第3話:「森の出会い」
「ティア、これって食べられる?」
小さな手で拾い上げたのは、見たこともない紫がかった実だった。
朝露で少し湿っていて、表面がツヤツヤと光っている。
「解析中です」
ティアは無表情のまま、その実を見つめた。
彼女の青い瞳が一瞬だけ明るく光る。
データにアクセスしている証拠だ。
「毒性検出。食用不適。致死率87.3%」
慌てて手から落とした。
地面に転がった実を見つめながら、ため息をついた。
「もう3時間も探してるのに、まだ何も見つからないね……」
朝日が森の木々の間から差し込み始めたころから、私たちは食料探しを始めていた。
昨晩はティアが見つけた小さな洞窟で野宿をした。
あれから丸一日が経って、お腹がグーグーと鳴っている。
「この森は魔素濃度が高く、未知の変異種が多数存在します。安全な食物を見つけるのは困難です」
ティアの言葉に、小さく頷いた。
昨日からティアが説明してくれた「魔素」という存在は、この新世界「ノヴァテラ」特有の物質らしい。
地球に住む生物すべてに何らかの影響を与え、進化や変異を促したとか。
「お腹すいたよ……」
思わず子供らしい愚痴がこぼれた。
この幼い体は、空腹にも弱いみたいだ。
以前の自分なら、もう少し我慢できたはずなのに。
「あと500メートル先に小川があります。そこなら食用可能な生物がいる確率が高いです」
ティアはそう言うと、その方向を指差した。
彼女の体内GPSは驚くほど正確だ。
人間の姿をしていても、その中身はれっきとした最先端AI。
よろよろとした足取りで、彼女の後をついていく。
この幼い体での歩行も、徐々に慣れてきた。
それでも長距離を歩くとすぐに疲れてしまう。
足の裏が痛くて、目にはうっすらと涙が浮かんできた。
「休憩が必要です」
ティアが立ち止まり、振り返る。
何も言っていないのに、彼女は私の状態を見抜いたようだ。
「大丈夫、まだ歩ける……」
強がったつもりだったが、声が震えていた。
ティアは何も言わず、ひざまずいて私の目の高さに合わせた。
「無理は不要です。効率的な行動計画を立てましょう。あなたは私の腕の中で休み、私が川まで移動します」
論理的で冷たい言い方なのに、どこか優しさを感じる。
ティアは感情を持っていないはずなのに、時々そう思える瞬間がある。
「うん……ありがと」
素直に甘えることにした。
彼女の腕に抱かれると、不思議な安心感に包まれる。
金属と人工皮膚のブレンドされた体は、人間の温かさとは違うけれど、それでも心地よかった。
ティアは軽々と私を抱き上げ、川の方角へと歩き始めた。
樹木の間から漏れる日光が、彼女の黒髪に反射して美しく輝いている。
疲れていたせいか、その揺れるリズムに私の意識はだんだんとぼんやりしてきた。
どれくらい時間が経ったのだろう。
水の流れる音で目が覚めた。
「到着しました」
ティアの腕の中から顔を上げると、確かに小川が見えた。
クリスタルのように透き通った水が、岩の間を流れている。
思わず手を伸ばして、その水を触りたくなった。
「水質検査済み。飲用可能です」
ティアは私を地面に降ろすと、水辺に近づくのを見守っていた。
小さな手を水に浸けると、冷たさに思わず「きゃっ」と声が出た。
でも、すぐに慣れて、両手ですくって飲み始めた。
冷たくて甘い水が、乾いた喉を潤していく。
「見てください。食用可能な魚類です」
ティアが指さす先には、小さな魚の群れが泳いでいた。
通常の魚よりも少し色彩が鮮やかで、背びれが発光しているように見える。
「これ、どうやって捕まえるの?」
「私が捕獲します。待機してください」
そう言うと、ティアは驚くほど素早い動きで水に手を入れた。
わずか数秒で、3匹の魚をすくい上げていた。
その動きは人間離れしていて、まるで映像を早送りしたかのようだ。
「すごい……」
感嘆の声を上げると、ティアは何事もなかったかのように、魚を岸に並べた。
「調理が必要です。火を起こしましょう」
それから彼女は周囲の小枝を集め始めた。
私もできることをしようと、近くの小さな枝を拾い集める。
幼い体で持てる量は少ないけれど、それでも役に立ちたかった。
「十分です。これで……」
ティアが言いかけたとき、森の奥から物音が聞こえてきた。
木々がざわめき、何かが近づいてくる音。
大きな足音と、低い唸り声。
「危険です!近づいてください!」
ティアの声が、いつもより強く響いた。
慌てて彼女のもとへ走ろうとした瞬間、それは現れた。
巨大な狼……いや、狼に似た何か。
普通の狼の二倍はある大きさで、全身の毛は青紫色に輝いている。
