第11話 うつろいのなかで、名前を呼ぶ(今日のレシピ:もち麦と青菜のふんわり団子と、香る桜茶)
朝の光、風のにおい、そして名前を呼ぶ声・・・
静けさの中に、確かに感じた“きみ”の記憶。
玲央とシトロン、ふたりの心にひらく扉の気配を描いた第11話です。
祖母・紗英の静かな語りと共に、玲那の残した「青い小箱」が開かれ、
過去と今が、やさしく結び直されていきます。
今日のレシピは、もち麦と青菜のふんわり団子と、香る桜茶。
香りと記憶をテーマに、静かな朝の食卓をお届けします。
朝の光が、縁側にやわらかく差し込んでいた。風が通ったあとの庭には、夜露を含んだ草の匂いが漂っている。
玲央は、湯呑みを両手で包みながら、無言で庭を眺めていた。桜の葉を浮かべた白湯の香りが、ゆっくりと胸の奥へ染み込んでいく。
足元では、シトロンが丸くなって寝息を立てていた。金の瞳を閉じた顔は、昨夜の“彼”の面影を、ほとんど残していない。それでも・・・
「……お前、覚えてないんだな」
小さく呟いた声に、応えるものはなかった。けれど、ぴくりと耳が揺れる。まるで、聞こえてはいるけれど、何も言わないと決めているかのように。
そのときだった。ふっと風が吹き抜け、風鈴がわずかに音を立てる。玲央が気配を感じて振り返ると、いつの間にかそこに、祖母・紗英が立っていた。
白茶の地に薄墨色の撫子が控えめに染められた単衣。手には、桜の団子をのせた漆の盆と、小さな急須。
「気づいたのね。今朝の風は、あの子の匂いがしたわ」
「……おはよう。起こしてしまいましたか」
「いいえ。こんな朝はね、昔から、いろんな声が届くの。……久しぶりに」
そう言いながら、紗英は玲央の隣に腰を下ろす。しなやかな所作で、縁側にまるで庭の一部のように溶け込んでいた。
「団子、まだ残っていたから。香りは、記憶を呼ぶ手がかりになるわ」
玲央は、小さくうなずいた。盆の上には、もち麦と青菜を練りこんだ団子が、蒸籠ごと湯気を立てていた。
「……昨夜、あいつが、“れお”って呼んだんです。はっきりと」
「そう」
紗英は驚いた様子もなく、むしろ微笑みながら茶を注いだ。
「それは、きっと“ひらいた”のね。……あの子の中の、記憶の扉が」
「記憶……」
「うちには昔から、“月のもとに生まれる子”がひとりずついるの。そういう子は、夢とうつつの境で、何かを感じ取る。……玲那も、そうだった」
「母さんも……?」
紗英はゆっくりとうなずいた。その視線は、庭の奥――木立の向こうにある、小さな祠に向けられていた。
……あの夜、僕は確かに祠の前に立っていた。雨上がりの紫陽花、濡れた石畳、そして淡く浮かぶ“月の印”。木戸の隙間から吹き出す風に、誰かが僕の名を乗せた――そんな夢を見た。けれど、あれは夢ではなかったのかもしれない。
「祠はね、風の向きが変わるときだけ、扉を開くの。うっすら見えていたものが、輪郭をもって浮かび上がる。……満月は、そういう夜よ」
玲央は、湯呑みに目を落とした。香りが鼻腔をくすぐり、胸の奥に静かな温もりが届く。
「僕、自分のこと、わかってるつもりでした。でも・・・わからなくなってきた。あの子のことも、自分のことも。全部、知らなかっただけかもしれない」
「
それなら、ちょうどいいわ」紗英は、どこか満足げに茶を啜った。
「・・・青いべっちんの小箱、気になって持ってきたんでしょう? あれ、玲那のものよ」
