表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

12/22

第12話 やさしさを、手にすくう夜に(今日のレシピ:やわらか鶏団子の春菊スープ と、黒ごまとバナナの米粉蒸しパン)

幼いころに見た、雨の日の記憶。

ふと立ちのぼった香りが、玲央の中に眠っていたパリの記憶をやさしく揺り起こします。

玲那が残した絹のハンカチと、色褪せた写真。そこに映っていたのは、月と猫のレリーフと、ひとことのメッセージ。それは、“れお”と呼ばれた夜から続く、不思議な糸の始まりでした。

そしてシトロンは、もう一度、玲央に言葉を届けようとします。

静かな雨音に包まれた、やさしい夜の物語をどうぞ。

今日のレシピは、やわらか鶏団子の春菊スープと、黒ごまとバナナの米粉蒸しパン。

雨の日の身体と心に、そっと寄り添うあたたかい食卓です。



東京に戻ってきた翌日、朝から雨が降っていた。

小さな部屋にこもる雨音は、耳に触れるよりも先に、肌に沁みる。

玲央はソファに腰を下ろし、小箱の中の“あれ”を、掌の上にそっとのせた。

銀のペンダント。月と猫を模したそのモチーフは、手の中で微かに冷たく、けれど、見えない何かを帯びていた。玲那が遺したものだという。青いべっちんの小箱の底に、それは確かにあった。

その奥には、もうひとつ。絹のハンカチが、丁寧に折りたたまれていた。

淡い藤色に、繊細なレースの縁取り。端には小さく、RとLのイニシャルが刺繍されている。指先でそっとなぞると、微かな香りが立ちのぼった。

ふと、その香りの奥に、初夏の午後の記憶が蘇る。雨の降り出す前の匂い。石畳に立ちのぼる湿気と、街角のブーランジュリーから漂う焼き菓子の甘い匂いが混ざっていた。そして、どこかに紛れている、母の髪に宿った香水の香り――それが、このハンカチに染みついている。


「……パリ、だった」


玲央はつぶやく。幼い頃のこと。輪郭のぼやけた記憶の中に、手を引かれて歩いた路地。夕立の気配に空を見上げ、母がハンカチでそっと玲央の額を拭った感触。あのときも、こんな香りがした。

ハンカチの下から、古いポラロイド写真が一枚、滑り出した。石畳の道。ブロカントの看板。木陰のベンチに腰かけて、手帳に何かを記す玲那の横顔。遠くにぼんやり写った建物の壁には、半月をかたどったレリーフと、その下に彫られた獣の影――それは、猫にも見える。

裏面には、彼女の筆跡で小さくこう書かれていた。


“Là où la lune se souvient.”――月の記憶が、息をしている場所で。


玲央は、しばらく言葉を失った。母が大切にしていたハンカチ。その奥に眠っていた記憶。そして、あの夜・・・“れお”と呼ぶ声に、胸元が熱を帯びた感覚。

それは、突然生まれた奇跡なんかじゃない。きっと、ずっと前から繋がっていたものなのだ。

玲央は、そっと写真をハンカチに包み、小箱に戻した。香りだけが、まだほんの少し、指先に残っていた。

振り返ると、窓際に座ったまま、シトロンが雨を見つめていた。金色の瞳に、うっすらと影が差している。言葉を発さずとも、彼の目がなにかを語ろうとしているのが分かる。けれど、まだ言葉にはならないらしい。

玲央は、立ち上がってキッチンへ向かった。


「……今日は、あたたかいものにしよう」

冷蔵庫の中に、鶏ひき肉と春菊、長芋がある。あの夜・・・祖母の山荘で、静かなぬくもりに包まれた記憶が蘇る。あれほど繊細な時間を、自分が求めていたのだと、ようやく気づいた。

