第13話 霧の向こうで、呼ばれていた (今日のレシピ:とうもろこしと豆乳の葛あんスープ と、レモンとハーブの甘酒ゼリー)
夢の向こうに、呼ばれている声がした。
それは昔の誰かではなく、今ここにいる“きみ”の声だったのかもしれない。
玲央の中に再び訪れた“霧の夢”。
月と猫と、祈りを捧げる青年。そして・・・目覚めのあとに見た、あの姿。
シトロンと過ごす朝が、少しずつ変わりはじめています。
触れたはずの手のぬくもりが、記憶をそっと揺らすように。
今日のレシピは、
とうもろこしと豆乳の葛あんスープと、
レモンとハーブの甘酒ゼリー。
玲央用に、バゲットのクリームチーズ添え
とろりと優しい、目覚めの静かな食卓をお楽しみください。
その夜、眠りは浅かった。
雨は止んだものの、どこか空気がざわついていた。
窓を閉めても、風の気配が部屋の奥へとしのび込んでくる。
玲央は、布団の中で目を閉じながら、小箱のことを思い返していた。
絹のハンカチ、写真、月と猫のレリーフ、そして、“Là où la lune se souvient”。
・・・月の記憶が残る場所で。
あの文字を見た瞬間、どこかで鐘の音が聞こえた気がした。
そして同時に、忘れていたはずの記憶がふと揺らいだ。
石畳の路地。白くにじむ空。
母の手に引かれて歩いた、パリの午後。
胸元で揺れていた、小さな銀のペンダント。
それは、玲那が「お守りよ」と言って、幼い自分の首にかけてくれたものだった。
遠い記憶。なのに、今も肌が、その冷たい感触を覚えている。
玲央は起き上がり、静かに小箱を開けた。
底に置かれていた銀のペンダント。月と猫が絡むモチーフは、かすかに光を返していた。
裏返すと、小さな刻印がある。
“Pacte de Lune”
月の契約・・・それが何を意味するのかはわからない。
けれど、指先でなぞった瞬間、胸の奥がかすかに熱を持った。
まるで、何かがそこに呼応したかのように。
玲央は、迷わずペンダントを首にかけた。
冷たい金属が肌にすっと馴染み、呼吸が静かに整う。
それは、初めて身につけるのに、ずっとそこにあったもののようだった。
そのまま布団に身を沈めると、世界がしんと静まり返り、
霧のような白が、意識の奥を満たしていった。
・・・霧の中、鐘の音が響いていた。
甘く、淡い香り。水面の上を歩いているような感覚。
その向こうに、光が差す。
再び現れた、青銀の法衣をまとった青年。
石の祭壇の前にひざまずき、傍らには、金色の瞳を持つ猫が座っている。
「月よ……この命をもって願う。未来を、生きる者たちのために」
その声は祈りであり、約束でもあった。
今度は、青年が振り返り、まっすぐこちらを見た。
玲央は、その瞳の奥に、自分と同じ光を見た。
「君の中にある記憶が、扉をひらく。
そのとき、我らはまた会える」
青年が手を差し出してきた。
玲央がその手に触れようとした瞬間・・・
・・・目を開けると、そこに人の姿があった。
月明かりの中、濡れた金の髪、深く輝く金の瞳。
白いシャツの胸元からは、かすかに月の印が浮かび上がっている。
「……レオ、やっと、思い出したか・・・」
その声に、玲央は息を呑む。
気づけば、彼の指がそっと自分の手に重ねられていた。
やさしく、けれど確かに。
あの夢の中と同じぬくもりが、玲央の掌に宿っていた。
「……シトロン……?」
そう呟いたとたん、空気が揺らぎ、光がにじんだ。
そして・・・次の瞬間には、そこに猫の姿のシトロンがいた。
静かに丸くなり、尻尾を一度だけふわりと揺らした。
玲央は、しばらく動けなかった。
胸元には、まだペンダントが触れている。
手のひらには、彼のぬくもりが、微かに残っていた。
「……夢じゃない。たしかに、きみの手だった」
