第18話 継がれしものと、やわらかな夜に (今日のレシピ:祖母の果実酒〈すもも〉)
すこしずつ、過去と現在がつながりはじめています。
玲央のもとに残された「言葉」「記憶」「そして印」。
それが何を意味するのか、まだ本人にもわからないまま、
ただひとつだけ確かなのは・・・
シトロンの存在が、玲央の心に静かな変化をもたらしているということ。
今夜は、ほんの少し、ごほうびのような時間をお届けします。
夜も更けて、玲央は書斎で灯りを落とす前、机の上の整理をしていた。
スケッチ、母の残した紙片、そして、月と契約に関するメモ。
しばらくして・・・
書斎に紗英が、程よく冷えたすももの果実酒を運んできた。
「玲那もね、好きだったの。これ。“色がきれい”って言って……」
紗英は、果実酒の瓶をそっと置きながら、ふと思い出すように微笑んだ。
「このすももね、満月の三日前に摘むって、決めてるのよ」
「……月と、関係あるんですか?」
「うふふ。神護家の“月見のならわし”なの。果実の香りが、いちばん澄む日って言われていてね。そういうの、信じるのも、楽しいでしょう?」
玲央は少し驚いたように頷いた。
そういう感覚は、玲那にも、きっと受け継がれていたのだろう。
「漬けるときにね、すこしだけ、白梅酢を隠し味に入れるの。酸っぱさがまろやかになるのよ。あと、漬けてから三日目の夜に、瓶の蓋を開けて、月の光に少しだけあてる。……これは私の、ちいさなこだわり」
紗英の声が静かに落ちる。
玲央はうなずき、グラスにそっと果実酒を注いだ。
ほんのりピンクに透ける液体が、机の上に静かな影を落とす。
玲央は黙って、その果実酒を口に運んだ。
ひとくち・・・不思議な香りと、やさしい酸味が、じんわりと広がる。
(……玲那が、好きだったのも、わかる気がする)
ふと視線を落とすと、先ほどの紙片・・・祖母が訳したメモが、まだそこにあった。
「……これって、どういう意味なんだろう」
玲央は、指先で紙の端を押さえながら、ぽつりと呟いた。
それは、紗英の筆跡だった。
「それは、継がれし月の血に宿るもの。
受け継ぐ者に、道は開かれる」
「なんというか、予言みたいな言葉で。
でも、母はこういうのを“信じていた”んですか?」
紗英は少しだけ目を細め、静かに頷いた。
「うん。玲那は、自分の中にある“何か”をずっと感じてたのよ。
はっきり言葉にはできないけれど、でも……確かにそこにある、って」
「僕にも……あるんでしょうか。そういう何かが」
「あるわよ。あなたが感じはじめているものが、それよ」
玲央はその言葉を胸に置き、少しだけ視線を落とす。
そのとき、膝にふわりと温かい重みが乗った。
見ると、シトロンが猫の姿でそっと飛び乗り、玲央の膝に前脚をのせていた。
目を細め、静かに見上げてくる。
玲央がその額を撫でると、微かに指先がぬくもりに包まれた。
途端に、胸元に隠れていた“印”が、淡く輝いた。
シトロンの瞳が金色にきらめく。
声にはならない、けれど確かに伝わる・・・
「だいじょうぶ。レオは、もう選びはじめてる」
その瞬間、玲央の心に何かが染み入るように満ちていった。
夢の中で聞こえた“名前”・・・
「……レオ」
その声を、再び思い出す。
たまらなく、切なかった。
けれど、同時に、あたたかかった。
玲央は、静かに目を閉じた。
* * *
その夜。
玲央はベッドに入り、隣の寝台で眠るシトロンに目をやってから、そっと灯りを消した。
月明かりが障子越しに差し込み、静かに夜が深まっていく。
・・・どれくらい、眠っていただろう。
ふと、肌に触れるやわらかな感触で、玲央は目を覚ました。
腕に何かが絡んでいる。背中に、温かくしなやかな体温。
(……え?)
そっと視線を向けると、すぐそばに、長い金の髪がふわりとかかっていた。
しなやかな肩。静かに胸を上下させる寝息。
そして・・・玲央の背後から、自分を包むように腕を回しているのは、人の腕だった。
(シトロン……?)
全裸の青年の姿で、玲央を抱きしめて眠るシトロンがそこにいた。
思わず息を呑んだ。動けない。いや、動きたくない。
背中に触れる素肌。首元にかかるあたたかな吐息。
何も言わず、ただ、しっかりと抱きしめられている。
玲央の胸が、静かに高鳴っていく。
そのとき・・・
「……ん、レオ」
低く、甘く囁くような声。
首筋に、ふっとあたたかい唇が触れた。
キス。
玲央は一瞬、全身が固まった。
そして、次の瞬間、顔がかっと熱くなるのを感じた。
(な、なにをしてるんだ、こいつは……っ)
冷静なはずの自分が、こんなにも動揺している。
けれど、どこか、嫌ではなかった。
むしろ、そのぬくもりに、心がほどけていくようで。
玲央は、目を閉じた。
そっと、シトロンの腕の中に身を委ねながら・・・
月の光が、そっと二人の姿を包んでいた。
* * *
【今日のレシピ】
『紗英のすももの果実酒』
旬のすもも(李)を使って、氷砂糖とホワイトリカーで漬け込むシンプルな果実酒。
ほんのりピンクに透けるやさしい色味と、ふんわりとした酸味が特徴。
冷蔵庫で冷やして、食後にひとくちどうぞ。
▶︎ アレンジアイデア
1. すももの果実酒ゼリー
漬けた果実酒と少量の砂糖、ゼラチンで固めるだけ。
上にフレッシュのすももを飾れば、大人向けのデザートに。
2. すももシャーベット風グラニテ
果実酒をそのまま冷凍し、途中で何度かかき混ぜるとキラキラとした氷菓に。
食後や口直しにもぴったり。
3. すももソースのパンナコッタ
漬けたすももをピューレにし、少し果実酒を加えて煮詰め、パンナコッタのソースに。
芳醇で上品な甘さが、乳製品と相性抜群。
4. 果実酒の香りをまとわせた紅茶
紅茶に、すもも果実酒を小さじ1加えると、
香りが立ち上がり、午後のごほうびに。
▶ レシピ帖のひとこと:
『果実はね、静かな夜にそっと置いておくと、
月の光をすいこんで、やさしい味になるのよ。
・・・思い出と同じ。あせらずに、ゆっくりね』
〜〜祖母・紗英の『月夜のレシピ帖』より
玲那が愛した果実酒のひとくちに、
玲央は彼女の“記憶”と、そこに込められた思いにふれていきます。
その傍らで、ことばにならないやさしさを、そっと届けるシトロン。
胸の奥にずっと眠っていた何かが、静かに目覚めるような夜でした。
玲央にとって、それはきっと・・・
「ただ寄り添う」ことの温度を、初めて心から知った時間だったのかもしれません。
夢と現実の境があいまいなまま、そっと抱きしめられたぬくもりが、
新しい一歩をやわらかく照らしてくれることを願って。
次回は、祖父・リュシアンの登場とともに、「継承される記憶」が少しずつ開かれていきます