りんと桜
悠真と付き合い始めて、三ヶ月が経った頃、悠真がりんの家に初めて遊びにきた日のことだった。
りんの家、と言ってもそれはりんの実家を指すのではなく、りんが一人暮らしを始めたマンションのことだ。
りんは大学生になると同時に、一人暮らしを始め、やっと慣れて落ち着いてきた頃に初めて自分の彼氏を家へと呼んだ。
何も期待していなかった、と言ったら嘘になる。二人きりの空間で良い雰囲気になったら良いな、くらいはりんも想像したりしていた。りんとて一人の女子大学生なので、期待してしまうのは当然かもしれない。
でも、まさか。
まさか、こんなことになるなんて……。
今日りんは、りんの予想を遥かに上回る出来事が起きてしまった。
***
悠真は午後の三時にやってきた。
りんはおやつを出すのに丁度良い時間だと思い、手作りのアップルパイを悠真に出すことにした。
「昨日、アップルパイ作ったの。良かったら食べて」
昨日の夜に作ったものを冷蔵庫から出し、トースターで温める。すると、悠真がりんの隣にきて口を開く。
「アップルパイ?りん、そんなもん作れんのか?」
「うん。動画見ながら作ったの。時間はかかるけど、意外と簡単なんだよ。動画通りにに作ってたら思ったよりも大きいのが作れちゃったから、悠真には大きいサイズのアップルパイあげるね」
「すげえな。アップルパイって言われたから、長方形のちっこいやつ想像してたけど、りんはでっけえ丸い皿に作ってそれを切ったんだな。外国のアップルパイって感じがして本格的だな」
「ふふ、ありがとう。お口に合うと良いんだけど…」
「りんが作ったんだから、合うに決まってるだろ」
りんはトースターの中でじっくりと温まったアップルパイを取り出し、お皿に置く。そして、冷凍庫からバニラアイスのカップを取り出し、スプーンで作ってアップルパイの上に乗せた。
それを見た悠真が目を丸めて、驚いた顔をしながら言った。
「おい、何してるんだ。何でアイスなんてのっけんだよ」
「え…。海外の動画見ながらアップルパイを作る方法を研究してたら、みんなバニラアイス乗せてたから…」
「ふうん、そういうもんなのか。でも、それあうのかよ?」
「…分からない」
「おい。わかんないのにのせたのか?」
「ご、ごめん…。やっぱり取ろっか…?」
「いい。海外ではそういうことやってる奴もいるんだろ?だったら、その組み合わせが好きってやつがいるってことだ。俺も初めてだけど試してみる」
二人はしばらくすると机について、お互いに用意されたアップルパイを口に運んだ。
しばらく無言が続いたが、悠真が先に口を開いた。
「…くっそうめえ」
「ほ、ほんと⁉︎」
「…これやべえな。こんなんぜってえ売れるぞ」
「そんな。私なんてただの素人だよ」
りんは恥ずかしながらも、嬉しそうに言った。
「うまかった。作ってくれてありがとうな」
悠真は食べ終わると、本当に満足した顔でそう言ってくれた。りんも思わず、嬉しくなり笑顔でどういたしましてと答える。すると、ぽん、とりんの頭に何かがのる。
「ほんと、感謝してる」
「…っ」
頭をぽんぽんとされ、りんは顔がすぐに赤くなる。
やってる本人も恥ずかしいかもしれないが、りんもそれ以上に恥ずかしくてたまらなかった。しかし、同時に幸せが胸の中に広がっていく。
(時間かかって大変だったけど、作って良かったな…)
大変だったデザート作りも、悠真の感謝の言葉と頭を撫でられたことによりりんは結果的に作って良かったと思えた。
一見、りんが単純な性格に見えるかもしれないが、好きな人にそう言われては仕方のない事なのかもしれない。
二人はそのあと、映画を見て、そして夜ご飯も食べ終わった。
ここまでは順調に事が進んだ。しかし、ここからりんの予想外の出来事が起きてしまったのである。
ご飯を食べ終わり、二人でソファーで休憩している時のことだった。
映画の感想を二人で語り合っていると、突然悠真がりんの髪に触れた。
「りん、今日俺が来るからって色々準備して疲れてねえか」
りんは悠真に自分の髪を耳にかけられていることに少しくすぐったいと感じつつ、答える。
「疲れてないよ。悠真のためならどんだけでも頑張れるから」
「…今日、このあと用事あるのか」
「用事…?ううん、悠真のために今日は一日空けておいたよ」
「…そうか」
