第8話 声になる、はじまりの音 (今日のレシピ:朝のかぼちゃスープと、夜のやさしいミニ丼)
言葉が少しずつ、つながっていく――
その瞬間を目の前にしたとき、人はなぜか黙って見守るしかできなくなるものです。
玲央とシトロン、はじめて“言葉”で過ごした朝と夜。
その一日が、ふたりの距離を、そっと近づけていきます。
朝。
やわらかな日差しが、カーテンの隙間から差し込んでいた。
玲央が目を開けると、ベッドの脇に小さな影がちょこんと座っていた。
「……おは……よ」
一瞬、聞き間違いかと思った。
けれど、影・・・シトロンは、確かに口を動かし、もう一度言った。
「おは……よ。……れ、お」
語順はまだおかしい。でも、はっきり“言葉”だった。
玲央は上体を起こし、シトロンの顔を見つめる。
「いま、喋ったのか?」
問いかけに、シトロンはむぅっと頬をふくらませ、しっぽをぴんと立てる。
「……しゃべ……った」
耳まで赤く染めて、どこか得意げに言った。
玲央は軽くため息をついて、ベッドを出た。
「……じゃあ、朝ごはんにしようか」
キッチンに立つと、シトロンがすり足で後をついてきた。
冷蔵庫から取り出したかぼちゃを見て、ふと思い出す。
祖母のレシピ帖に載っていた、豆乳とかぼちゃのスープ。
そのやさしい甘さに、何度、ほっとしたことだろう。
「これは“スープ”。とろとろで、あったかい」
「すー……ぷ。とろ……とろ」
シトロンが舌をもつれさせながら真似する。
玲央はふと笑って、軽く味見をした。
ごま入りの小さなおにぎり、ヨーグルトに少しだけ刻んだバナナ。
猫でも安心な素材で作る、優しい朝ごはん。
食卓につくと、シトロンは真面目な顔で器をのぞきこんだ
「いっしょ、たべる?」
「そう。いっしょに」
玲央が答えると、シトロンの金色の瞳が細くなり、小さな声がもれた。
「うれしい」
ほんの一言。けれど、それが胸にじんと響いた。
* * *
「一條さん、猫ちゃん元気ですか?」
オフィスの昼下がり。部下の仁科が声をかけてきた。
「……ああ。ちょっと、変わってきたかも」
「へえ、変わったって?」
「言葉……じゃないけど。なんとなく、通じる感じがする」
玲央が言うと、仁科は目を輝かせた。
「それって“心が通じてる”ってやつじゃないですか? あ、私最近ハマってるんです、人と猫が一緒に食べられるメニュー!」
そう言ってスマホを差し出す。
画面には「鶏そぼろと豆腐のミニ丼」のレシピが載っていた。
玲央はしばらく見つめてから、それをそっとスクリーンショットした。
「ありがとう。今夜、作ってみるよ」
「わっ、まさか一條さんから“ありがとう”が聞けるとは……!」
仁科が冗談めかして笑う。玲央は、苦笑を浮かべながらデスクへ戻った。
* * *
夜。
玄関を開けると、部屋の奥でNetflixの音声が流れていた。
「・・・ずっと、会いたかった。運命の、出会い……」
「……え?」
テレビの前に座るシトロンが振り向く。
耳としっぽをぴんと立てて、どこか誇らしげに言った。
「うんめい、れお」
玲央は、ドキッとして、どうしていいか分からずその場を離れた。
キッチンへ向かい、冷蔵庫を開ける。
(……今日、仁科が見せてくれたやつ。確か、鶏そぼろと豆腐の……)
波打った心も、キッチンに立つと、自然と指が動き始める。
ごはんの上に鶏そぼろと炒めた野菜をのせ、その横に軽く焼いた豆腐を添える。
シトロン用の皿には味付けなしの鶏ひき肉と人参、大根。出汁の風味だけをきかせたミニ丼。
「……シトロン。ごはんだ」
声をかけると、シトロンは耳をぴくりと動かし、近づいてきた。
テーブルの前に並んで座る。
「これ、ひとと、ねこ、いっしょ……?」
「まあ、そんな感じだな。人間用と猫用。少しだけ違うけど」
シトロンはそっと鼻を寄せ、うれしそうに「ふふん」と笑った。
「れお、やさしい」
その一言に、玲央は目を見張った。
あまりにも自然な言い方だったから。
「……お前、ずいぶん話すようになったな」
「れおが、やさしいから。はなしたく、なる」
何も言えなくなって、箸を持つ手が止まった。
あたたかな匂いと、どこかくすぐったい沈黙が、テーブルを包んでいた。
* * *
【 今日のレシピ】
言葉がつながる、ふたりの食卓
〜朝のひとことと、夜のやさしい会話に〜
『かぼちゃと豆乳のやさしいスープ』
〜朝のひとことを包む、やわらかな甘み〜
▶ 材料(1人と1猫)
・かぼちゃ……60g(皮を除き、蒸して潰す)
・無調整豆乳……150ml
・水……50ml(猫用に豆乳を薄めるため)
・ごはん(やわらかめ)……大さじ1(とろみづけ用)
※人間用のみ:
・塩……少々
・オリーブオイル……少量
・ナツメグまたは白胡椒……極少量(お好みで)
▶ 作り方:
鍋に豆乳と水を入れて温め、潰したかぼちゃとごはんを加えて混ぜる。
とろみが出るまで弱火で加熱。猫用を先に取り分けて冷ます。
人間用には塩・香りづけ・オイルで味を調え器に盛る。
『鶏そぼろと豆腐のやさしいミニ丼』
〜ふたりで囲む、ことばの食卓〜
▶ 材料(1人と1猫)
・鶏ひき肉(無塩)……100g
・木綿豆腐……1/2丁(1.5cm角にカット)
・にんじん……30g(みじん切り)
・大根……30g(みじん切り)
・ごはん(やややわらかめ)……適量
・ブロッコリー(茹で)……数房
※人間用のみ:
・醤油……小さじ1
・みりん……小さじ1
・すりおろししょうが……少々
▶ 作り方:
フライパンで鶏ひき肉・にんじん・大根を水少量で炒め、火が通ったら猫用に取り分ける。
人間用には調味料を加えて炒め直す。
豆腐は水切りして焼き目をつけ、ブロッコリーと一緒に盛りつける。
それぞれの器にごはんと具をのせて完成。
どちらも「取り分け式」で、人と猫が同じ素材を一緒に楽しめるように仕立てた献立です。
ふたりの心が近づく“言葉のはじまり”に、ぜひ。
▶レシピ帖のひとこと:
「やわらかい朝のスープには、言葉のはじまりがよく似合うの。
まだ気づかれていない想いほど、そっと温めてあげなさいね。」
(〜〜祖母・紗英の『月夜のレシピ帖』より)
はじめての「おはよ」。
たどたどしくても、ちゃんと伝わってきたのは――その声に、気持ちがこもっていたからかもしれません。
朝のスープと、夜のミニ丼。
玲央が台所に立つたびに、シトロンの“ことば”も少しずつ育っていくようで、
ふたりの関係が、まるで煮込み料理みたいにやわらかくなっていくのが見えました。
「一緒に食べる」って、ただそれだけで、
誰かと気持ちを交わす練習になるんですね。
これからふたりが、どんな言葉を交わしていくのか。
どうか、そっと見守っていただけたら嬉しいです。