夢の中の不思議な喫茶店 弐
土曜日の午前九時、十分前。
もうすぐ着くよ、との連絡を受け、素直に駅前で待っていた私の前に一台の車が停まる。顔を上げて驚いた。停車していたのが、黒塗りの高級車だったから。
「え……何?」
尻込みしつつもそのまま立ち尽くしていると、運転席から白髪の男性が降りてきた。年齢は六十代くらいだろうか。一切皺がない、黒色のスーツを着こなしている。手には白い手袋まで嵌めていて、まるでドラマに出てくる名家の従者みたいだな、と思う。……なんて、他人事のように考えていたのも束の間。その男性は私に対し、恭しく頭を下げた。
「お待たせ致しました、久留生さま」
たまたまロータリーにい居合わせた人達が、何事かとこちらを見ているのが分かった。そりゃそうだ。明らかな高級車が停まったと思えば、ドラマから飛び出てきたような人が出てきて、こんな小娘に頭を下げているのだから。
「わたくしは運転手を勤めさせて頂く、守本と申し上げます。本日はよろしくお願い致します」
「く、久留生です。こちらこそよろしくお願い、致します!」
丁寧に挨拶をされて、焦りながらもお辞儀を返していると、助手席のパワーウィンドウが開いた。
「やっほぉ、久留生さん」
ひょっこりと顔を出したのは────鹿子先輩だ。
「ほら、乗って乗って!」
鹿子先輩に手招きされると同時にさっきの男性……守本さんが近付いてきて、サッとドアを開けてくれる。促されるまま、私は後部座席に乗り込んだ。
「……おう」
後部座席には犬神先輩が乗っていて、おそらく挨拶だろう言葉をかけてくる。
「えっと、はい、おはようございます」
とりあえずそれに挨拶を返して、怖々と腰かけてみた。わぁ、座席が革張りだぁ……。そんなズレた感想を抱いている間に、ドアは守本さんによって閉められた。
「ごめんねぇ、待った?」
助手席の鹿子先輩がこちらを振り返り、「もう少し早めに着く予定だったんだけど」と付け加える。私はそんな鹿子先輩をまじまじと見つめてしまった。
「なんて言うか……」
「うん?」
「鹿子先輩って、ちゃんとお坊ちゃまだったんですね」
「あはは、何それ」
先輩はおかしそうに笑った。いやいや、こんな高級車で迎えに来ておいて、お坊ちゃまじゃないわけがない。それに執事さんらしき人も居るし。私、車のドアの開け閉めをして貰ったの、人生で初めてなんですけど。今だって、このいかにも高価そうな座席を汚しちゃったらどうしようって、ものすっっっごく緊張してるんですけど!
「コイツんち行ったらビビるぞ」
隣で犬神先輩がニヤリと笑う。
「すげぇ豪邸だぜ」
「でしょうね……」
鹿子先輩の実家にも、いつか行くことになるんだろうか。鹿子先輩はただの旧家だって言ってたけど、格式高い名家の間違いだと思う。どうしよう、私、すごい人と関わってしまったかもしれない。
戦々恐々てしている私を乗せて、車がゆっくり発車した。すごい。全然揺れを感じない。
「さぁ、本題に入ろうか」
鹿子先輩の声でハッとする。そ、そうだよね。これから仕事に行くんだもんね。気を引き締めるためにも、私は座席にしっかりと座り直した。
△△△
今回、守本に車を回して貰ったのは、色々話しておきたかったからなんだ。
あ、一応言っておくと、いつも車移動ってわけじゃないよ。電車や新幹線を使う時もあるし、飛行機の時だってある。そのへんは移動距離と依頼内容によって変わるかな。ほら、あまりに重労働になると僕、疲れて寝込んじゃうからさぁ。そういう時は守本に迎えに来て貰った方がありがたいんだよね。
まぁそもそも、出張が必要な依頼ばかりじゃないし。って、それは別にいっか。
今回は隣県に住んでいる、舞川さんっていう大学生からの依頼だ。なんでも、小さい頃から何度も見ている夢があるんだとか。あぁ、怖い夢じゃないみたいだよ。ただただ、不思議なんだって。