「でも、どうしてそんなこと…」
と、その時だった。
「ん、え?」
ソファーが大きくぎしり、と音を立てた。
りんはいきなりのことに、何が起こったか理解できないでいた。
「りん……いい、か?」
気づいたら、りんは悠真に押し倒されていた。
痛くはないが、手首を掴まれ、悠真に覆い被さられていた。
悠真の匂いが鼻腔の奥へと通り抜ける。
男の子の匂い……悠真の匂いだ……と、りんはぼんやりした頭で思った。
「何、を…?」
本当は悠真が何を言いたかったのか分かっていたが、りんは信じられたくてあえて愚かな質問を訊いてしまった。
「だから……そういう、まあ」
悠真が気まずそうに口をごにょごにょとさせるが、ついに言った。
「りんとそういう事がしたいんだよ。だめ…か」
りんは何と言って良いか分からなかった。やっと口から出た声は情けないほど小さかった。
「だめとかじゃないけど、いきなりのことで私どうしたら良いのか…」
「俺に触れられるの嫌か」
「い、嫌じゃないっ。そんなことは絶対にないっ。だ、だけど…」
「なら、いいか。俺ももうあんまり待てねえんだけど…」
「っ、んん…」
りん口の中に突然生温かく、柔らかいものが優しく押し込まれる。
それは決して無理矢理ではない、けれど確かに相手が求めているとわかるほどの優しく甘いキスだった。
「っ、はっ」
数秒間続けてから、りんは息継ぎをする。
りんはいきなりのことでさっきから頭が混乱しいた。
だというのに、キスをされてさらに頭の中がパンク状態になり、りんはついに感情が溢れ出てしまった。
「ゆ、悠真ぁ…」
りんの目からぽろりと一滴の涙が出た。
「っ、りん…」
決して悲しかったわけじゃない。…いや、分からない。色んな感情がごちゃ混ぜになり、それが一気に押し寄せて涙となって出てしまったのだ。
「わ、わりい…俺、そんなつもりじゃ…」
「ごめん、ごめんね……私が心の準備出来ていないばかりに……」
「おい、謝んな。謝ることなんて何一つねえだろ。もう何もしねえから、泣くな。俺が悪かった。ごめんな」
「うぅ…」
悠真はりんに覆い被さるのをやめ、泣いているりんを起こそうとした。
しかし、りんは両手で顔を覆い泣いていたので、手が塞がっていて起こせそうになかった。
しばらくりんの泣き声が部屋に響き渡る。しかし、りんの泣き声は必死に声を抑えようとしているような必死で、とても悲痛な泣き声だった。
「…りん、ごめん」
悠真はもう一度謝るが、それ以上に何も出来ないのがとてももどかしかった。
「悠真は、悪く、ない…」
りんは泣きながらも、悠真を責めることは決してなかった。
悠真の心が痛む。
「俺、長居しちまったな。俺そろそろ帰るよ。今日は色々してくれてありがとうな」
「え…もう、帰るの?」
悠真は半ば逃げるかのように、りんから離れ、帰り支度をして準備をする。その様子を見たりんは目を丸くした。
「ああ、これ以上、りんに迷惑かけたくねえし…」
悠真はその場に泣いている彼女を残して帰るのはどうかと思ったが、これ以上悠真が変なことをしてりんを悲しませるよりはマシだと思った。
「迷惑じゃないよ。ごめんね、私が最後の最後に雰囲気を壊しちゃって……私……」
「りんのせいじゃねえよ。俺が無理矢理あんなことしようとしたのが悪いんだ」
「そんな。彼女として、悠真のしたいこともしてあげられないなんて彼女失格だよ」
「そんなわけねえだろ。それに、りんに嫌な思いさせてまでそんなこと無理矢理したくねえよ。…ほら、顔上げろ」
悠真はりんの肩に触れた。すると、りんがゆっくりと顔を上げて、涙目で悠真を見る。
「今日はゆっくり休めよ。ちゃんと寝るんだぞ。分かったな?」
「うん……」
「…じゃあ、俺行くな」
悠真の手がりんの肩から離れると、りんは名残惜しそうに悠真を最後まで目で追った。しかし、玄関まで見送りをする勇気はなく、りんはその場に取り残される。
ガチャリ、と玄関のドアが閉まる音がすると、りんは気が一気に緩み、また涙がぽろぽろと溢れてきた。
りんは人を傷つけるが嫌いだ。だというのに、一番大切な人を傷つけてしまった。
こんなことくらいで泣いてはいけない、そう思って自分に言い聞かせるのに、悠真の傷ついた心境を考えると泣かずにはいられなかった。
りんはしばらくすると泣き疲れて、その場で眠りに落ちた。




