第14話 扉は、静かに開いていた (今日のレシピ:ズッキーニと豆腐の落とし焼き と、パセリとひよこ豆のほくほくサラダ)
朝、夢の名残がまだ手に残る。
心のどこかがざわめく日は、丁寧に服を選ぶ。
でも今日の僕は、いつもと少しだけ違っていた。
誰かに見せたい気持ち。誰かに、伝えたい気持ち。
それを選ぶことは、きっと、扉を開けることなのかもしれない。
朝の空気が、どこか澄んでいるようで、落ち着かない。
キッチンには昨夜のスープの残り香が漂っている。けれど、玲央の意識はどこか上の空だった。
夢の中で感じた、あの“手”のぬくもりが、いまだに指先に残っている気がしていた。
ふと立ち上がり、クローゼットの扉を開ける。
黒に近い深いネイビーのスーツに、同系色のシャツ。
ネクタイは光沢を抑えた濃紺。ポケットには細く折りたたんだチーフをそっと差し込んだ。
ダブルのスーツは控えめなヘリンボーン柄。
派手ではない。けれど、誰が見ても目を引く、静かな品と鋭さをまとっていた。
・・・昔から、目立つ容姿だと言われてきた。
背が高く、顔立ちも整っていた。
いつのまにか、勝手に「特別な人」にされることが多かった。
でも、玲央は知っていた。大切な人を失う喪失が、どれほど深く人の心に残るかを。
だからこそ、どこかで決めていたのかもしれない。
誰かに好きになってもらおうなんて思うな。誰かを特別にしてはいけない、と。
それでも。鏡に映る自分の姿を見ながら、今日はふと、こう思ってしまった。
・・・シトロンに、かっこいいと思ってもらえたら、いいのに。
そんな気持ちは、初めてだった。
ただの猫なのに、ただの同居人のはずなのに。
胸の奥で小さく、なにかが動いた気がした。
鏡の向こう。
いつの間にかシトロンが、ドアの隙間からじっとこちらを見つめていた。
言葉はない。ただ、まっすぐに。
まるで、玲央の内心にすでに気づいているかのように。
玲央は視線をそらさず、そっと小さく呟いた。
「……行ってくるよ」
* * *
「猫ちゃん、最近どうですか?」
オフィスのフロアに着くと、仁科がカジュアルに手を振ってきた。
すっきりとしたパンツスーツにスニーカーを合わせた颯爽とした姿。
その軽やかな佇まいは、見ているだけで風通しが良くなるようだ。
「うん。元気。というか……元気すぎるくらい」
玲央が苦笑すると、仁科はうんうんと頷く。
「妹が今フランスに留学してて、昨日一時帰国してきたんです。ストラスブールでピアノやってて」
「……ストラスブール」
「一回だけ会いに行ったんですけど、ほんとに素敵な街でした。木組みの家と石畳、川沿いのカフェとか。おとぎ話みたいな感じで」
玲央の胸の奥で、微かに何かが揺れた。
フランスの空気。川のにおい。湿った石の冷たさ。
「……僕も、昔少しだけパリにいた。八歳のとき、事故で帰ってきて、それっきりだけど」
「え、そうなんですか? それでかぁ〜。どことなく、佇まいがフランスっぽいんですよね」
玲央は小さく笑う。
「……最近、ふと、思い出すことがあるんだ」
「へえ。なんか、思い出すって、ちょっといいですね」
そう言って、仁科はバッグから資料をまとめた封筒を取り出した。
「あ、そうだ。次のプレゼン用にいくつか資料を揃えたんですけど……これ、良かったら。あと、これもつけました」
その中に、一冊の写真集が入っていた。
表紙には、古い街並みの遠景と、風に揺れる石造りのアーチ橋。
「これ、前回妹に会いに行った時に現地で買ったやつなんです。アンティークショップのウインドウに飾ってあって、気になって……中にすごく良い写真がたくさんあったんですよ」
玲央は表紙に手を添え、少しだけ目を細めた。
* * *
夜。
帰宅後、封筒の中の写真集をそっと取り出す。
ページをめくるたびに、微かな記憶が脳裏に触れていく。
石の階段。古い街灯。レリーフのある壁。
・・・知ってる。たしかに、これを見たことがある。
ある一枚の写真の前で、玲央の指が止まった。
川沿いの小さな橋と、黒鉄の街灯。その足元に、猫が一匹、影のように写っている。