玲央は、はっとしたように顔を上げた。そうだ。東京の机の上で何日も眺めていたあの小箱・・・今は、この山荘の自室の机に、そっと置かれている。
部屋に戻った玲央は、机の上の小箱にそっと手を伸ばす。柔らかなべっちん生地の青は、ほんのり色褪せていたが、指先が触れたとき、微かな温もりが返ってきた。
蓋を開けると、絹のハンカチ、小さな紙片、そして・・・銀のペンダントトップが一つ、月と猫を象ったもの。
紙には、フランス語と日本語が入り混じった玲那の筆跡。
「私の中に流れるものを、あなたが受け継ぐなら・・・」「どうか、彼と出会ったとき、自分の心を信じて。 彼は、きっとあなたの名を呼ぶから」
・・・僕は、呼ばれたのだ。昨夜、たしかに“れお”と。
縁側に戻った玲央は、団子をひと口かじった。もち麦のぷちぷちとした食感と、青菜のやさしい風味。ごまの香ばしさに包まれながら、桜の葉の香りがほのかに追いかけてくる。
湯呑みに口をつけると、桜茶の香りが、夢の記憶をなぞるようにふわりと広がった。
シトロンは、眠ったふりをしたまま、しっぽだけをひとふり揺らす。
玲央は、彼の金色の背中を見つめながら、小さく呟いた。「きみは、やっぱり……僕の名前を、呼んでくれたんだよな」
* * *
【今日のレシピ】
もち麦と青菜のふんわり団子 と、香る桜茶
▶︎もち麦と青菜のふんわり団子(猫にもやさしい春の味)
ぷちぷち食感のもち麦と、やわらかく刻んだ青菜を混ぜて丸め、ふんわりと蒸し上げた、やさしい団子。ほんのり香る桜の葉を忍ばせて、口に含むと、春の記憶がひらくよう。
猫用には味つけをせず、人用には白ごまを加えて風味を引き立てます。
材料(8個分)
・炊いたもち麦……1/2カップ
・青菜(小松菜やほうれん草)……50g
・塩抜きした桜の葉……2枚(細かく刻む)
・すりごま(白)……大さじ1(人用のみ)
・片栗粉……小さじ1〜2(必要に応じて)
作り方
1. 青菜をゆでて刻み、水気をしっかり切る。
2. 炊いたもち麦・青菜・刻んだ桜の葉をボウルで混ぜる。
3. 猫用に味つけ前のものを取り分けて丸める。
4. 人用にはすりごまを加えて、同様に丸める。
5. 蒸し器で5分ほどふんわりと蒸し上げる。
6. お好みで、食べるときにしょうゆをほんの少し添えても。
▶︎香る桜茶(春の白湯仕立て)
塩抜きした桜の葉を湯呑みにそっと浮かべ、白湯を注ぐだけの簡単な桜茶。
立ちのぼる香りは、まるで昔の記憶をたぐるような静けさ。
猫には与えず、静かな朝に、自分だけの“香りの記憶”を楽しんで。
材料(1人分)
・塩抜きした桜の葉……1枚
・白湯……150ml
作り方
1. 桜の葉を水に5分ほど浸けて塩を抜き、軽くふき取る。
2. 湯呑みに葉を入れ、白湯をそっと注ぐ。
3. 香りが立ちのぼったら、ゆっくりひとくち。
▶︎レシピ帖のひとこと
「香りには、扉を開く力があるの。目には見えない鍵のように、ふとしたときに、心を導いてくれるわ」
〜〜祖母・紗英の『月夜のレシピ帖』より
朝の光、風のにおい、そして名前を呼ぶ声――
静けさの中に、確かに感じた“きみ”の記憶。
玲央とシトロン、ふたりの心にひらく扉の気配を描いた第11話です。
祖母・紗英の静かな語りと共に、玲那の残した「青い小箱」が開かれ、
過去と今が、やさしく結び直されていきます。
今日のレシピは、もち麦と青菜のふんわり団子と、香る桜茶。
香りと記憶をテーマに、静かな朝の食卓をお届けします。