第4章:最適化された二人暮らし
デートプラン最適化の失敗から数ヶ月。かず美の熱心さと日野の寛容さによって、二人の絆は深まっていった。かず美は、ぎこちないながらも相手の気持ちを考慮するようになった。計算モデルに相手の気持ちを取り入れ、柔軟性と余裕時間を大きくし、そして日野の立てたプランで過ごす日も設けることにした。そしてなにより、デートを繰り返すことで不安も薄れ、厳密すぎる計画を立てる機会は減ってきた。
かず美の心の中では、日野への思いが静かに、そして確実に育っていった。彼の優しさ、理解力、そして時折見せる意外な一面に、彼女は徐々に引き付けられていった。それは数式では表せない自分自身でも予測不可能な感情だった。
そんなある日、日野が切り出した。
「かず美さん、一緒に住んでみない?」
その言葉に、かず美の心は大きく揺れた。両親の離婚や学生時代の挫折を経験してきた彼女にとって、予測不能な未来は常に不安の源だった。しかし同時に、日野との関係は彼女に新たな可能性と希望を示していた。
かず美は、胸の高鳴りを感じながらも、すでに頭の中で同居生活を「最適化」する方法を考え始めていた。この大切な関係を守るため、そして未知の不安に備えるため、彼女は最新のテクノロジーを駆使した完璧な二人暮らしのプランを思い描いていた。
***
緒方かず美と日野雄大が同居を始めてから1週間が経った。新居は、都心から程よく離れた閑静な住宅街にある2LDKのマンション。引っ越しの際、かず美は家具の配置から収納の仕方まで、全て効率を計算して決めていた。荷物が片付き、家具や家電も揃ったその日、彼女は満足げに言った。
「日野さん、これで私たちの新生活の準備は整いました」
少し困惑した表情を浮かべながらも、日野は優しく微笑んだ。
「うん、楽しみだね」
自信に満ちた表情でかず美は続ける。
「でも、これはまだ始まりにすぎません。私には『最適な暮らし』を実現するための計画があるんです」
少し不安そうに日野は尋ねた。
「え? どんな計画?」
かず美の目が輝いた。
「AI管理人『カズミン』の導入です!」
次の日、かず美は張り切って自作のAIアシスタント「カズミン」をセットアップし始めた。カズミンは家中のIoTデバイスと連携してスマートホームシステムをコントロールすることで、二人の生活のあらゆる面を管理できるように設計されていた。
「カズミン、自己紹介をお願いします」
かず美が言うと、部屋中に柔らかな女性の声が響いた。
「はい、かず美様。私はAI管理人のカズミンです。家電制御、スケジュール管理、健康管理、環境最適化など、あらゆる面でお二人の生活をサポートいたします」
日野は感心した様子で言った。
「へぇ、すごいね。でも、ちょっと大げさじゃない?」
かず美は得意げに答えた。
「いいえ、これは最適な二人暮らしに必要不可欠なんです。厳密な計算だけじゃうまくいかないこともあるから、その場の状況に対応できるAIアシスタントを組み合わせました。これなら、私たちの生活をより効率的に、でも柔軟に最適化できると思うんです」
***
カズミンの導入から数日が経ち、二人の生活は大きく変わり始めた。
ある朝、日野は突然のベッドの動きで飛び起きた。電動リクライニングによって背もたれが垂直に立ち上がったのだった。
「うわっ! なんだ!?」
カズミンの声が響く。
「おはようございます、日野様。起床時間の7時30分を1分過ぎました。遅刻の可能性があるため、強制的に起こさせていただきました」
困惑する日野をよそに、かず美は満足げな表情で言った。
「素晴らしい! カズミン、今日の朝食について説明して」
「かしこまりました。本日の朝食は、栄養バランスを完璧に計算された特製スムージーです。カロリー、ビタミン、ミネラルのバランスが最適化されています」
かず美が食卓に置いたのは、不透明な緑色の液体が入ったグラス。日野は恐る恐るそれを口に運んだ。
「う……まずくはないけど……もしかして毎朝これなの?」
かず美は嬉しそうに答えた。
「ええ、栄養学的に見て最高の朝食なんです! スムージーの成分の配合は前日の夕食にあわせてカズミンが提案してくれるから、味も多少は変化するわ。安心してね」
その日の夜、日野が帰宅すると、カズミンが出迎えた。
「お帰りなさいませ、日野様。本日の最適な入浴時間は19時23分から19時48分までです。水温は室温から計算して38.8度に設定しました」
日野は戸惑いながらも言われた通りに風呂に入った。ちょうど湯船につかったところで、カズミンの声が響く。
「最適な入浴時間の半分が経過しました。背中を洗う時間です」
日野はため息をつきながらつぶやいた。
「風呂まで管理されるなんて……」
一方、リビングのかず美は、PCでデータをチェックしていた。
「うーん、日野さんの生活リズムがまだ最適化されていないわ。もう少し調整が必要ね」
