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第9話 夢の岸辺で待つもの 〜祠と月と、名もなき記憶〜 (今日のレシピ:裏山の“おむしやしない”と、ささみとズッキーニのやわらか煮)

季節は、やわらかな初夏。

紫陽花の向こう、ふとしたきっかけで辿り着いた裏山の祠。

懐かしいようで、どこか不思議な気配に包まれながら、

玲央とシトロンの物語は、静かに次の扉をひらきます。


その日、玲央は早めに仕事を切り上げて、週末の午後を鎌倉の山荘で過ごすことにした。祖母・紗英から「庭の紫陽花が咲きはじめたわよ」と連絡があったことがきっかけだった。そしてもうひとつ、前夜の夢に、見知らぬ風景とどこか懐かしい声が現れたことが、心のどこかをざわつかせていた。


梅雨入り前の初夏の空気はまだ軽く、山荘の庭には、色とりどりの紫陽花が咲き始めていた。午後の光を浴びて、ほんのり湿った土と花の香りが混ざり合っている。

玲央は庭でぼんやりと紫陽花を眺めていた。

すると、シトロンが何かに惹かれるように、ふいっと裏山の方へと歩き出した。


「シトロン? どこ行くんだ……」


迷子になっては困ると、玲央は咄嗟にあとを追う。緩やかな坂道を越え、竹の葉の擦れる音とともに、静かな森の気配が濃くなる。

しばらくして、ふと視界が開けた。そこには、小さなほころのような窪地に、ひっそりと佇む石造りの祠があった。

玲央は、思わず足を止めた。


「……こんな場所があったのか」


周囲の木漏れ日が静かに揺れている。苔むした石の祠は、誰にも気づかれないまま、長い時間をここで過ごしてきたようだった。

シトロンは、その祠の前に座り、まるでそこが自分の居場所だと言わんばかりにじっと動かない。


玲央は近づいて、そっと祠の表面に手を添えた。


その瞬間、胸元がふわりと熱を帯びた。あの“印”が、前とまったく同じところだ。

祠の表面には、風化しかけた彫り込みがある。よく見ると、それは猫の姿と、月をかたどったような意匠だった。

爪先でなぞると、微かにざらりとした感触が伝わってくる。

玲央は無意識に息を呑んだ。ここにあるものは、偶然の造形ではない。何かを伝えるために、残された“記憶”なのだと、直感が告げていた。


* * *


霧のような白い空間。香のような甘く淡い香りが漂い、遠くで鐘の音が響いている。水面の上に立つような感覚の中、玲央はただ歩いていた。

やがて霧の向こうから光が差し、ひとりの青年の姿が浮かび上がる。青銀の法衣をまとうその青年は、石の祭壇の前にひざまずいていた。


「月よ……この命をもって願う。未来を、生きる者たちのために」


祭壇の上には、一匹の猫が静かに座っていた。金色の瞳。しなやかで美しい体。首元には銀の首輪。


「この誓いが、時を超えて繋がるなら——どうか、そばにいる者が気づいてくれるように」


月光がその場を満たす。青年がふとこちらを振り返った。——その瞳の奥に、自分とよく似た光を見た気がして、玲央は息を呑んだ。


* * *


「……レオ」


誰かの囁きで目を覚ます。

息が浅い。心臓が速く脈打っている。

隣には、シトロンが静かに座っていた。

そして・・・彼は、ゆっくりと玲央の胸元に鼻先を近づけ、印のあるその場所に、そっと鼻を擦りつけた。


「……シトロン?」


玲央が名を呼ぶと、シトロンは顔を上げて、まっすぐに玲央の目を見つめた。


「ぼくは、君のそばにいるために、生まれてきた」


その瞬間、彼の胸元が淡く光った。

玲央は、思わず手を伸ばし、その柔らかい毛をそっと撫でた。

胸の奥が熱を持ち、涙が浮かびそうになる。


「……夢じゃなかったんだ。やっぱり、何かが……」


けれどその続きを言う前に、シトロンは再び玲央の膝の上でくるりと丸くなり、静かに目を閉じた。

