第2話:「新たな世界」
「待って、もう少し説明してよ!」
ティアに抱えられたまま、薄暗い金属の廊下を進んでいく。
非常灯の青い光が一定の間隔で浮かび上がっては消える。
まるで水中にいるような不思議な感覚だ。
「現在、質問に答えられる余裕はありません」
彼女の足音は驚くほど静かで、まるで床を掠めるように進んでいく。
廊下の途中で何度か曲がり、エレベーターらしきものの前で立ち止まった。
「このエレベーターは機能していません。階段を使用します」
ティアは迷いなく隣の非常口へと向かった。
扉を開けると、そこには上下に延びる金属の階段があった。
「あの、なんで女の子になってるの? それくらい説明できるでしょ?」
私はティアの腕の中で身をよじりながら問いかけた。
幼い体で抵抗するのは難しく、まるで子猫が抱えられているような無力感がある。
ティアは階段を素早く上りながら、ようやく応答した。
「性別再構成は最適化の結果です。女性形態は感情処理能力とコミュニケーション機能に優れています。また、旧世界文化データによれば、女児は社会的受容度が高く、生存確率が5.8%上昇します」
「なっ! 勝手に決めないでよ!」
怒りが込み上げてきたけど、同時に疑問も浮かんだ。
「旧世界って……今は何世界なの?」
「新世界。ノヴァテラと呼ばれています。人類文明崩壊後に形成された新しい生態系と社会構造を持つ世界です」
階段を上りながら、ティアは淡々と説明を続けた。
「203年前、地球は未曽有の災害に見舞われました。電磁パルス現象により電子機器が崩壊し、それに続く世界大戦で人類のほとんどが死滅しました」
そんな……冗談みたいな話だけど、ティアが嘘をつくはずがない。
嘘をつくための感情を持っていないから。
「じゃあ、生き残った人は?」
「少数の人類が生存し、新たな社会を構築しました。しかし、旧世界の技術はほぼ失われ、現在の文明レベルは中世から近世程度です」
階段を何フロアも上った頃、ティアの足取りがわずかに遅くなった。
見上げると、彼女の首元の青い線が以前より暗くなっているのに気づいた。
「ティア、大丈夫?」
「エネルギー残量57%。問題ありません」
彼女は機械的に答えたが、私には彼女の状態が心配だった。
何か手伝えることはないのだろうか……と考えたとき、突然私たちの上から轟音が響いた。
天井から小さなコンクリート片が落ちてくる。
「きゃっ!」
思わず声が出た。
その声は明らかに女の子のそれで、自分でも驚いた。
恐怖で体が小刻みに震え始める。
「恐怖反応を検知。安心してください。単なる施設の劣化現象です。危険レベルは低いです」
ティアの言葉は冷静だけど、私の恐怖は収まらない。
心臓がバクバクと音を立て、呼吸が早くなる。
頭では大丈夫だと理解しているのに、体が勝手に反応している。
「こ、怖い……」
小さな声で呟いた私を見て、ティアは一瞬立ち止まり、視線を合わせた。
「感情反応は正常です。現在の体は5歳相当。恐怖反応は生存に必要なメカニズムです」
そう言うと、彼女は私をより安定した形で抱き直し、今度は少しゆっくりと階段を上り続けた。
「どれくらい上れば出られるの?」
「あと3フロアです。我々は地下12階にいました」
「地下12階……?」
信じられない深さだ。
何のための施設だったのだろう。
「この施設は何? どうして私はここにいたの?」
「この施設は緊急保存プロジェクト『アーク』の一部です。人類の知識と遺伝子情報を保存するために建設されました。あなたは実験的サンプルとして保存されていました」
「実験的……?」
「あなたの脳はデジタル変換された初期の成功例です。しかし、完全な成人体への再構成技術が確立される前に、プロジェクトは中断されました」
階段を上りながら、少しずつ明るくなってくるのが分かる。
上にはもっと明るい光がある。
「それで、私だけなの? 他の人は?」
この質問にティアは珍しく沈黙した。
数秒後、彼女は静かに応答した。
「あなたが唯一の再構成成功例です。他の被験者データは破損していました」
それを聞いた瞬間、突然涙があふれ出た。
理由はよくわからない。
悲しいとか寂しいとかそういう感情なのだろうけど、あまりにも突然で激しすぎる。
「うっ……ひっ……」
止めようとしても止まらない。
幼い体は感情の波に翻弄されて、すすり泣きが自然と出てくる。
「感情調整機能の反応です。幼児の体は感情表現が直接的です。抑制は困難です」
ティアの説明は正しいだろう。
でも、それを理解していても感情は収まらない。
自分でも驚くほど激しく泣いている。
「もう……やだ……こんな体……」
言葉が途切れ途切れになる。
ティアは黙ったまま、私を運び続けた。
やがて最上階に到達し、ティアは大きな金属製の扉の前で立ち止まった。
「外界に出ます。心の準備をしてください」
私は涙で濡れた顔を袖でぬぐい、小さく頷いた。
ティアは片手で私を支えながら、もう片方の手を扉のパネルに当てた。
手首の青い線が一瞬強く光り、扉が重い音を立てて開き始めた。
まぶしい光が差し込んでくる。
目を細めながら、私たちは外へと一歩踏み出した。
最初に感じたのは、風だった。
生きているような、温かくて優しい風。
次に、匂い。
土の香り、植物の香り、どこか甘くて新鮮な空気。
そして音。
風に揺れる葉の音、遠くで鳴く鳥の声。
