御花地
もうちょいで終わりです
神社の境内に、一歩足を踏み入れた瞬間だった。空気が変わった――そう感じたのは、気のせいではない。肌に触れる風が、ふわりと柔らかく、まるで手招きをしてくるかのようだった。
「こっちだよ。ついておいで」
巫女――楓は、そう言って千羽を手招きした。背筋がすっと伸びていて、でも歩く姿には不思議な優しさがある。千羽は、その背に続いて境内を奥へと進んでいった。
***
境内の裏手にある小さな社――そこは、通常の参拝者には開かれない場所だった。苔むした玉砂利の道を踏みしめ、鳥のさえずりだけが響く静寂のなか、ふたりは石の鳥居をくぐった。
「ここが、御花地――天竺葵が咲く場所。風の記憶が眠る場所よ」
そう言って、楓が指さした先には、一面の白。見渡すかぎり、白い花が風に揺れていた。
「……きれい」
千羽が息を呑んで呟くと、楓はそっと頷いた。
「ここに、澪ちゃんの風の記憶がある」
「……記憶って、本当に“ある”の?」
「うん。風はすべてを見ていて、すべてを覚えてる。誰かが強く願えば、その記憶に触れることができる。だけど――」
楓は言葉を切った。
「その風が、あなたを呼んでくれたのなら。千羽ちゃん、あなた自身の中にも澪ちゃんとの“約束”があるんじゃないかな」
千羽は、胸の奥に手を当てた。あの日、月の世界で聞いた声。光の中で交わした、澪との再会の約束。
それが、今ここに繋がっている。
「……わたし、思い出したい。澪ちゃんのこと。全部じゃなくても、あの子が笑ってた記憶を、ちゃんと……もう一度、会いたい」
「それなら、大丈夫。風が、あなたを導いてくれる」
楓がそう言って、手を広げた瞬間、天竺葵の花びらが舞い上がった。風がふわりと吹いて、千羽の身体を包み込む。目を閉じる。風の中に身を委ねる。すると、遠くで、声が聞こえた。
「千羽ちゃん、遊びに行こうよー!」
それは、間違いなく澪の声だった。
***
気づけば千羽は、小さな坂道の途中に立っていた。周囲には、見慣れたようで、でも今とは少しだけ違う青岬町の景色。
「ここ……昔の町?」
「そうよ。記憶のなかの景色。私の中にある、“千羽ちゃんとの日々”」
ふいに隣から声がして、千羽は振り返る。そこには――
「……澪、ちゃん」
白いワンピースを着て、風の中に佇む少女がいた。あの日と同じ笑顔、けれど、どこか大人びた寂しさも纏っていた。
「やっと、来てくれたね」
澪はそう言って、千羽の手を取った。温かかった。風の記憶の中なのに、確かに手があった。
「わたし、ずっと待ってた。千羽ちゃんが、わたしを忘れても、いいように。でも、忘れないでいてくれて、嬉しかった」
「……忘れるわけ、ないよ。わたし、ずっと……ずっと会いたかった」
澪が笑う。その瞳の奥には、風のような優しさがあった。
「もうすぐ、お別れ。でも――最後に、ちゃんと伝えたかったの。ありがとうって。千羽ちゃんと、過ごせて、本当によかった」
「……私もだよ。澪ちゃんがいたから、生きてこれた。ありがとう」
ふたりは、風の中で手を取り合ったまま、しばらくのあいだ黙って立っていた。時が止まったような、けれど風だけが静かに吹き抜けていく。
***
「……戻ってきた」
目を開けた千羽は、再び天竺葵の咲く御花地に立っていた。目元が少しだけ湿っていたけれど、笑っていた。
「会えたのね」
楓の優しい声に、千羽は小さく頷いた。
「うん。もう、大丈夫。ありがとう」
風が、また吹いた。それはどこか、澪の声に似ていた気がした。
次で!最後!1時間以内に出しまぁす☆