最も異様だったのは、その背中から生えている長い触手のような器官。
それが空中でうねうねと動き、先端が鋭い刃物のように尖っていた。
「き、きゃああああ!」
恐怖で足がすくみ、その場に立ちすくんでしまった。
幼い体は勝手に震え、表情も泣き顔になっている。
頭では危険を理解していても、体が言うことを聞かない。
「魔獣タイプ:バイオレットハウラー。危険度:B+。対応策を実行します」
ティアの声は驚くほど冷静だった。
そして次の瞬間、彼女の体に変化が起きた。
手首と足首の金属製のブレスレットが光り、形を変え始める。
まるで液体金属のように流れ、ティアの腕に沿って伸びていく。
数秒後には両腕が肘から先、鋭い刃のような形になっていた。
同時に、彼女の青い瞳が明るく発光し、首と手首の青い線も強く輝き始めた。
「バトルモード起動。主要目標:ミラの保護」
魔獣は低く唸ると、突然私に向かって飛びかかってきた。
その速さに反応する間もなく、ただ目を閉じることしかできなかった。
しかし、予想していた衝撃はなかった。
恐る恐る目を開けると、ティアが私の前に立ち、魔獣の攻撃を両腕の刃で受け止めていた。
「移動してください。右側の岩の陰へ」
冷静な指示に、やっと体が動いた。
よろよろと岩の方へ走る。
振り返ると、ティアと魔獣が激しく戦っていた。
魔獣の動きは野生的で予測不能だったが、ティアはそれを完全に分析しているかのように対応していた。
一撃一撃が計算されており、無駄な動きが一切ない。
背中の触手が襲いかかるたび、ティアは精密な動きでそれを避け、反撃を加えていく。
「すごい……」
その戦いは、恐ろしくも美しかった。
ティアの動きは、まるでダンスのよう。
魔獣の牙がティアの肩を掠めると、彼女の体からは人工的な青い液体が少量漏れ出したが、表情は変わらない。
痛みを感じないのだろう。
「弱点特定。攻撃実行」
ティアが一瞬だけ静止し、次の瞬間には信じられない速さで魔獣の首元に接近していた。
鋭い刃が魔獣の喉元を狙う。
しかし、その直前、魔獣の背中の触手が予想外の角度から襲いかかった。
「ティア、後ろ!」
叫んだ声が届くより早く、その触手がティアの体を弾き飛ばした。
彼女は数メートル先に転がり、一瞬動きが止まる。
システムの再起動か何かをしているようだった。
そのわずかな隙に、魔獣は私のいる方向に向き直った。
赤く光る目が、獲物を見つけたように私を捉える。
「だ、だめ……」
震える声を絞り出す。
逃げようとしたが、足がもつれて転んでしまった。
魔獣が一気に距離を詰めてくる。
「いやあああ!」
咄嗟に両手で顔を覆った瞬間、奇妙なことが起きた。
右手の手のひらにある紫色の模様が突然明るく光り始めたのだ。
同時に、体の中から何かが湧き上がってくる感覚。
熱いような、冷たいような、形容しがたい力が全身を駆け巡る。
「えっ……?」
その力が手のひらから放出され、魔獣の前に薄い紫色の壁のようなものが形成された。
魔獣はその壁に激突し、一瞬怯んだ。
しかし、壁はすぐに砕け散り、魔獣の攻撃は続いた。
鋭い爪が私の左腕を掠め、激痛が走る。
思わず悲鳴を上げた。
傷口から血が流れ出し、水色のワンピースが赤く染まっていく。
「ミラ!」
ティアの声が聞こえた。
彼女が信じられない速さで魔獣に襲いかかる。
今度はさらに正確で容赦のない攻撃だった。
鋭い刃が魔獣の首筋を貫き、紫がかった血が噴き出す。
魔獣は苦しげな悲鳴を上げ、身をよじらせた。
ティアはその隙にもう一撃、胸部に刃を突き立てた。
動きが止まり、巨大な体が地面に崩れ落ちる。
「ティア……」
安心したのもつかの間、腕の痛みで視界がぼやけ始めた。
傷は思ったより深く、血が止まらない。
幼い体は、こんな怪我にも耐えられないようだ。
「応急処置を行います」
ティアが駆け寄り、傷口を調べる。
彼女の腕の刃は元のブレスレットの形に戻っていた。
「この傷は……」
声が途切れる。
意識が遠のいていく感覚。
ティアが何かを言っているのが聞こえたが、内容が理解できない。
だんだんと周りの景色が暗くなっていき、最後に見えたのは、ティアの心配そうな……いや、それは私の思い違いか……そんなことを考えているうちに、意識が闇に沈んでいった。
* * *
「……大丈夫?ねえ、聞こえる?」
優しい女の声が、闇の中から聞こえてきた。
ティアの機械的な声とは違う、温かな人間の声。
ゆっくりと瞼を開けると、見知らぬ少女の顔が目に入った。
明るい茶色の髪、優しげな緑色の瞳、健康的な小麦色の肌。
