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第5話 ガラスの爪先、届かなかった手紙 〜やさしい甘さで、心ほどける午後〜(今日のレシピ:かぼちゃと豆乳のムースサラダ)

旅の途中で、

ふと、思いがけず手にするものがある。

それは、ずっと忘れていた記憶のかけらかもしれないし、

まだ名前のつかない感情の種かもしれない。

ただ、それを拾い上げた瞬間、

胸の奥で静かに――何かが揺れる。


今回は、ひとつの箱と、届かなかった手紙。

そして、小さな庭で自由に跳ねる金色のしっぽとともに、

ふたりの物語がまた少し、未来へ近づきます。


週末、玲央は鎌倉の山荘へ向かっていた。

夏のはじまりを前に、祖母・紗英から「障子を入れ替えてもらえると助かるわ」と静かな声で頼まれていたのだ。


後部座席では、キャリーケースに入ったシトロンが静かにしていた。

初めての車移動だったにもかかわらず、特に鳴き声をあげることもなく、気圧の変化にもまるで動じない。

目だけはずっと、流れていく景色を見つめていた。

「お前……ちょっと、変わってるな」

そう呟く玲央の声にも、シトロンは反応せず、ただしなやかに尻尾を巻いて静かに座っていた。


山道を少し登った先、木々の間から、瓦屋根の建物が姿を現す。

それが、玲央が育った鎌倉の家――

明治期に建てられた和洋折衷の古い山荘で、片方にはモスグリーンの鎧戸とステンドグラスのサンルーム、もう片方には杉板張りと畳のある数寄屋造りの座敷が広がる、不思議な静けさを湛えた家だった。

