第1章:最適化されたショッピング
私たちの日常は知らぬ間に、最適化のためのシステムに囲まれている。交通制御、電力需給の予測、在庫管理システム、配送ルート効率化 ― 数学者たちの方程式が、今や私たちの生活を支えている。
しかし、人生そのものを最適化できるだろうか? 主人公の緒方かず美は、鋭い頭脳と最新技術を武器に、人生を最適化しようと挑む。愛は方程式で解けるのか? 幸せに最適解はあるのか?
両親の離婚や学生時代の挫折経験から、彼女は「予測できないことは恐ろしい」という強い信念を持つようになった。彼女が小学生の頃、「ちょっと買い物に行ってくる」という言葉を残して突然父親が家を出て行った。その「ちょっと」がどのくらいの長さなのかを何年も考えた。また、高校時代には猛勉強の末に挑んだ第一志望校の受験が、難問に気を取られて時間配分を間違え、失敗に終わったこともあった。そんな彼女は大学で出会った応用数学の予測技術に心を奪われた。現在はシステムエンジニアの彼女にとって、数学的最適化は職業上の知識というだけではなく、安心を得るために必要不可欠な手段になっていた。
緒方かず美は、黒縁メガネの奥で瞳を輝かせながら、手元のタブレットを凝視していた。大型ショッピングモールの入り口に佇む彼女の耳には、周囲の喧騒などまったく聞こえないかのようだった。
「よし、攻略開始!」
かず美は満足げにつぶやくと、タブレットの画面をタップし、今日の買い物リストを再確認した。ブラウスにワイドパンツ、靴、アクセサリーや化粧品などの項目が整然と並んでいる。
かず美のタブレットには、彼女が自分のために開発した「ショッピング最適化システム」がインストールされていた。このシステムは、待ち行列理論、動線分析、ベイズの定理などを組み合わせた複雑なアルゴリズムで構成されている。
彼女はタブレットを操作し、GoogleマップのAPIから各店舗の現在の混雑状況データを取得した。
「アパレルフロアの混雑度が75%……これは要注意ね」
かず美はレジに並ぶ人々の進み具合を観察し、そのデータをサンプルとしてタブレットに入力した。
「リトルの法則によるレジ待ち時間予測……平均到着率と平均サービス率から計算すると……ん? 試着の待ち時間予測にも影響しそうね。これも考慮しなくちゃ」
彼女がタブレット上で経路探索モデルを起動すると、モール内の地図にひとつの赤い線が浮かび上がった。
「1階のアパレルゾーンから始めて2階に上がり、時計回りに……総移動距離1.3km、予想所要時間2時間21分、誤差は前後9分以内」
かず美は自信に満ちた笑みを浮かべ、颯爽とモールの中へ足を踏み入れた。
「まずは、第一印象を決定づける服装選び。色と素材の組み合わせで、好感度を最大化する必要がある……」
彼女の買い物は、感性ではなく明確な根拠に基づいている。ブラウスを選ぶ際も、単に気に入ったかどうかではなく、色彩心理学や素材の特性まで考慮に入れる。タブレットには、各アイテムの特性と、人々に与える印象のデータベースが搭載されている。
「白のシルク混紡……色彩学的には信頼感を演出し、シルクの光沢が女性らしさを引き立てる。しかも、ポリエステルが混紡されているから、しわになりにくい。長時間の着用でも清潔感を維持できる。仕事後のイベントには適切ね」
ワイドパンツを選ぶ際も同様だ。
「ネイビーのストレッチ素材……これは良さそうね。色は知的さと落ち着きを表現し、ストレッチ性で動きやすさと美しいシルエットを両立できる。ハイウエストデザインで脚長効果も期待できるわ」
周囲の買い物客たちが、のんびりとショーウィンドウを眺めたり、フードコートでおしゃべりを楽しんだりする中、かず美の姿はまるで別次元の生き物のようだった。エスカレーターを駆け上がり、左に曲がり、時には立ち止まって商品を手に取る。そのスピードと正確さは、まるでプログラムされたロボットのようでもある。
「よし、ここまでの誤差2分14秒。ほぼ予定通り」