けどその夢が最近、不思議って言葉だけじゃ片付けられなくなったから依頼したみたい。詳しいことは向こうに着いたら、本人から聞くのが一番じゃないかな。
そうそう、依頼内容も大事なんだけど、もうひとつ知らせておいた方がいいことがあってね。久留生さんは真名って聞いたことがある? ……うん、本名のことだね。
大昔の日本だと、人を真名で呼ばず、役職や居住地で呼ぶことがあったんだって。有名どころだと紫式部や清少納言なんかがそうらしいよ。けど、真名で呼ぶのを禁とする文化は、何も日本だけじゃないんだ。
例えば西遊記に登場する金角・銀角は、「名前を呼ばれ、返事をした者を吸い込むひょうたん」を持っているよね。これが西洋になると、悪魔に真名を知られた者は魂を支配され、逆に悪魔の真名を知れば使役できる、なんて考えがあったりする。
一般的に考えれば、名前っていうのは個人を現す記号でしかないけど、それを誰かに明かすってことは、個人の本質を知られることに繋がるんだ。そしてその者が強ければ強いほど、支配されてしまうとされているんだ。
そうだなぁ。例えば学校の先生にクラス全体のことを注意されるよりも、名指しで「久留生!」って怒鳴られる方が怖いでしょ? そんな感じ。
さて、ここで問題です。なんで僕はこの話をしたでしょう? ……答えは簡単。この世ならざるモノと切っても切れない縁で結ばれている僕らは、アイツらに真名を知られるのを良くないって考えているからだよ。
僕自身は真名を知られたくらいでどうこうできるような人間じゃないし、名前ひとつで生者を支配するくらい強い力を持った奴なんて早々いないけど、万が一ってことがあるからね。だから僕らは依頼をこなしている間なんかは特に、別の名前で呼び合うんだ。たとえば僕はナギ、こーちゃんはこーちゃんって感じに。簡単に言えばコードネームみたいなものかな。
まぁ、こーちゃんは「そんな小っ恥ずかしい名前で呼べるか!」って言って、なかなかナギって呼んでくれないんだけどね。
△△△
「なんなら普段からナギって、気軽に呼んでくれていいのに」
鹿子先輩がこちらを振り返る。ニヤニヤとした、楽しそうな笑顔を浮かべたまま。
「誰が呼ぶか!」
対して犬神先輩は鬱陶しそうに顔を歪めていた。
「つーか渚、普段はこーちゃん呼びすんなって言ってんだろ。いつになったらやめんだよ」
「えー、やめないよ。だって可愛くて気に入ってるんだもん」
「……うぜぇ」
犬神先輩は諦めたようにため息をついた。この間の放課後、「人前でそう呼ぶな」って言ってたのはこのことだったんだな、と遅れて理解する。多分、鹿子先輩は犬神先輩の反応を面白がったうえで、敢えてこーちゃん呼びを貫いてるんだろうな。
「ってことでこれからは久留生さんのこと、タマちゃんって呼ぶね」
「た、たまぁ!?」
いきなり矛先がこちらを向いたことに驚いて、大きな声をあげてしまった。いや、タマって……人をそんな、猫みたいに。なんて思っていたら、隣で犬神先輩が「ハッ!」と笑った。
「いーじゃねぇか、猫みたいで。なぁ、タマ」
……あ、早速使われてる。別に嫌じゃないけど、今まで呼ばれたことのないニックネームだし、なんだかむず痒い。
「僕らのことも気軽に呼んでよ。ね、こーちゃん」
「……こーちゃん以外ならな」
先輩達がそう言うから、私も早速呼んでみることにした。
「ナギ先輩」
「うん」
「コウ先輩」
「……ん」
二人共返事をくれる。でも、なんだか、これ。
「ちょっと、照れますね」
「言うんじゃねぇ。余計に恥ずい」
「あはは! こーちゃん、顔真っ赤!」
「うるせぇ!」
これから仕事に行くとは思えない雰囲気のまま、車は南に向かってどんどん進んでいく。いつの間にか緊張も解れていて、私はホッとため息をつくのだった。