顔には心配そうな表情が浮かんでいる。
「意識が戻りました」
横から聞こえてきたのはティアの声だった。
彼女もそばにいる。
「あ……あれ……?」
私は混乱しながら上体を起こそうとした。
すると、さっきまであった腕の痛みがほとんど消えていることに気づいた。
傷口を見ると、薄い緑色の光に包まれ、かなり塞がっていた。
「無理しないで。魔獣に襲われたんでしょ?」
茶色の髪の少女が言った。
彼女の手が私の傷に添えられており、そこから緑色の光が発せられている。
「あなたは……?どうやって……?」
言葉を探していると、少女は柔らかく微笑んだ。
「私はリーナ。この近くの村から来たの。薬草を探してたら、あなたたちを見つけたってわけ」
リーナと名乗った少女は、15歳くらいに見える。
シンプルな茶色と緑のワンピースを着て、首からは小さな革のポーチが下がっている。
「その光は……?」
「ああ、これ?治癒の魔法。まだ修行中だから大したことないけど、こういう傷なら塞げるよ」
魔法。
その言葉に、昨日ティアから聞いたノヴァテラの説明を思い出した。
魔素の影響で、人間にも特殊な能力が生まれたとか。
「ありがとう……助かったよ」
素直に感謝を告げると、リーナは優しく頷いた。
その表情には警戒心が見えたが、それでも私のような子供を放っておけなかったのだろう。
「で、あなたたちは何者?特に……」
リーナはティアの方をちらりと見た。
無機質な美しさを持つティアは、明らかに普通の人間ではない。
「彼女はティア。私はミラ。私たちは……」
何と説明すればいいのか迷った。
通りすがりの旅人?それとも本当のことを?
「元の住処を失い、移動中です」
ティアが簡潔に答えた。
嘘ではないが、全てを語ってもいない。
「そう……」
リーナは少し考え込むように私たちを見た。
やがて傷の手当てを終え、手を離した。
「傷はだいぶ良くなったかな。でも、完全に治すには時間がかかるし、ちゃんと消毒しないと。それに……」
彼女は私の小さな体を見て、心配そうな表情になった。
「この子、かなり衰弱してる。食べ物は?水は?」
「食料を探していた最中でした」
ティアが答える。
リーナはポーチから小さなパンのようなものを取り出し、私に差し出した。
「とりあえず、これを食べて」
恐る恐る受け取り、一口かじってみる。
素朴だけど、今の私には信じられないほど美味しかった。
あっという間に平らげてしまった。
「ありがとう……本当に……」
声が震えた。
空腹と疲労、それに突然の優しさに、また涙が出そうになる。
「こんな小さな子が森の中で何してたの?親は?」
リーナの質問に、どう答えればいいのか困った。
そのとき、ティアが一歩前に出た。
「ミラの両親は亡くなりました。私が保護者です」
またしても嘘ではないが、真実でもない表現。
でも、今はそれが一番適切な説明かもしれない。
リーナは少し驚いた様子で、ティアを見つめた後、私に視線を戻した。
「そう……大変だったね」
優しく頭を撫でられると、思わずぽろぽろと涙が零れ落ちた。
昨日から溜まっていた緊張、恐怖、悲しみ、すべてが一気に溢れ出す。
「うっ……ひっく……」
子供らしい泣き方をしている自分が恥ずかしかったが、止められなかった。
リーナは何も言わず、ただ優しく私の背中をさすってくれた。
「うちの村はすぐそこなの。一緒に来ないかな?ちゃんとした手当てもしてあげられるし、食べ物もあるよ」
その申し出に、希望の光が見えた気がした。
ティアの方を見ると、彼女は静かに頷いていた。
「ありがとう……お願いします」
リーナは笑顔で立ち上がり、手を差し伸べてくれた。
その手を取ると、不思議な温かさを感じた。
ティアが与えてくれる安心感とはまた違う、人間らしい温もり。
「グリーンヒル村までは歩いて30分くらいだけど……歩ける?」
「大丈夫……」
本当は足がまだふらついていたけれど、これ以上迷惑をかけたくなかった。
しかし、数歩歩いただけでよろめいてしまう。
「やっぱり無理しないで」
リーナが心配そうに言った瞬間、ティアが前に出てきた。
「抱えて移動します」
彼女が私を抱き上げようとすると、リーナは一瞬警戒するような目を見せた。
でも、すぐに表情を和らげ、頷いた。
「そうね、それがいいかも。じゃあ、案内するね」
こうして、思いがけない出会いにより、私たちの旅は新たな展開を迎えた。
リーナの導きで向かう村。
そこで待っているのは、安らぎなのか、それとも新たな試練なのか。
ティアの腕の中で、私はそっと目を閉じた。