玲央は胸元をそっと押さえ、深く息を吐いた。夢と現実、その境界が、ほんの少し、柔らかく混ざっていくような・・・


そこで、山道をゆっくりと登ってくる足音がした。振り返ると、籠を手にした祖母・紗英が現れた。


「まあ、こんなところまで来てたのね」


彼女は微笑んで、持ってきた布を地面に敷き、籠を開ける。

中には、涼やかな笹の葉に包まれた蒸し寿司や、ゆずの香る卵焼き、小さな初夏野菜のおひたしなど、目にも楽しい軽食が並んでいた。


「昔から、この裏山で迷子になったら、おなかに優しいものを食べさせるのが、うちの“おむしやしない”なのよ」

・・・笹の葉の香り、柚子のかすかな甘さ、小さな野菜のやさしい彩り・・・

それらが、ゆめとうつつのあいだをたゆたう玲央の心に、静かな輪郭を与えていった。

玲央は、ふと笑った。

不思議な感覚の余韻をまとったまま、隣で丸くなっていたシトロンと並んで、

ひとくち、やさしい味を口にする。


「……これが、現実かどうかなんて、いまはもう考えるのはやめよう。・・・」


誰に言うでもなく呟いた声に、シトロンのしっぽがゆるやかに揺れた。

そして、シトロンと並んでその軽やかなごはんを口にする。

初夏の空気に、笹と出汁の香りが溶けていく。



【今日のレシピ】

『裏山の“おむしやしない”と、ささみとズッキーニのやわらか煮』

〜やわらかな風の通る初夏の昼下がりに、祖母・紗英が届けてくれた小さな籠の軽食。

どれも目にも舌にもやさしく、深い記憶の扉をそっと開けてくれるような、静かな味わいです。〜


▶ 笹の葉包みの蒸し寿司(2人分)

材料:

・ごはん 1合分(炊きたて)

・梅干し 2個(種を除いて刻む)

・枝豆(塩ゆでしてさやから出す) 1/4カップ

・酢 大さじ1

・砂糖 小さじ1

・塩 少々

・薄焼き卵 2枚(巻く用)

・笹のあれば2枚


作り方:

ごはんに酢・砂糖・塩を合わせて寿司飯をつくる。

梅と枝豆を混ぜ、軽くまるめる。

薄焼き卵でくるりと包み、笹の葉にのせて軽く蒸し直す(またはラップで包み温めてもOK)。


▶ 柚子香る卵焼き(2人分)

材料:

・卵 2個

・だし汁 大さじ2

・砂糖 小さじ1

・塩 少々

・柚子のすりおろし少々


作り方:

卵にだし汁・砂糖・塩を混ぜ、最後に柚子の皮を加える。

小鍋または玉子焼き器でふんわり焼き上げ、食べやすく切る。


▶ 初夏野菜のおひたし(2人分)

材料:

・三つ葉 1/2束

・おくら 2本

・みょうが 1本

・新ごぼう 適量ささがき

・白だし 大さじ1

・水 大さじ3


作り方:

野菜を下茹でし、冷水に取って色止めする。

白だしと水を合わせ、野菜を浸す。冷やして味をなじませる。


▶ シトロンのための一品

ささみとズッキーニのやわらか煮(猫用・2回分)


材料:

・鶏ささみ 1本

・ズッキーニ(薄くスライス) 2〜3枚分

・昆布水(無塩) 適量


作り方:

ささみを熱湯で茹で、冷まして細かくほぐす。

ズッキーニを薄く切り、昆布水でやさしく煮る。

ささみと和えて、冷ましてから与える。


※調味料・油・香辛料は一切使用しません。体調に応じて与える量を調整してください。



▶ レシピ帖のひとこと:

「迷ったときは、風の通るところで、やさしいものをひとくち。

 おなかと心は、だいたい一緒に落ち着くもんやからね。

 ・・・これが、うちの“おむしやしない”」


 〜〜祖母・紗英の『月夜のレシピ帖』より


おなかにも心にもやさしい、祖母の“おむしやしない”。

そのぬくもりに包まれながら見た夢は、玲央にとって

どこか懐かしく、大切な記憶のようでもありました。

すこしずつ、ふたりを結ぶなにかが、動きはじめています。



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