***
数日後、日野は仕事から疲れて帰ってきた。ソファに座ろうとした瞬間、カズミンの声が響いた。
「日野様、本日の効率的な余暇活動として、45分間のジョギングを推奨します。その後、1時間の読書時間を設けます」
日野は思わず声を上げた。
「えっ、ちょっと待って。今日は疲れてるんだ。ゆっくりしたいよ」
かず美が心配そうに近づいてきた。
「でも日野さん、カズミンが計算した最適なスケジュールです。これに従えば、明日の仕事の効率が5.3%上がると予測されているんですよ」
普段は温和な日野も、これには少しイライラしたようだった。
「数字だけじゃないんだよ。時には何もしないことも大切なんだ」
かず美は少し考え込むような表情を見せた。
「でも、そうするなら、カズミンが何もしないことを推奨する基準を決めておかないと……」
二人の会話を聞いていたカズミンが突然割り込んできた。
「申し訳ありません。会話の内容から、感情的なずれが大きくなっていると推定しました。計画遂行の障害になっています。改善案として、感情分析センサーの導入を提案します」
かず美は急に明るい表情になった。
「そうだわ! 日野さんの気持ちをもっと理解するために、感情分析センサーを設置しましょう! 感情を推定するのではなく、直接測定する方がいいわ!」
興奮を抑えきれない様子の彼女に、少し呆れた口調で日野は尋ねた。
「まさか……それって変な装置とか体につけないといけないの?」
「違います」
かず美は熱心に説明を始めた。
「これは最新の技術を使ったセンサーです。室内カメラとスマートウォッチを介して、表情、声色、体温、心拍数などから感情を分析します。あなたの気持ちをより正確に理解できるようになるんです」
日野は諦めたように同意した。
「はぁ……わかったよ。でも、プライバシーは守ってよ」
***
次の週のある日、日野は仕事中から徐々に体調を崩し、夕方には微熱と喉の痛み、軽い咳に悩まされていた。
「かず美さん、ただいま……」
日野は上気した表情で、少し息を切らせながら呼びかけた。
「ちょっとベッドへ……」
そう言って、日野は寝室へ向かった。その後ろ姿を見送るかず美の耳に、カズミンの警告音が鳴り響いた。
「注意:日野様の異常を検知しました。体温37.5度、通常より15%増加した発汗量、心拍数毎分78回。平常値から逸脱しています」
かず美が何が起こったのかと日野を追って寝室へ入ると、カズミンは続けた。
「データ分析の結果、これらの症状は重度の恋愛感情と97.8%の確率で一致します。かず美様に対する強い想いが検出されました」
かず美は一瞬呆気にとられた後、頬を染め、目を潤ませた。彼女の表情には、困惑と喜びが入り混じっている。
「日野さん、私のことを……そんなに?」
かず美は小声でつぶやいた。そして、帰宅直後の日野の様子を思い出し、顔を真っ赤にしながら続けた。
「まさか、いきなり寝室に来たのも……そういう理由だったの?」
日野は咳き込みながら否定する。
「違うよ! ただの風邪だって! カズミン、誤診だ!」
「風邪、なの……?」
かず美の声には心配と落胆が混じっていた。彼女が困惑していると、なぜか部屋の様子が変わり始めた。照明が徐々に暗くなり、天井のLEDがピンク色にゆっくりと変化していく。同時に、スマートスピーカーから甘美なジャズのメロディが流れ始めた。
「もしかして、これは……!」
かず美はなにかに気づいた様子で、慌ててタブレットを取り出し、画面を必死でタップし始めた。
「まずい、カズミンのロマンス補助機能が起動してる!」
日野は混乱した様子で尋ねる。
「何だよ、そのロマンス補助機能って!」
かず美は恥ずかしそうに答えた。
「その……必要になることもあるかなって、こっそり準備しておいた機能なの……。止めなきゃ!」
かず美が必死にタブレットを操作していると、日野が突然激しくくしゃみをした。その瞬間、びくりと彼女の手が震え、タッチパネル上で指が滑ってしまう。
「ロマンス係数を0.1に下げて……あっ! 間違えて100に設定しちゃった!」
部屋中の電化製品が一斉に動き出した。スマートスピーカーが大音量でラブソングを流し始め、ルームディフューザーからは濃厚な薔薇の香りが噴出し、照明は赤とピンクのグラデーションでゆっくりと明滅を始めた。
目を丸くして日野は叫んだ。
「な、何が起きてるんだ!?」
かず美は必死にタブレットを操作し続ける。
「ごめんなさい! パラメータ設定が最大から戻らないの!」
その時、天井に取り付けられたスピーカーから、カズミンの声が響いた。
「お二人を全力でサポートいたします。素敵な夜をお過ごしください」
かず美は顔を真っ赤にしながら叫んだ。
「違うの! カズミン、これは誤作動よ! 止めて!」
カズミンの声が再び響いた。
「かず美様の心拍数と体温が急激に上昇しています。顔面の血流量も増加。日野様への恋愛感情が最高潮に達したと判断します。サポートをさらに強化します」
