第3章:最適化されたデートプラン
マッチング成功の通知から一週間後、緒方かず美と日野雄大は正式に「仮交際」を始めることになった。中学校で数学を教える日野と、システムエンジニアのかず美。一見、似た世界に生きる二人だが、その考え方は大きく異なっていた。かず美にとって、この「仮交際」というステータスは、失敗の許されない重大なプロジェクトの始まりだった。彼女は、成功を勝ち取るための方程式を組み立て始めた。
「さて、次はデートの最適化ね」
かず美は早速、「デート最適化アルゴリズム」の開発に取りかかった。彼女の部屋は、数式が書かれた紙やグラフ、フローチャートで埋め尽くされていた。
「まずは、効用関数を定義する必要があるわ。考慮するのは、イベントの人気度、時間、費用、移動時間……」
それはデートの楽しさを数値化するための方程式だった。かず美は、過去の統計データや心理学の研究結果を元にして、できるだけ効率よくデートを楽しむための最適な組み合わせを求めていった。
数日後、ようやく「完璧な」デートプランが完成した。それは、効果を最大化するために分単位で細かく設定された、まるで鉄道の時刻表のようなスケジュール表だった。
「よし、これで素晴らしいデートになるはず!」
かず美は満足げに微笑んだ。
一方、日野も自分なりにデートの準備をしていた。「パーティでは押され気味だったけど、僕もリードしないとな」と思いながら、大まかな予定を考えていた。
「美術館と水族館、そしてディナー。シンプルだけど、楽しめるはずだ」
***
デート当日、かず美は息を切らせながら待ち合わせ場所に到着した。
「計算通り、3分前に到着。予測誤差0%ね。でも、予想外の事態にも対応できるよう、15%の余裕を持たせてある」
まもなく日野も姿を現した。かず美は早速、用意したプランを説明し始めた。
「日野さん、今日のデートプランはこちらです。移動時間や待ち時間まで全て最適化してあります。もちろん、予期せぬ事態への対応も考慮済みです」
「あ、僕も美術館がいいと思ってたんだ。でも、そんなに細かくスケジュールを……」
日野は戸惑ったが、かず美の熱心な様子を見て「かず美さんの計画に従ってみようか」と譲ることにした。
美術館では、かず美は常にスマートウォッチをチェックしていた。ある絵の前で立ち止まっている日野にこう言った。
「この作品に興味があるようですね。予定より2分延長しても、全体の最適化に大きな影響はありません」
日野は少し驚いた様子で答えた。
「あ、ありがとう」
しかし、次の展示室で、日野が特に興味を示した彫刻の前で長く立ち止まると、かず美は異なる反応を示した。
「日野さん、確かにこの彫刻は興味深そうですが、これ以上の滞在は全体の効率を下げてしまいます。次に行きましょう」
「えっ、でも、この作品はもう少し……」
戸惑う日野に、はっきりとした口調でかず美は告げた。
「計算上、これ以上の延長は費用対効果が低いんです。美術館全体の満足度を最大化するには、ここで切り上げるのが最適解です」
日野はため息をつきながら、不本意そうに彫刻から離れた。
水族館でも、かず美はスマートウォッチを確認しながら、各展示の前での滞在時間を管理していた。
「イルカショーは23分26秒で切り上げる予定でしたが……日野さん、かなり楽しんでいるようですね。このまま最後まで見る代わりに、人気薄な日本の淡水魚ゾーンは満足度の期待値が低いので駆け足で回りましょう」
夕食時、レストランでのメニュー選びにも、かず美の計算は及んでいた。
「日野さん、このステーキの栄養価と価格の最適比は0.76です。サラダを組み合わせることで、満足度と健康効果の相乗効果が期待できます」
ため息をつきながら、日野はメニューを置いた。
「かず美さん、ちょっといいかな」
「はい、どうしました? 会話の持続時間はあと3分7秒です」
日野は真剣な表情で、かず美の目を見つめた。
「かず美さん、君には本当に感心するよ。色々と考えてくれたこともわかる。でも……正直、ついていけないんだ。このデート、まるで君の実験に付き合わされているみたいだ。楽しむことより、計画通りに進めることの方が大事なように見えるよ」
「でも、これが最適解なんです。私が計算した結果、今日のデートは多くのイベントを効率よく楽しめる……はずでした」
日野は少し困ったように笑いながら言った。
「最適解か。でも僕は、予想外の出来事だってデートを面白くすると思うんだ。仕事でも、思わぬところでいいアイデアが浮かぶことってあるよね」
かず美は少し驚いた様子で日野を見つめた。日野は優しく微笑みながら続けた。
「人の気持ちは、効率的ならいいというわけじゃない。今日は君の計画に合わせようとしたけど、正直ちょっと疲れてしまったよ」
かず美は黙り込んだ。細く閉じた唇と、瞬きを忘れたかのように凍りついた瞳。
「思いがけない出来事にも対処できるモデルのはずだったのに、どうしてうまくいかなかったんだろう……」
***
その夜、家に帰ったかず美は、ため息をつきながらバッグを床に置いた。部屋の中を歩き回りながら、今日の出来事を頭の中で何度も反芻する。突然、閃いたように足を止め、デスクに向かって駆け寄った。
「そうか……計算モデルにはまだ改善の余地がある。『予期せぬ事態への対応』の項目に相手の気持ちによる影響も含めていたつもりだったけど、相手の気持ちを直接評価しないといけないのね。そしてその時間積分値の最大化をすればいいんだわ」
彼女はノートに新たな方程式を書き始めた。
「時間tにおけるデートの総合評価を、感情的満足度、イベント満足度、会話の質、予想外の出来事による満足度、計画からのずれによるストレスの合計とする。これらの項目に重み付けをして積分すれば……」
椅子に深く腰掛け直し、彼女はPCの電源を入れた。無意識に眼鏡を押し上げながら、つぶやきを漏らす。
「この方程式なら、デートの動的な性質を捉えられるわ。でも、各関数の正確な形式と重み付け係数の決定が課題ね。……リアルタイムでのパラメータ調整が必要かもしれない」
画面が明るくなると、かず美は決意に満ちた表情で、キーボードを叩き始めた。画面には複雑な数式と、「感情満足度予測モデル Ver.2.0 - リアルタイム適応型」というタイトルが輝いていた。
「日野さん、次は絶対に成功させてみせます。より自然で、でも最適化された素敵なデートにするわ」
かず美の部屋の明かりは、その夜遅くまで消えることはなかった。時折聞こえるキーボードの音と、かず美の小さなつぶやきだけが、静寂を破っていた。
ここで出てくる「デート最適化アルゴリズム」も、現実の技術や理論を大幅に脚色したものです。人間の感情や満足度を予測するのは難しいので、無理に適用してもこんな結果になるだろうと思います。