その風景に、胸の奥がざわめいた。
ふと、あの小箱のことが頭をよぎる。
そっと書斎の引き出しを開け、べっちん張りの箱を取り出す。
手に取った瞬間、指先が静かに震えた。
蓋を開くと、月と猫を象った銀のペンダント。
それが、まるで待っていたかのように、ほんのりと熱を帯びていた。
玲央はそっと指先でなぞる。
呼ばれている。そんな気がした。
下に敷かれていたハンカチの隙間に、何か紙片のようなものが見えた。
取り出して開くと、そこには細い筆致で、こう綴られていた。
「この場所のことは、きっと、あなたの中の“もうひとり”が知っている」
……“もうひとり”。
胸の奥に、見えない波紋が広がる。
夢の中で見た、霧に包まれた祠。
あのとき、手を取ってくれた青年の瞳。
記憶の奥で、何かが目を覚まそうとしていた。
* * *
玲央は静かにキッチンに立った。
ズッキーニと豆腐をすり混ぜて、ふんわりと焼き上げる落とし焼き。
パセリとひよこ豆のサラダには、オリーブオイルとレモン。
軽やかで、どこか異国の風味をまとった夕食が整った。
ダイニングには、猫の姿のシトロンが静かに座っていた。
玲央が皿を置くと、シトロンがそっと顔を上げる。
いつもより、少しだけ近い距離。
「……きみは、あの夢の中で、僕の手を握ってくれた。知ってるんだろう?」
返事はない。けれど、次の瞬間・・・
シトロンの尾が、玲央の手首にそっとふれた。
それが、今夜の唯一の答えだった。
* * *
【今日のレシピ】
「ズッキーニと豆腐の落とし焼き」
〜ふわっと軽く、でも食べ応えはしっかり。
やさしい香ばしさで、猫もつまめる小判型の一皿〜
▶︎材料(2人分+猫用小分け)
・ズッキーニ:1本
・木綿豆腐:150g(水切りしておく)
・卵:1個(猫用を分ける場合は卵黄のみにしてもOK)
・片栗粉:大さじ1.5〜2
・塩:ひとつまみ(猫用を取り分けた後に加える)
・ごま油または菜種油:適量(焼く用)
▶︎作り方
1 ズッキーニは皮ごとすりおろし、軽く水気を切る。
2 木綿豆腐はキッチンペーパーで包んで10分ほど置いて水切りし、ボウルでなめらかにつぶす。
3 ズッキーニ、豆腐、卵、片栗粉をよく混ぜる。
4 ここで猫用に塩なしで小分けする(※焼くときは薄く、よく火を通す)。
5 残りに塩を加え、油を熱したフライパンでスプーンですくって落とし、両面をじっくり焼く。
6 表面にこんがり焼き色がついたら完成。
「パセリとひよこ豆のほくほくサラダ」
〜爽やかな香りとほくほく食感。
レモンとオリーブオイルが効いた、地中海の風を感じる副菜〜
▶︎材料(2〜3人分)
・ひよこ豆(水煮またはゆでたもの):100g
・パセリ(葉のみ):ひとつかみ(粗みじん)
・オリーブオイル:小さじ2
・レモン果汁:小さじ1〜2
・塩:少々(猫とシェアする場合は取り分けてから)
・お好みで粗びき黒胡椒(人用)
▶︎作り方
1 パセリは細かく刻む。ひよこ豆はざるにあげて水気を切っておく。
2 ボウルにひよこ豆とパセリを入れ、オリーブオイル、レモン果汁で和える。
3 猫とシェアする場合はこの時点で少量取り分けてから、塩と胡椒で味を調える。
▶︎メモ(玲央のひとこと)
ズッキーニはすりおろすことで水分が出やすいので、加える片栗粉の量は調整してください。
サラダのパセリは乾燥ではなくフレッシュが断然おすすめ。
ほんのり香る地中海風が、なんだか懐かしい気持ちを呼び覚まします。
【レシピ帖のひとこと】
「心が少し迷ったら、ひよこ豆とパセリをたっぷりね。
異国の風味は、ときどき過去の鍵を運んでくるのよ」
〜〜〜祖母・紗英の『月夜のレシピ帖』より
今日はほんの少しだけ、自分をよく見せたくなった・・・。
誰にも言えない、そんな玲央の気持ちが、シトロンとの距離をほんの少しだけ縮めたような気がします。
ペンダントの“熱”と、夢の記憶、そしてもうひとりの自分。
静かに扉が開いた第14話、次回は“風が記憶を運ぶ日”。どうぞお楽しみに。