ふんわりとした鶏団子のスープを作ろう。そして、蒸し器を取り出し、米粉とバナナを混ぜた素朴な蒸しパンを。あのときの“やさしさ”を、もう一度、手にすくうように。


湯気の立つ鍋の中で、鶏団子が静かに揺れている。その香りに誘われたのか、シトロンが足音を忍ばせてやってきた。


「腹、減ったか?」


そう訊ねると、金の瞳が一度だけゆっくりと瞬いた。まるで、肯定のように。

猫用に取り分けた小さな鶏団子を皿に盛ると、シトロンは静かに頷くように、それを見つめた。けれど、すぐには食べずに、玲央を見たまま口を開いた。


「……レオが作るごはん、好きだよ」


一瞬、時間が止まったような気がした。声は低く、けれど、確かに言葉になっていた。


「……今、喋った?」


問いかけに、シトロンはふっと笑った。


「さあね。夢でも幻でもいいけど、ちゃんと届いたなら、それでいい」


玲央は、黙ってその言葉を受け取った。そして、もう一度だけ、静かに言った。


「ありがとう。……きみのその言葉が、俺には嬉しい」


食事を終えたあと、玲央はバナナの蒸しパンをひと口頬張った。黒ごまの香ばしさと、バナナの甘みが優しく広がる。雨音がそのままスパイスになったような、静かであたたかな味。

窓の外、雨はまだやまない。

目を閉じると、遠い記憶の中・・・幼い頃、母と歩いた雨上がりの道の記憶が、そっと浮かび上がった。

手をつなぎ、歩いたそのとき。ふいに手が離れ、ふり返った視線の先に・・・濡れた路地の奥で、金色の目をした猫が、じっと自分を見ていた。

まるで、ずっと前からそこにいたかのように。


* * *


▶︎【今日のレシピ:やわらか鶏団子の春菊スープ と、黒ごまとバナナの米粉蒸しパン】


『やわらか鶏団子の春菊スープ(雨の日に、ほどけるぬくもり)』

ふんわり仕上げた鶏団子を、春菊と白菜とともにやさしい出汁で煮込んだ一品。春菊のほろ苦さが、しんとした雨音に寄り添います。猫用には春菊を避けて、小松菜などで代用。味つけ前に取り分けてどうぞ。

▶︎材料(2人+猫1匹分)

・鶏ひきむね……200g

長芋すりおろし……大さじ1(ふんわり感アップ)

・春菊……1/2束(※猫用には青菜で代用)

・白菜……2枚(ざく切り)

・片栗粉……小さじ1

・出汁(かつおや昆布)……400ml

・しょうゆ・塩……適量(人用)

▶︎作り方

1. ボウルに鶏ひき肉・長芋・片栗粉を入れてよく練り、団子状に丸める。

2. 鍋に出汁を温め、白菜と鶏団子を入れて煮る。

3. 団子に火が通ったら、猫用に味付け前のものを取り分ける。

4. 春菊を加え、さっと煮て、醤油や塩で味を整えて完成。


『黒ごまとバナナの米粉蒸しパン(素朴な甘さと静けさの記憶)』

熟したバナナの自然な甘みと、黒ごまの香ばしさがやさしく溶け合う米粉の蒸しパン。しとしと降る雨を眺めながら、ふっと微笑みたくなるような素朴な味わいです。猫には、砂糖・ごま無しでごく少量を香りだけ楽しむ程度に。

▶︎材料(小さめ6個分)

・米粉……100g・バナナ……1本(熟したもの)

・無調整豆乳または水……80ml

・ベーキングパウダー……小さじ1

・黒ごま……大さじ1(猫用には除く)

・甜菜糖やメープルシロップ(お好みで)……小さじ1〜2

▶︎作り方

1. バナナをフォークでつぶし、豆乳と混ぜる。

2. 米粉・ベーキングパウダー・黒ごま・甘味料を加えて混ぜる。

3. カップ型に流し入れ、蒸し器で15分蒸して完成。


▶︎レシピ帖のひとこと:

「ぬくもりって、不思議ね。冷えた日は、あの人の声みたいに沁みるの」

〜〜祖母・紗英の『月夜のレシピ帖』より


“香り”には、記憶をひらく不思議な力があります。

玲央がふと手にした絹のハンカチは、ただの遺品ではなく、彼の幼い頃の記憶、母とのつながり、そして、まだ言葉にならない「なにか」の始まりを告げるものでした。

母・玲那の過去。パリという場所で育まれていた、月と猫の記憶。

それらが少しずつ、シトロンと玲央の現在と交差しはじめています。

次回は、写真に写っていた“ある場所”をきっかけに、玲央の「知りたい」という気持ちが動き出します。

雨の午後にぴったりの、やさしいごはんと一緒に、ふたりの物語をこれからも見届けていただけたら嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