幕間 月明かりの来訪者
ダウリンは浜辺に向かう前に、作戦会議で使った資料を置こうと団長室に寄った。
机の上に資料を置くと椅子に座って一息つく。
部屋の明かりは消されていて、窓から差す月明かりが、ダウリンと机を照らしている。
アーメットという慣れない事をしたせいか、身体が痛いようだ。
ダウリンは一度大きく伸びをして、椅子の背もたれに背中を預け、天井を見つめる。
彼の気分はそれほど悪くないようで、暗い部屋の中でも彼がほんの少し微笑んでいることがわかる。
ふと何かの視線を感じたのか、ダウリンは部屋の入り口に顔を向ける。
そこには一人の男性が立っていた。
日が沈んでもなお汗ばむような気温の中、その男は白い長袖シャツに黒いネクタイをつけ、その上には黒いベストを着ており、下も黒いパンツに黒い革の靴を履いている。
折り目がきっちりついて埃一つ付いていないその服は、一目で上等な物である事が伺える代物だ。
男性の姿はまるで高級ホテルのホテルマンか、バーテンダーのようである。
ただ、奇妙な事にダウリンが部屋に入ってから、扉が開く音は一切聞こえていなかった。
「お客様がお待ちでございます。」
挨拶もなく唐突にそう告げた男性は微笑みながら、胸に手を当ててダウリンに向かって一礼をする。
男性の透き通るような声が月明かりだけの暗く沈んだ部屋にやけに響く。
どうやら、ダウリンはこの男性が何者なのか知っているような様子で、大きなため息をついた。
そして、机に両肘をついて手を組み、口元を隠すような姿勢になる。
彼の顔には先ほどの笑みはない。
どこなく痛みを堪えるような表情に変わっていた。
「取り込み中でございましたか?」
「いや、いいんだ。わかった。それで、今日は誰の出発かな。」
ダウリンは感情を抑え込むかのように淡々と喋る。
「ゼント・ボリーノ様です。」
その名前を聞いて、ダウリンは首を垂れ、深くため息をつく。
「ゼントか。そうか。」
「本当にダウリン様はお優しい方ですね。あなたがそんなに傷つく事はないのに。」
男性が憐れむような声で言う。
「これは、俺に与えられた罰だからな。」
ダウリンは遠くを見ながら苦笑まじりに答えた。
男性はその姿に少し慈しむかのような微笑みをかける。
「では、お先に戻っております。出発は定刻通り、月の頂きの時間でございます。」
「ああ。わかった」
ダウリンがそう答えた時、部屋にはダウリン以外は誰もいなかった。
ダウリンは雷通機の受話器を取ると、ダイヤルを回しどこかに雷通をする。
相手が雷通に出たのか、ダウリンは自分が夕食には参加しないことを伝えると、雷通を切った。
ふと、机の上にあった資料の紙が風に煽られるようにふわりと浮いた。
紙はひらひらと机の上を舞いながら落ちていき、その内に机の上から外れ、最後には椅子の座面に着地した。
先ほどまで椅子に座っていた人物はいない。
ただ、そこに主人が座っていたことを主張するかのように、椅子だけが僅かに回転していた。
誰もいない部屋を、月明かりが煌々と照らす。
ほのかに青白く光る部屋は、まるで深い海に沈んだ沈没船のようだ。
部屋はその主人を表すという言葉がある。
ここだけは時が止まり、そして、時が進むのを拒んでいるかのようであった。