玄関の戸を開けると、木と石と風の香りが入り混じったような、懐かしい空気がふわりと包んでくる。

「ただいま」

玲央の声に、廊下の奥から足音が近づく。

祖母・紗英は、変わらぬ落ち着いた佇まいで微笑んでいた。

「いらっしゃい。……その子が、シトロンね」

キャリーの扉を開けると、シトロンは躊躇することなく、静かに足を踏み出した。

絨毯を一歩、畳を一歩、そして廊下の無垢板の床を軽やかに歩く。

すぐに、まるでここが自分の縄張りであるかのように、家中の匂いを確かめはじめた。

そこへ、祖父のリュシアンも縁側から現れる。

「おぉ……この子か。確かにただの猫ではないな」

そう言って優しく目を細めるリュシアンに、シトロンは一度だけ、にゃあと小さく鳴いた。

その声には、どこか礼を尽くすような音の響きがあった。


昼下がり、障子を夏用の御簾戸に入れ替える作業がはじまった。

玲央は古い建具を運び出すため、蔵の奥に足を踏み入れる。

木の香りと紙の匂いが混ざった空間。

埃を払いながら棚の奥を探っていると、ぽっかりと空いた空間に、ひとつだけ布に包まれた箱があった。

手に取った瞬間、ざらりとした感触。

どこか、懐かしい。

薄いレースのカバーの下にあるのは、小さな濃紺の箱だった。

金具がついていて、鍵穴がある。

「……見たこと、ある」

確信ではない。ただ、幼いころ、母が何かを入れていた気がした。

それがこの箱だったのか、似たようなものだったのかはわからない。

けれどその“気がする”が玲央の手を止めなかった。

そっと小箱を持ち出した。

祖母には、なにも言わなかった。

言えなかった、というより、言う必要がないような気がした。


庭では、シトロンがひとり、風の中で遊んでいた。

草を踏む音も軽やかで、花壇のまわりを跳ねながら、ときどき振り返っては尻尾をくるりと巻く。

古い南天の木の下でひとやすみし、次の瞬間には砂利道を疾走している。

都会のマンションでは見せなかったような、生き生きとした瞳。

その姿はまるで、かつてここにいたことがあるような――

不思議な馴染み方だった。

玲央はその背中を見ながら、ふと、心の中で誰かが囁いたような気がした。

「おかえり」――と。


* * *

東京に戻った月曜の朝。

山荘の静けさが幻だったかのように、マンションの窓からは車の音と微かに人のざわめきが聞こえていた。

玲央はリビングのソファに腰を下ろし、足元に置いたトートバッグから例の小箱を取り出した。

深い紺のベルベット地に包まれたその箱は、移動中に少し揺れたのか、手に取ると中で何かがわずかに動いた音がした。

けれど、鍵はかかったまま。開けることはできなかった。

そっと裏を返すと、箱の下に一枚の封筒が滑り落ちた。

白地に、細い金の縁取り。

封はまだ閉じられていて、宛名の下には、流れるような筆致で――玲那という名が記されていた。

手が、わずかに震える。

あの箱も、この封筒も、たしかに見たことがある。

幼い頃、母のドレッサーの上に並んでいた気がする。

けれど、記憶は断片的で、まるで夢の中のように輪郭が曖昧だった。

「……開けるべきなのか、まだ、待つべきなのか……」

小さく呟いたその時、リビングの隅で何かがカラン、と転がる音がした。

振り返ると、シトロンが棚の上にあったガラスのオブジェのかけらを転がしていた。

さわると危ない――そう思って近づこうとした瞬間だった。

光が、ふっと揺れる。

ガラスの破片に触れていたシトロンの前脚が、ふわりと透けた。

ほんの一瞬だけ、爪先が透明になり、光を反射してきらめいたのだ。

「……今の……」

玲央が声を出すより早く、シトロンはくるりと体をひねって、何もなかったような顔をして毛づくろいを始めた。

けれど、玲央は見逃さなかった。

その瞬間、シトロンの目が、一瞬だけどこか遠くを見るような色をしていたことを。

まるで、遥か昔に誰かと交わした約束を、ふと、思い出したかのような。


11時を回ったキッチンは、午前の静けさをまだ残していた。

冷蔵庫の扉をあけ、玲央はかぼちゃと豆乳を手に取った。

頭の中は、箱と手紙と、そして透けた爪のことがぐるぐるしていたけれど、

料理をすると、少しだけ心が整う。

祖母のレシピ帖をめくると、こんな言葉が目に入った。


「こころがうまく動かない日は、

 やさしい甘さで、からだを先にほぐしてあげてね」

 ――『月夜のレシピ帖』より


かぼちゃを蒸し、豆乳と少しの葛粉でムースのように仕上げていく。

味つけを控えた一部を取り分けて、すりつぶしたささみと水菜を混ぜれば、シトロン用のサラダもできあがる。

皿を置くと、シトロンはすぐにやってきた。

においを嗅いで、ゆっくりと食べはじめる。

その合間に、時折こちらを見上げてくる瞳。

玲央は、自分の皿のサラダにスプーンを入れながら、小さく息を吐いた。

「……母さんの手紙、開けてみるよ」

声に出したのは、きっと自分に言い聞かせたかったからだ。

けれどそのとき、シトロンの尻尾がふわりと、玲央の手の甲に触れた。

それは、まるで――

「うん」と頷くような、やさしい返事のようだった。


【今日のレシピ】

『かぼちゃと豆乳のムースサラダ』

〜やさしい甘さで、心ほどける午後〜


▶ 材料(1人と1猫)

・かぼちゃ……100g(皮と種を取り除き、小さくカット)

・無調整豆乳……100ml

・葛粉(または片栗粉)……小さじ1(とろみづけ)

・ささみ(猫用)……1/2ゆでてすりつぶす

・水菜……少量(猫用には細かく刻む)

・塩・こしょう……各少々(人間用のみ)

・オリーブオイル……少量(人間用のみ)


▶ 作り方:

かぼちゃをやわらかく蒸し、豆乳とともに滑らかにする。

葛粉を加えて弱火で加熱し、とろみをつける。

猫用には味つけ前に取り分け、ささみ・水菜を混ぜて冷やす。

人間用には塩・こしょう・オリーブオイルで味を整え、ムース状に冷やす。


※今日はシンプルにスープだけ。

気持ちを整えたい日は、あたたかい味をひと匙ずつ。

ふだんは、くるみとチーズをのせたバゲットと白ワインを添えるのが定番です。


『焼きバゲットとヤギのチーズ 〜タイムとくるみの香りを添えて〜』


▶ 材料(人間用のみ)

・バゲット(スライス)……2〜3枚

・フレッシュ・シェーブルチーズ(山羊乳チーズ)……適量

・くるみ(軽く砕く)……ひとつまみ

・フレッシュタイム……少量(乾燥でも可)

・オリーブオイル……小さじ1

・ブラックペッパー……少々(お好みで)


▶ 作り方:

バゲットを軽くトーストし、表面にオリーブオイルを塗る。

ヤギのチーズをやわらかくして塗り、砕いたくるみとタイムを散らす。

お好みでブラックペッパーをふり、温かいうちに供する。


▶ レシピ帖のひとこと:

「こころがうまく動かない日は、

 やさしい甘さで、からだを先にほぐしてあげてね」

 ――祖母・紗英の『月夜のレシピ帖』より



ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

今回は初めて、玲央が鎌倉の山荘へシトロンを連れて行くエピソードでした。

新しい風景、家族との再会、そして偶然見つけた“記憶の箱”。

ふたりの関係性も、ただの同居から少しずつ“絆”へと変わりつつあるように思えます。

そしてシトロンの爪先に起こった、ほんの一瞬の異変。

あのきらめきは、果たして偶然なのか、それとも――

物語の“月”が、またひとつ顔を覗かせたのかもしれません。


次回は、玲央が手紙の中に記された言葉と向き合い、

祖母・紗英の口から語られる「猫神」と「月の家系」の伝承が、

ふたりの今を、やさしく揺り動かします。


またぜひ、お立ち寄りいただけたら嬉しいです。

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