第15話 風の記憶が、扉をたたく (今日のレシピ:かぶとえのきの月見椀/小豆ごはんのおむすび/鴨の山椒味噌焼き)
母は、何を見ていたんだろう。
あの空の下で、何を信じて、何を探していたんだろう。
静かに風が吹くこの家で、僕は少しずつ、過去の音に耳を澄ませる。
週末の朝。
玲央はシトロンをキャリーバッグに入れ、ゆるやかな坂道を歩いていた。
着いたのは、鎌倉の山裾に建つ古い山荘。
竹林と石垣、苔むした庭、すこし甘い風の香り。
「おかえり」
祖母・紗英が変わらぬ声でそう言った。
柔らかな和服の襟元には、白と緑の小花。
祖父・リュシアンは庭に椅子を出して、盆栽の手入れをしていた。
玲央は玄関で靴を脱ぎながら、ぽつりと呟いた。
「母のことを……もう少し知りたいんだ」
* * *
その夜、自室に戻ると、机の上に見慣れない小さな箱が置かれていた。
添えられた便箋には、丁寧な筆致でこう綴られていた。
「そろそろ、よいかと思いまして。母上の部屋のものです。」
箱の中には古い鍵が一本。
玲央はそっと扉を開け、書斎に足を踏み入れた。
午後の光が障子越しに射し込み、古い木の机の上に埃をまとったファイルやノートが積まれている。
トートバッグを脇に置き、玲央はそっと資料に手を伸ばした。
母・玲那が遺した、De la Lune家に関する文書、フランスでの記録、そして「月の契約」にまつわる断片。
ふと、一冊の手帳に挟まれた写真に、玲央の指が止まった。
川沿いの小さな橋と、黒鉄の街灯。その足元に、一匹の猫が、まるで影のように写り込んでいる。
ざらりとしたモノクロの質感。構図、街灯の形――どこかで見た風景だった。
(……仁科の写真集と、同じ?)
玲央はハッとし、さらに資料を探しはじめる。
書棚の奥から革表紙の手帳や封筒を取り出し、写真を一枚ずつ見比べていく。
──赤レンガの建物と錆びた街灯。
──ブロカントの看板と石畳。
──三日月をかたどったレリーフ。その下に浮かぶ、猫のような影。
どれもが、仁科がプレゼン資料に使っていたパリの写真集に通じていた。
玲那は、確かにその場所にいた・・・玲央はそう確信する。
トートバッグから取り出した古びたポラロイド写真。
写っているのは、石畳の道と木陰のベンチ。
手帳に何かを記す玲那の横顔。遠くにぼんやりと写るレリーフと獣の影。
裏面には、彼女の筆跡で小さく記されていた。
“Là où la lune se souvient.”
・・・月の記憶が、息をしている場所で。
ペンダント。イニシャル入りのハンカチ。
母が遺したものたちは、どれもが玲央をそこへ導こうとしているようだった。
玲央はそっと呟いた。
「……これは、母の旅の終点じゃない。始まりだったのか」
そのとき、不意に風が通り抜けた。
机の上のスケッチ帳のページが一枚だけ、ふわりとめくられる。
そこには、こう記されていた。
「月が満ちる夜は、誰かが目覚める」
玲央はその言葉を胸に刻みながら、ページをそっと閉じた。
***
「さあ、そろそろ夕食の支度をしましょうか」
台所から紗英がふわりと声をかけてくる。
かぶ、えのき、庭で摘んだ春山椒。
鎌倉の直売所で手に入れた鴨肉も冷蔵庫にあった。
玲央はエプロンを結んで、祖母の横に立つ。
「かぶは、やわらかく炊くのではなく、すりおろしてとろみをつけるの。
そこに卵黄を落として、月のように見せるのよ。」
「月?」
「黄身が、ほら、椀の中にぽうっと浮かぶの」
紗英の動きは流れるようだった。
長年の手仕事の癖が染みついた所作に、無駄がなく、でも優しさがある。
鴨肉には味噌とみりんを塗り、すりつぶした山椒をたっぷりまぶす。
「香ばしく焼き上げると、お酒が欲しくなるくらい、いい香りになるわ」
甘辛と香ばしさが重なり、食欲をくすぐる匂いが台所を満たしていった。
おむすびは小豆ごはん。
土鍋で炊いた小豆と米のほの甘さを、しっかりと塩で引き締める。
「小豆の甘さはほんのり残してね。塩で少し引き締めて結ぶと、いいお味になるのよ」
玲央は、祖母の動きをそっとまねて結んだ。
「シトロンにも、少し作っておいてあげましょうか」
紗英が言いながら、別の小鍋を火にかけた。
中には、すりおろしたかぶとえのき、細かく裂いた鶏ささみが静かに煮えている。
「塩も使わず、出汁もいらないの。かぶの自然なとろみだけで、十分おいしいから」
鍋の中に、ほのかな月のかたちが浮かんでいるようだった。
* * *
その夜。
食卓に三品が並んだ。
かぶとえのきの月見椀。小豆ごはんのおむすび。鴨の山椒味噌焼き。