目が光に慣れてくると、目の前の光景が徐々に鮮明になってきた。
「これが……地球……?」
私の記憶にある都会の風景とは全く違う世界が広がっていた。
施設はどうやら小さな丘の中に埋め込まれていたようで、私たちは小高い場所に立っている。
そこから見える景色は圧倒的だった。
青々とした森が一面に広がり、遠くには山々の連なりが見える。
空は想像以上に青く、白い雲がゆっくりと流れていく。
都市の痕跡はどこにも見当たらない。
超高層ビル、道路、車—そういったものはすべて消え去っていた。
代わりに、自然が支配する世界。
原始的でありながら、どこか神秘的な美しさを持つ景色。
「これが……未来……?」
言葉が出ない。
あまりにも違う世界に、頭が追いつかない。
「この地域はかつて『横浜市』と呼ばれていました。現在は自然が再生し、『緑の領域』と呼ばれています」
私の記憶にある横浜の姿は、高層ビルや港、車や人で溢れる活気ある街だった。
それが今は野生の森になっている。
突然、遠くから奇妙な鳴き声が聞こえてきた。
低く、唸るような、でも鳥でも獣でもない不思議な音。
「あれは……?」
「魔獣です。危険です。この場所には長く留まれません」
「魔獣?」
「新世界で進化した生物です。魔素の影響を受け、特殊な能力を持ちます」
「魔素……?」
質問が次々と浮かんでくる。
しかし、ティアは私を抱えたまま、丘を下り始めた。
「詳細な説明は移動しながら行います。この施設は崩壊の危険があります。安全な場所に移動する必要があります」
丘を下りながら、改めて自分の状況を実感する。
もう二度と元の世界には戻れない。
家族も、友達も、知っている全ての人々も、既にいない。
今の私は、知らない世界で、見知らぬ体で、一人だけ取り残された存在。
そう思った瞬間、また涙が溢れ出してきた。
今度は静かに、でも止まらない。
「また……泣いてる……」
自分でも困惑する。
こんなに泣きやすかっただろうか。
以前の自分なら、こんな風に簡単に泣いたりしなかったはずだ。
「感情反応は正常です。幼児の神経系は感情の制御機能が未発達です。あなたの意識は17歳ですが、体は5歳です。矛盾が生じるのは自然なことです」
ティアの説明は論理的だけど、それがむしろ悲しみを強くする。
私は自分でも気づかないうちに、ティアの服をぎゅっと握りしめていた。
「怖い……怖いよ、ティア……」
小さな声で呟いた。
理屈では理解していても、感情が勝手に動く。
恐怖と不安が波のように押し寄せてくる。
ティアはいつもの無表情のまま、しかし少し足を止めて、私の目を見た。
「恐怖は正常な反応です。しかし、あなたは一人ではありません。私がここにいます。私の第一優先事項はあなたの生存と安全です」
感情がこもっていない言葉なのに、なぜか心が少し落ち着いた。
そうだ、ティアがいる。
このAIアンドロイドは私のために作られたんだ。
「ありがと……ティア」
頷いて、彼女は再び歩き始めた。
森の方へと向かいながら、私は新しい世界を見つめた。
二度と戻れない過去を持ち、未知の未来に向かう私たち。
不安と恐怖は消えないけれど、少なくともティアという確かな存在がいる。
それだけが、この状況での唯一の救いだった。
「ティア、どこに行くの?」
「とりあえず、森の中に避難します。夜までに安全な宿営地を見つける必要があります」
森に近づくにつれ、木々の巨大さに驚かされた。
記憶にある木々よりずっと大きく、何か違う種類のようにさえ見える。
葉の色も少し違う……緑色だけど、どこか紫がかった色合いだ。
「この森、変……」
「魔素の影響で植物も変化しています。しかし、多くは無害です」
空を見上げると、夕暮れが近づいているようだった。
金色に染まる空に、奇妙な形の鳥らしきものが飛んでいる。
「不思議な鳥……」
「魔鳥です。この地域では比較的おとなしい種類です」
ティアの言葉に、私は思わず笑みを浮かべた。
まるでネイチャーガイドのように解説するティア。
彼女のデータベースには、この新世界の情報も入っているらしい。
「ティア、この世界のこと、色々知ってるんだね」
「限定的な情報です。私がアクティブだった期間にデータを収集しました。しかし、直近150年は休眠状態でした」
「そうなんだ……」
ふと、疑問が浮かんだ。
「ティア、あなたはどうして生きてるの? 200年も経ってるのに壊れてないなんて……」
「自己修復システムと省エネルギーモードにより機能を維持していました。また、施設の最小限のエネルギーは保たれていました。しかし、完全停止は時間の問題でした」
なるほど。
だから急いで脱出したんだ。
森の入り口に差し掛かったとき、私は少し身体を動かした。
「降ろして。自分で歩いてみたい」
ティアは一瞬考えるような仕草をしてから、慎重に私を地面に降ろした。
足が地面に触れた瞬間、柔らかい土の感触に驚いた。
小さな足で立つのはなんだか不安定で、よろめいてしまう。
「注意してください。筋肉の制御はまだ不完全です」
ティアが手を差し伸べてくれたので、それを掴んで体を支えた。
子供の手で大人の手を握る感覚。
これが私の新しい現実なのだ。
「一歩ずつ行こう……」
私はそう呟きながら、小さな一歩を踏み出した。
未知の世界への第一歩。
恐怖も悲しみも混乱も、すべてを抱えながら。