しかし、運命の女神は時に予測不可能な「外乱要因」をもたらす。かず美の完璧な計画に、思わぬ落とし穴が待ち受けていた。家電売り場の近くを通りかかった瞬間、けたたましいアナウンスが店内に響き渡ったのだ。
「ただ今より、モバイルアクセサリー全品20%オフセールを開催いたします!」
周囲の客たちが一気に動き出す中、かず美の表情が一瞬凍りついた。
「想定外の外乱要因発生。再計算ね」
彼女は即座にタブレットを取り出し、指を素早く動かし始めた。
「人の流れが変化している……新たなデータを取得しなきゃ」
周囲の人々の動きを観察しながら、画面上でデータを入力していく。
「セールによる顧客流入増加率、おおよそ28%……再計算が必要ね」
かず美はタブレット上で素早く計算を行い、眉をひそめた。
「新たな予測……元の計画より11分から19分の遅延が生じる確率が95%」
しかし、その表情はすぐに明るさを取り戻した。
「ポータブルバッテリーの購入を後回しにして、セールの影響を最小限に抑えよう。そうだ、先にヘアスタイリング用品を選んで、書店での滞在時間を5分短縮すれば……」
自作のシステムに変更案の検討を指示すると、タブレットの画面上で、赤い線が描き直される。新たな経路には、確率的な変動を示す細い青い線が重なっている。かず美は満足げに頷くと、新たな計画に従って動き始めた。
彼女は巨大な迷路のようなモールの中を迷いなく進んでいく。効率的に商品を選び、レジに並ぶ時間を最小限に抑え、時にはエスカレータではなくショートカットのために階段を利用する。
「経路選択の精度は予想以上ね。最小限の誤差で推移している」
かず美はつぶやきながら、次の目的地へと向かう。
最後の目的地、ポータブルバッテリーの購入を終えたとき、かず美はタブレットを取り出し、画面をタップした。
「買い物完了。所要時間:2時間28分」
予測に対して7分の遅延。かず美は少し眉をひそめたが、すぐに満足げな表情に戻った。
「セールという大きな外乱要因を考えれば、7分の誤差は十分信頼できるモデルかな」
彼女は画面をスクロールしながら、今回の買い物の効率性を確認していく。
「総歩数8,943歩、総消費カロリー285kcal……歩数あたりの購入金額、時間あたりの達成タスク数……全ての指標が期待値を上回っている」
モールの出口に向かいながら、かず美は今日の買い物を総括する。
「効率性:94.5%。予測精度:97.8%。よし、今日の買い物は成功ね!」
彼女の顔には、複雑な問題を解き明かした研究者のような誇らしげな笑みが浮かんでいた。
大量の買い物袋を抱えながら、まるで踊るように軽やかに歩む。彼女の頭の中では、既に次の予定のための数学モデルが組み立てられ始めていた。
「これで来週のパーティの準備は整った。あとは、計画通りに事を運ぶだけ」
かず美は自信に満ちた表情で、軽やかな足取りでモールを後にした。
かず美の「ショッピング最適化システム」は架空のものです。それらしくするために実在する数学的理論や定理(待ち行列理論、ベイズの定理、経路探索モデルなど)で味付けしていますが、現在個人が入手できるデータで、このような高精度でリアルタイムの予測はできません。
例えば、混雑予測やレジ待ち時間の推定などは、GoogleマップやAIを活用した店舗管理システムなどで部分的には実現されています。しかし、これらは大規模なデータ収集と処理能力を必要で、個人のデバイスで行うことは難しいです。
・待ち行列理論:レジやサービスカウンターなどに人が並ぶ際の待ち時間や列の長さを予測する理論です。
・ベイズの定理:新しい情報が得られたときに予測を更新する方法を示す定理です。
・リトルの法則:平均的な人数=流入する人の数×滞在時間 という関係を表す法則です。
この物語では、現在研究・開発されている技術を大幅に脚色しています。主人公のキャラクターやストーリーを強調するための演出だと捉えていただければ幸いです。