかったのだ。
そして離縁を告げた一ヶ月後、朝から教会へ向かおうとする私に、彼は言ったのだ。
離縁なんて考え直してくれ、と。
「ど、どうしたのですか、突然……」
初めて見る彼の表情に、戸惑いを隠せない私は問いかけた。
「昨日まで何も言わなかったじゃないですか……あとは書類を教会に提出するだけなのに、急にどうされたのですか……?」
提出する予定の書類が入ったカバンを、彼はなぜか辛そうに見つめる。
「その書類を提出するのは、やめてくれないか……?」
「何か気にされているのですか? 心配されなくとも、オリヴァー様にご迷惑がかからないよう、公爵である父にカバーしてもらえるよう頼んでおります。至らぬ私の不徳であると父も理解してくださっているので、経歴に傷がつくなどとはお考えにならなくても――」
「ち、違うんだ!!」
唐突に声を被せられ、思わず口が閉じる。
「……離縁なんて……したくない」
ポロッと彼がこぼした言葉に、私は耳を疑った。
離縁を、したくない? 二年間、私の身体に指一本触れず、微笑みを見せたことすらないのに? 愛なんて、微塵もないはずなのに?
「君を……愛しているから……」
「……はい?」
聞き間違いかと思って声を漏らすと、彼はエメラルドのような瞳をゆらゆらと揺らしながら視線を落とした。誰も見たことがないであろう顔をする冷静沈着なはずの男に、私は信じられない気持ちをいくつかの質問にして吐き出す。
「笑いかけてくれたこともないのに……?」
「昔から表情を作るのが苦手で……」
「結婚してから、一度も触れなかったじゃないですか」
「汚してしまわないよう大切にしていたら……タイミングを逃してしまって……」
「離縁を告げてから、どうして今日まで何も言わなかったのですか」
「あまりの衝撃で混乱して、なんと伝えていいか分からなかった……」
「……いつから、私を愛していたのですか」
「……結婚からしばらくしてからだ。君が毎日笑顔で話しかけてくれるうちに、気づけば惹かれていた」
――呆れて言葉も出ない。そんなことがあっていいの?
愛しているのにそれを告げず、表情を作るのが苦手だからと努力を怠り、去り際に突然慌てふためく……世間で噂されている眉目秀麗はどこに行ったのか。せめてもう少し早く言ってくれたら、私の心も折れなかったかもしれないのに。
有り得ない、と固まる私に、オリヴァー様はその美しいエメラルドから雫をこぼして告げる。
「お願いだ、行かないでくれ……君を愛してる……」
強く掴まれた腕が、怒りで硬直する。
「遅い!! 遅すぎます!!」
思わず声を荒らげると、オリヴァー様は情けない顔のまま私を見つめた。
「どうして今言うんですか!! もう教会にも連絡してしまいましたし、父にも根回しをお願いしているんですよ!? 離縁を告げた時、嫌なら嫌だとすぐに言うべきだったんです!!」
「す、すまない……だが、なんと言えばいいか分からなくて……」
「知りません、そんなの!!」
彼の顔はどんどん崩れていく。冷静沈着な男の顔は見る影もない。
「大体、二年もの時間があったのに、今更愛だなんだと言われても困ります!! もう離縁するしかありません!!」
「そ、それだけは嫌だ!! やめてくれ!!」
「我儘を言わないでください!! みんな私たちが離縁するものだと思って行動を進めているんですから!!」
「嫌だ!! そばにいて、また君に笑いかけてほしいんだ……!!」
「うるさい!! 無理なものは無理です!! 諦めてください!!」
「嫌だーっ!!」
子供のように喚き散らす、一応まだ夫である男は、何度も言う。『嫌だ』と。
私はどうしていいか分からず、ひとまず教会に書類の提出が遅れることを連絡したのだった――。