第19話 眠りのなかで・・・きみがいた (今日のレシピ:祖母の特製ホットミルクと、白蜜すももジャムのビスケット)
昨夜の記憶が、夢なのか現実なのか・・・その境界で揺れる朝、玲央は静かに目を覚まします。
ふとした瞬間に感じたぬくもり、見慣れない姿、そして、確かに聞こえた名前。ひとつずつ、つながっていく“なにか”の気配。
今回の19話では、甘く切ない夜の続きを、静かな朝の食卓とともにお届けします
夜が深まると、鎌倉の山荘はひときわ静けさを増す。
虫の声も遠く、時折、風が木の葉を揺らす音だけが聞こえていた。
ぼんやりとしたまどろみのなかで、玲央は気配に気づいた。
背中に、柔らかな体温。首筋に、ふいに触れた、あたたかくて湿ったもの・・・
(……え?)
玲央がはっと目を開けた瞬間、背中から回された腕に気づいた。そして、耳元に、かすかな吐息がふれる。
金色の髪。裸の肩。夢と現実の狭間に現れたその姿は・・・紛れもなく、人間のシトロンだった。
「……シ、シトロン?」
「……ん。レオ……おはよう……じゃなかった、こんばんは……?」
「なんで……お前……裸か……」
「だって、着るもんないし……」
玲央の脳が、一瞬フリーズする。すぐ隣で、ぴったりと密着する体温。ふいにくすぐったくなるほどの吐息。そして、首筋にそっと押し当てられた唇・・・
「……ん、レオ、いい匂い……」
(……だめだ、落ち着け。僕は冷静なはずだ)
けれど、体は正直だった。耳まで熱くなって、心臓の音がやけに大きく響いてくる。
「お前……いつからここに……?」
「起きたら、なんかレオがすごく遠くにいた気がして、探してた。 そしたら、勝手に歩いて、勝手に人間になって、ここに来てた。……たぶん」
「……たぶん、じゃない」
玲央はぐるぐると混乱する思考を、どうにか整えようとするが、背中に回された腕のぬくもりが、すべてを台無しにした。
シトロンの声が、耳元でふっと笑った。
「レオ……うれしい?」
「……うるさい」
けれど、そのまま拒むことはできなかった。腕のなかのぬくもりが、あまりにも優しくて、玲央はそっと目を閉じた。
その静けさのなかで、胸元の印が、ほのかに光を灯す。
(・・・また、触れてる)
触れることで、通じ合うものがある。そのことを、玲央の身体が、心が、もう知っていた。
* * *
翌朝。
玲央が目を覚ましたとき、布団の隣にはもう誰もいなかった。代わりに、足元のクッションで、小さく丸くなったシトロンが再び眠っていた。
(……やっぱり、夢じゃなかった)
けれど、昨日までよりも、確かに“何か”が進んでいる気がした。印の光、人間化の時間の長さ、シトロンとの距離・・・すべてが、少しずつ変化している。
身支度を終えて書斎に向かうと、すでに祖父リュシアンがそこにいた。静かな朝の光の中で、書棚の奥を探っている姿は、どこか儀式のようにも見えた。
「おはようございます、祖父さま。……何を?」
「……ああ、玲央。来てくれたか」
リュシアンはゆっくりと振り向くと、手にしていた小さな黒い箱を差し出した。それは、漆黒の艶をもつ黒檀のような素材でできており、上蓋には、ほのかに月の模様が刻まれている。
「これは……?」
「おまえに渡す時が来たと思ってな。 これは、“Clavis Lune”――月の鍵と呼ばれている」
リュシアンの手から箱を受け取ると、驚くほどしっとりと手になじんだ。布をほどくと、中から現れたのは、重厚な銀細工のチャーム。
半月と満月、そして欠けゆく月が連なり、ひとつの輪を描いている。
玲央がそっと手に取った瞬間・・・胸元の印が、ふわりと光を放った。同時に、チャームの中心に刻まれた古代文字のような模様が、淡く輝き始める。
「……反応してる……」
「その反応を、私は何年も待っていたよ。 このチャームは、私が若い頃からずっと書斎に保管していたものだ。 先祖の誰かが、異国の地から持ち帰ったとも言われているが…… 開くことも、意味を解くことも、誰にもできなかった」
リュシアンの表情には、どこか安堵の色が滲んでいた。
「玲那にも見せなかった。 だが、おまえには……今なら、渡していいと思える」
玲央はチャームを胸に寄せ、じっと見つめる。月の光をかたどったそれは、不思議なぬくもりを持っていた。
(これは、扉の鍵……)
玲那が遺した“二つの印がふれたとき、言葉が宿る”というメモ。祖母が訳した「継がれし月の血に宿るもの」・・・そして、今、手にしたこの“鍵”。
すべてがつながりはじめている。
「ありがとう、祖父さま。……必ず、意味を見つけてみせます」