シトロンも、すっかり落ち着いた様子で椅子にちょこんと座っている。
玲央は汁椀を手に取り、ひと口すする。
とろみのあるかぶが舌にやさしく、卵黄が静かに月のように浮かんでいた。
「玲那はよく言っていたわ。」
紗英がふと、箸を止めて言った。
「“この子はきっと、自分で選ぶ”って。何を信じるかも、どこに立つかも、自分で決める子だって」
玲央は黙って頷いた。
月の光が、ふと窓から差し込む。
そのとき・・・
シトロンが月を見上げ、かすかに鳴いた。
……いや、鳴き声じゃなかった。
「……かえって、きたのか」
それは、人の声のように聞こえた。
玲央が目を見開いて振り返ると、シトロンは静かに目を閉じていた。
尾が、ほんのわずか玲央の足にふれていた。
・・・風が通り過ぎていく。
「月は過去を照らし、風は記憶を運ぶ。 わたしは風の中で、いつもあなたを見ていたい」
その風の中に、母の声があった気がした。
* * *
【今日の料理レシピ(3人分)】
〜かぶとえのきの月見椀小豆ごはんのおむすび鴨の山椒味噌焼き〜
『かぶとえのきの月見椀』
〜とろりとしたやさしい出汁に、卵黄を浮かべて「月」に見立てた一椀〜
▶︎材料(3人分+猫用取り分け可)
* かぶ:3個
* えのきだけ:1パック(2〜3cmに切る)
* だし汁:600ml
* しょうゆ:小さじ1.5〜2(猫用を取り分けた後に)
* みりん:小さじ1.5(同上)
* 塩:少々
* 卵黄:3個(仕上げに浮かべる)
▶︎作り方
1. 鍋にだし汁を入れ、えのきを加えて中火で軽く煮る。
2. かぶをすりおろし、軽く水気を切って加える。とろみが出るまで静かに加熱。
3. 猫用に塩・調味料を加える前に少量取り分ける。
4. 残りにしょうゆ・みりん・塩を加えて味を調える。
5. 器に注ぎ、中央に卵黄をそっと浮かべて完成。
『小豆ごはんのおむすび』
〜ほっとする“おかえり”の味。ごま塩が香るおむすび〜
▶︎材料(3人分)
* 白米:1.5合
* 小豆:1/3カップ(60〜70ml)
* 塩:適量(おむすび用)
* ごま塩:お好みで
▶︎作り方
1. 小豆は軽くゆでこぼし、再度やわらかくなるまで煮る。
2. 白米と小豆を合わせて炊く。小豆の煮汁を一部加えると色づきがよい。
3. 炊き上がったら手を塩水で湿らせ、ふんわり握って6〜8個程度に。
4. ごま塩はお好みでふって仕上げる。
『鴨の山椒味噌焼き』
〜香ばしい甘辛味噌と山椒の香りが食卓に広がる、大人の一品〜
▶︎材料(3人分)
* 鴨もも肉:2枚(1枚約250g)または鴨ロース300g程度
* 味噌:大さじ2
* みりん:大さじ2
* しょうゆ:小さじ2
* 砂糖:小さじ1
* 粉山椒 または 葉山椒:お好みの量で(仕上げ用)
▶︎作り方
1. 味噌・みりん・しょうゆ・砂糖を合わせて味噌だれを作る。
2. 鴨肉は筋を切り、味噌だれに漬けて15分ほど置く。
3. グリルまたはフライパンで皮目からじっくり焼き、火が通るまで加熱。
4. 食べやすく切って盛りつけ、山椒をふる。※お好みで一味唐辛子を少量添えても◎
【シトロンの一皿】
『かぶと鶏ささみの月色とろとろ煮』
(※ヒト用の「月見椀」からインスピレーションを得た、塩・油不使用のやさしい煮物)
▶︎材料(1匹分)
・鶏ささみ:1本
・かぶ(すりおろし):大さじ3
・かぶの葉(やわらかい部分を刻む):少量
・えのきだけ:少々(2〜3cmにカット)
・水:100ml
▶︎作り方
1. 鶏ささみは筋を取り、沸騰したお湯で茹でてアクを取り、火が通ったら細かく裂く。
2. 小鍋に水、かぶのすりおろし、えのき、かぶの葉を入れて弱火で煮る。
3. とろみが出てきたら、裂いたささみを加え、ひと煮立ちさせて完成。
4. 冷ましてから器に盛り、ほんのり黄色みのあるかぶのとろみに「月」を見立てて。
※「卵黄」は使っていませんが、かぶの自然な色味ととろみで“月見感”を演出。
※すべて無塩・無添加で仕上げてあり、猫にとっても安心です。
【 レシピ帖のひとこと】
「記憶の風が吹く日は、月を浮かべた椀ものをひとつ。
おむすびは、ほどけてもまた結べばええ。味も、人の心も・・・」
〜〜祖母・紗英の『月夜のレシピ帖』より
母が見ていた風景。
母がたどろうとしていた記憶。
玲央がその続きを歩きはじめることで、また新しい風が吹きました。
月の椀、おむすび、鴨の焼きもの。
どれも「ただいま」を包み込んでくれる味。
次回、第16話では、夢と現実の境がさらに近づいていきます・・・