* * *
朝。
曇り空の下、キッチンの窓から見える緑がしっとりと濡れていた。
玲央は、とうもろこしを包丁でそぎ落とし、出汁を張った鍋に静かに落としていく。
豆乳を加え、葛粉でとろみをつけながら、心の内でつぶやいた。
「……少しずつでいい。ちゃんと、思い出していこう」
その香りに誘われたように、シトロンが足元にやってきた。
にゃあと短く鳴いて、玲央を見上げる。
「お前も、食べるか?」
問いかけると、しっぽがまた、ふんわりと揺れた。
* * *
【今日のレシピ】
『とうもろこしと豆乳の葛あんスープ と、レモンとハーブの甘酒ゼリー』
とうもろこしと豆乳の葛あんスープ(やさしさが、とろりとほどける朝に)
甘みのあるとうもろこしと、まろやかな豆乳を出汁で合わせ、葛粉でとろみをつけた、初夏の体にやさしいスープ。
とろりとした口当たりに、心までほどけていくような温かさ。
猫用にはとうもろこしを少量つぶして、味付け前に取り分けてあげてください。
▶︎材料(2人+猫1匹分)
・とうもろこし……1本(実をそぎ落とす)
・無調整豆乳……200ml
・和風出汁……200ml
・葛粉……大さじ1(水で溶いておく)
・塩……ひとつまみ(人用のみ)
▶︎作り方
1.鍋に出汁ととうもろこしを入れ、5分ほど弱火で煮る。
2.豆乳を加えて、沸騰させないように温める。
3.葛粉を水で溶いて加え、とろみがつくまでゆっくり混ぜる。
4.猫用に取り分けた後、人用には塩で調味して完成。
『レモンとハーブの甘酒ゼリー(目覚めに寄り添う、透明なやさしさ)』
レモンの爽やかさと、ほんのり香るハーブが、甘酒のやさしい甘さと重なり合うゼリー。
体を冷やしすぎず、雨あがりの朝にぴったりのデザートです。
甘酒はノンアルコールのものを使用し、猫には与えず人用に楽しんで。
▶︎材料(小さめカップ3つ分)
・甘酒……200ml
・レモン汁……大さじ1
・ミントやレモンバーム(乾燥でも可)……ひとつまみ
・粉ゼラチン……5g
▶︎作り方
1.甘酒を火にかけ、ミントなどのハーブを加えて温める(沸騰させない)。
2.火を止めてハーブを取り出し、レモン汁とゼラチンを加えてよく混ぜる。
3.型に流し、冷蔵庫で1〜2時間冷やし固める。
『バゲットのクリームチーズ添え(玲央用)』
薄くスライスしたバゲットに、ハーブ入りのクリームチーズを添えて。
スープやゼリーに添えることで、主菜のない日の「満足感」を優しく底上げします。
▶︎材料(2人分程度)
・バゲット(薄切り)……4枚
・クリームチーズ……40g
・レモンの皮……少々
・あらびき黒こしょう……少々(好みで)
・ハーブ(タイム、チャイブ、またはディル)……少々(刻んで混ぜても)
▶︎作り方
1. クリームチーズは室温に戻し、レモンの皮と刻んだハーブを混ぜておく。
2. バゲットを軽くトーストする(カリッと香ばしく)。
3. 焼きたてのバゲットに、クリームチーズを塗って好みで黒こしょうをひと振り。
『レシピ帖のひとこと』
「記憶ってね、夢の中で熟れることもあるのよ。
目覚めたあとに、ふわりと香るぐらいがちょうどいいの」
〜〜祖母・紗英の『月夜のレシピ帖』より
“触れる”という行為は、特別な意味を持ちます。
言葉を交わすよりも、もっとまっすぐに、心と心をつなげる方法。
今回、玲央が見た夢は、ただの幻想ではなく、
かつて交わされた「誓約」の続きのようでもありました。
そして、夢のあと。
ほんのわずかでも、誰かの手のぬくもりが残っている・・・
その感触が、未来を信じていいという合図のように思えたのです。
次回、玲央はもう一歩“その先”へと足を踏み出します。
小さな記憶のかけらと、月の記しを胸に。