リュシアンは小さくうなずいた。
「焦るな。 それは、きっと“導かれるようにして”開かれるものだ」
玲央は、そっとチャームを胸元にしまった。その奥で、印がまた、かすかに光を灯していた。
* * *
チャームの輝きが静かに収まった頃。リュシアンがひとつ息を吐き、小さく肩をすくめた。
「さて。話はここまでにしよう。……ちょうど、いい時間だ」
その声に合わせるように、ふわりと甘い香りが漂ってくる。書斎の襖がすっと開き、紗英が盆を手に入ってきた。
「はい、おつかれさま。ちょっとひと息、ね」
盆の上には、温かいホットミルク。やさしい甘さの白蜜を少しだけ溶かした、特製の滋養飲料。そして、可愛らしく丸く焼かれたビスケットに、手づくりの“白蜜すももジャム”が添えられている。
「これ……昨日の、すももですか?」
「ええ。あの果実酒を漬けた残りで作ったの。少し煮詰めてね。白蜜で仕上げたから、ふわっとやさしい香りが残るのよ」
玲央は受け取ったカップの縁に、そっと唇を寄せた。やわらかな甘さと、ミルクのぬくもりが、体の奥まで沁みていく。
「……おいしいです。なんだか、心がほどけていくみたいで」
「そうでしょう。おなかも、気持ちも、甘くしてからね。今日という一日は、きっとやさしくなるわよ」
そのとき、背後からととととっと軽い足音。猫の姿のシトロンが、すん、と鼻を鳴らして近づいてくる。
「んー……なんかいい匂いする……なにそれ、甘い?」
「ほら、お前にも。ビスケットはまだ温かいよ」
小皿にほぐしたビスケットのかけらと、ほんのすこしだけすももジャムを添えて差し出すと、シトロンは目を細めてぺろりと舐めた。
「……ん、美味しい。 なんか、夜のことが夢だったみたい」
玲央はふっと笑う。
「それでも、夢の続きを生きてるみたいだな。……今は」
「……ふふ。……レオ、すき」
ぽつりとこぼしたその一言に、ミルクの湯気が、やわらかく間をつないでくれた。
・・・こうして、静かだけれど、確かな一日の幕が上がった。
* * *
【 今日のレシピ】
* 白蜜すももジャムのビスケット
* 祖母の特製ホットミルク
果実酒用のすももを再活用した、ほんのり白蜜香る甘いジャム。
ビスケットは少し塩気を残したバター風味で、朝の口福にぴったり。
ホットミルクは、火を止めたあとに白蜜を加えるのがコツ。
体の奥までしみる、祖母のやさしさの味。
『白蜜すももジャムのビスケット』
【材料(約6枚分)】《ビスケット》
* 薄力粉……100g
* ベーキングパウダー……小さじ1/2
* 塩……ひとつまみ
* 無塩バター……40g(冷たいものを角切りに)
* 牛乳……大さじ2〜3
《白蜜すももジャム》
* すもも(果実酒に使った実でも可)……150g(種を除いて細かく刻む)
* 白砂糖……大さじ2
* 白蜜(または蜂蜜でも可)……大さじ1
* レモン汁……小さじ1
【つくり方】
1. ジャムをつくる。
小鍋に刻んだすももと白砂糖を入れ、弱火にかける。
果汁が出てきたら白蜜を加え、焦がさないように混ぜながら煮詰める。
仕上げにレモン汁を加えてひと煮立ち。
少しとろみが出たら火を止めて冷ます。
2. ビスケット生地を作る。
薄力粉、ベーキングパウダー、塩をボウルに入れてふるう。
そこへ冷たいバターを加え、指でほぐすようにしてサラサラのそぼろ状にする。
牛乳を少しずつ加えてひとまとめにし、ラップに包んで冷蔵庫で10分休ませる。
3. 成形して焼く。
生地を6等分し、軽く丸めて手のひらで平らにする。
クッキングシートを敷いた天板に並べ、180度に予熱したオーブンで15分ほど焼く。
焼きあがったら粗熱をとり、冷めたら中心にジャムをのせる。
【レシピ帖のひとこと】
『月のこと、夢のこと、そして、大切な人のこと。
眠りの余韻が残る朝には、甘くてやさしいものをね。
……おなかと気持ちを、ちゃんと目覚めさせてあげましょう』
〜〜祖母・紗英の『月夜のレシピ帖』より
第19話、ご覧いただきありがとうございます。
シトロンの人型出現が少し長くなり、“印”の共鳴や玲央の動揺を描くことで、読者の皆さまにも「そろそろ何かが起きる」という気配を感じていただけたのではないかと思います。
朝食シーンでは、果実酒に続いて“白蜜すももジャム”という形で、紗英の知恵とぬくもりがもう一度、玲央とシトロンに寄り添います。
次回、いよいよ“月の鍵”が本格的に動き出します。リュシアンが握っていた秘密とは・・・
どうぞ20話も、見守っていただけたら嬉しいです。