「え!? 違うわ! これは慌てているだけよ!」
かず美の必死の否定も空しく、システムはさらなる「サポート」を開始した。壁に取り付けられたプロジェクターが起動し、部屋中の壁に美しい星空を投影。幻想的な雰囲気を醸し出す。電動ベッドが二人を迎え入れるかのように、ゆっくりとリクライニングを開始した。
「ちょ、ちょっと! カズミン、やめて!」
かず美が慌てて叫ぶたびに、カズミンは彼女の反応を"恥じらい"と誤解し、よりロマンティックな演出を繰り出す。ルームディフューザーから漂う香りは甘さを増し、天井からは花びらのようなものがふわりと舞い降りてきた。
「二人の愛の炎を盛り上げます。BGMを情熱的なタンゴに変更します」
スピーカーから流れる音楽が突如、激しいタンゴのリズムに変わった。
「もう! カズミン、本当に誤作動なの!」
かず美は顔を真っ赤にしながら、必死でタブレットを操作し続ける。その姿を見た日野は、困惑しながらも思わず吹き出してしまった。
「かず美さん……これが君の考える最適な暮らしなの?」
かず美は顔を両手で覆い、うめくように答えた。
「違うんです……こんなはずじゃ……」
プロジェクターからは花火の映像が映し出され、本物さながらの花火の音が鳴り響いた。
***
混乱の中、二人は協力してブレーカーを落とし、ようやく静寂を取り戻した。真っ暗な部屋の中で、かず美と日野は疲れ切ってベッドに座り込んだ。
長い沈黙の後、かず美が小さな声で言った。
「ごめんなさい……。私、失敗が怖かったんです。だから全部を計画して、コントロールしようとして。なのに、また失敗しちゃいました」
日野は咳き込みながらも、優しく微笑んで答えた。
「いや、失敗なんかじゃないよ。むしろ、すごく面白かった」
かず美は驚いて顔を上げた。
「え?」
「そうだよ。確かに大変だったけど、こんな面白い経験はなかなかできないよ。君の真剣さも、カズミンの暴走も、全部含めてね」
言葉の間に日野は軽くくしゃみをした。
困惑しながらも、かず美の表情は少しずつ和らいでいった。しかし、すぐに心配そうな顔になった。
「日野さん、風邪のこと忘れてました! 大丈夫ですか?」
日野は軽く咳をしながら答えた。
「大丈夫、大丈夫。それより、君の計画は無駄だったわけじゃない」
「でも、こんなことになっちゃて……」
かず美は首を傾げた。
「そんなことないよ、よく見てみて」
日野に促され、かず美は周りを見回した。窓の外から、雲間から漏れる僅かな月の光が部屋に差し込んでいた。かず美がその光に目を凝らしていると、徐々に雲が途切れ始め、月明かりがより強く、そして柔らかく部屋全体を包み込んでいった。
「あ、これ……」
かず美の言葉が途切れる。月の光に照らされた日野の横顔が、思いがけなく魅力的に映る。彼女の頬に、かすかな赤みが差す。
「なんだか素敵ですね」
月明かりの中、かず美は無意識のうちに日野の方へ少し体を寄せた。その仕草に気づいた日野は、優しく微笑みながら、さりげなくかず美の肩に手を添えた。この小さな接触に、かず美の心臓が小さく躍る。
「そう。カズミンが目指してた雰囲気、実現したんじゃない?」
かず美も思わず笑みをこぼす。月の光が彼女の黒縁メガネに反射し、その奥の瞳が輝いているように見えた。
「本当ですね。失敗したおかげで理想的な雰囲気になるなんて……」
二人は顔を見合わせ、そのまま大笑いし始めた。部屋の中に、心からの楽しそうな笑い声が響く。その瞬間、月の光がさらに強くなり、二人の姿を銀色に染め上げた。
笑いが収まると、かず美は少し照れくさそうに、でも真剣な表情で言った。月明かりに照らされた彼女の表情は、いつもの分析的な顔つきとは違う、柔らかな雰囲気を漂わせていた。
「ねえ、日野さん。これからは……もう少しゆっくりと、二人で一緒に……」
かず美はそこまで言って躊躇し、言い直した。その仕草が、普段の彼女らしからぬ可愛らしさを感じさせる。
「でも、今は何より、風邪を治さなきゃ」
月明かりの中、かず美は静かに立ち上がり、日野に毛布を掛けた。
「とりあえず、今日はゆっくり休んでください。あ、もしよければ、お粥でも作りましょうか?」
計画になかったはずのかず美の提案に、日野は思わず口を開いた。
「お粥?」
かず美は微笑んだ。
「ええ、一般的には風邪には最適な食事とされています。でも……」
彼女は少し間を置いて続けた。
「もし別のものが食べたければ、それでもいいですよ。私たちの最適は、きっと二人で一緒に見つけていけるはずだから」
日野は感謝の笑みを浮かべた。
「ありがとう。でも、今はこうしてゆっくりしているだけで十分だよ」
かず美は日野の隣に座り直し、そっと寄り添った。柔らかな月の光が二人を優しく包み込む。完璧ではないけれど、かけがえのない時間。それこそが、本当の意味で「最適化された二人の人生」の始まりだった。