月の名前を呼ぶ
最終回です。お楽しみください
風が止んだ。
まるで、それまでの時間が夢だったかのように、花びらの舞いも収まり、御花地は静けさに包まれた。
けれど千羽の心は、確かに何かが変わっていた。
澪に「ありがとう」と言えたことが、深く胸に残っている。
「……もう一度、生きてみたいって、思えたんだ」
ぽつりと千羽が呟くと、楓は穏やかに頷いた。
「風はね、過去を運ぶけど、それだけじゃない。前に進む力も、きっと届けてくれる」
千羽はふと空を見上げた。雲が流れ、日が傾き始めていた。夕暮れが、あたりを淡く染めている。
「……帰らないと」
千羽は、手のひらをぎゅっと握る。でも、その足はすぐには動かなかった。
「ねえ、楓さん。わたし、またここに来ていい?」
「もちろん。ここは、風が帰ってくる場所。あなたの記憶も、あなたの願いも、きっと受け止めてくれる」
そう言って、楓は千羽の頭を撫でた。どこか懐かしい手の温もり。――まるで澪が撫でてくれたときのようだった。
***
青岬町の駅まで、渚が送ってくれることになった。
夜の帳が降りはじめた町を、ふたりでゆっくり歩いていく。
「……最初に見たとき、幻かと思ったよ」
渚が笑いながら言う。
千羽は、まだ少し照れたような顔で視線を落とした。
「ごめんなさい。勝手に来ちゃって」
「いや、来てくれて……よかったと思ってる」
ふと、足が止まった。駅までの坂道の途中、電灯に照らされた舗道に、ふたりの影が伸びている。
「澪のこと、教えてくれてありがとう。あの子のこと、ずっと忘れないよ」
「……俺も。きっと、風の中で見守ってる」
沈黙が落ちた。
でも、それは重いものじゃなかった。夕暮れの風が、静かにふたりの間を通り過ぎる。
***
駅の改札をくぐる直前、千羽はもう一度だけ、振り返った。
遠く、空の高いところに、一羽の白い鳥が舞っていた。
「……あ」
言葉にならない感情が、胸にあふれた。
けれど涙は、もう出なかった。
(わたし、行ってくるね)
心の中でそっと呟いて、千羽は再び前を向いた。
***
そして夜――。
紅岬社の奥、社殿の裏手にて、楓はひとり風鈴の手入れをしていた。夏の終わりを思わせるような、静かな夜風が境内を撫でていく。そのとき、不意に背後から声がした。
「肩入れしすぎだよ、楓」
その声に、楓は手を止め、ゆっくりと振り返る。月――ゆえ、がそこに立っていた。
人の姿を借りた、月の神。白い衣をまとい、髪は夜そのもののように黒く長い。
「また出てきたの、月」
「ずっと見てたよ。あの子のことも、あの風の記憶も」
楓は風鈴をそっと吊るし、ひとつ息を吐いた。
「……私は、放っておけなかった。それだけ」
「知ってる。けど、あれは“鳥”の子だよ。風の巫女でも、神の使いでもない。あまり深入りすれば、楓自身が傷つく」
「それでも……」
楓は月を見据える。
「風が呼んだの。だから、私は応えただけ。私にできることは、それしかないから」
月は、その言葉にふっと目を細めた。
「……優しすぎるんだよ、君は」
「あなたが言う?」
思わず楓が笑うと、月も肩をすくめるようにして笑った。
「まあ、確かに」
そして、空を見上げる。
「さて――これから、“鳥の病”が動き始める。風と月だけじゃ、もう抑えきれない。君も、覚悟しておきなよ」
「……わかってる。見届けるわ、ちゃんと」
月は夜の闇に溶けるように、その姿を消していった。
風が、また吹いた。風鈴がひとつ、かすかに鳴った。
まだまだ未回収な伏線もあるので、ゆるーく続き書いていこうと思います。ここまで読んでくださり、ありがとうございました。