記憶喪失の幽霊 伍
この人、シヅの知り合いだ。
そう確信した私は「どこかでゆっくり話をしませんか」と男性を誘った。男性もそれに同意し、私達は近くの公園へと場所を移す。四阿のベンチに腰かけると、男性は遠い過去を振り返るように目を細めた。
「紫月先輩は中学時代の先輩なんだ」
夕日に染まる景色の中、男性の思い出話が始まる。シヅはさっきからずっと黙ったままだ。だから私も何も言わずに、男性の話へ耳を傾けた。
「俺の親父って所謂転勤族でさ、今でこそ落ち着いたけど、当時は日本全国を飛び回わるような人だったの。それで転勤が決まるたびに家族で引っ越すんだ。勿論、俺も一緒に。何度も何度も転校させられて、子供心にすごく嫌だったな。たけどまだ一人じゃ生活できないような子供だし、文句を言ったところでどうしようもできないじゃない? そういう家庭環境にプラスして、当時は反抗期も重なってさ……中学時代の俺はめちゃくちゃ捻くれてたんだ。自分でも可愛くない奴だったなって思うよ。お陰で友達も録にできなくて……だけど何故か紫月先輩には気に入られてね、よく絡まれてたんだよ。そんな風に、あの人は当時から変わり者の先輩だった」
男性はそこでため息をついた。きっともう帰る時間なんだろう。どこかの子供達が交わす、「ばいばい!」「また明日ね!」という挨拶が、風に乗ってここまで聞こえてくる。
「だけど先輩が中学を卒業してすぐに、また親父の転勤が決まってさ。俺も一緒に県外へ引っ越すことになったんだ」
〈……覚えてるよ〉
シヅが呟く。寂しそうに微笑んでいた。だけどその声は、姿は、男性には届いていない。
「心配してくれたんだろうね」
私が何かを言う前に、男性はまた話し出す。シヅとの、いや『紫月先輩』との思い出話を。
「先輩はよくメールをくれたし、俺もときどき返事を返してた。そういうやり取りは俺が中学を卒業しても、高校へ入学しても、卒業しても……それから社会人になっても続いた。けど、半年くらい前からかな、急に連絡が来なくなってさ……不思議に思ってメールをしても返事が来ない。そんなことは今までなかったけど、多分忙しいんだろうなで片付けてたんだ。でも」
男性はぎゅっと拳を握る。
「先輩、事故に巻き込まれてた。去年末だって」
その手は、小刻みに震えていた。
〈事故……〉
思案するようにシヅは空中を見上げ────、思い至ることがあったらしい。目を開き、そして、俯いた。
〈そっかぁ……あたし、あの時に死んじゃったんだ……〉
少しずつ生前の記憶が蘇ってきているようだ。幽霊のシヅから本来の紫月さんへと戻って行くのが分かって、少しだけ安心する。けど、それと同時につらい現実が重くのしかかった。
記憶探しの旅の終着点には『シヅが既に亡くなっている事実』があるって、ちゃんと理解していた。けど、いざそうやって事実を突きつけられると、正直心苦しい。でもシヅの────いや、紫月さん本人の方がよっぽどつらいだろう。自分の死を受け止めるのは、きっと想像を絶する苦しみがあると思う。
死と言うのは、いつだって悲しい。
「先輩は今もそこにいるの?」
「はい」
男性は紫月さんの方を見た。私には見えているけど、男性からしたらそこは何も無い、ただの空間でしかない。なのに。
「……なんで私の言葉を信じてくれたんですか?」
見知らぬ人に突然、あなたの知り合いの幽霊が見えるんですなんて言われて、それを信じる人は多分、早々居ない。
この人だって最初は疑っていたのに、結局は私のことを信じて、こうやって身の上話をしてくれた。それがどうしてなのか、分からなかった。
「俺のことをタイヨーちゃんって呼ぶの、紫月先輩だけなんだよね」
私の問いに対し、男性は困ったように笑った。
「俺、太田 陽平って言うんだ。で、苗字と名前の漢字を一字ずつ取ると太陽になるからって、先輩がタイヨーちゃんってあだ名をつけたの。……まぁ、俺はずっと嫌がってたんだけどね」
〈そうだよ。可愛いあだ名なのに〉
「可愛いあだ名でしょ、ってよく言ってたっけ」
二人の声が重なる。紫月さんはそれに気付いて、嬉しそうに顔を綻ばせた。それを見て切なくなる。
なんで〝見える〟のが太田さんじゃなくて、私なんだろう。二人はきっと、言葉を交わしたいはずなのに。
何か二人のためにできることはないのかなと考えて、ひとつ思い当たることがあった。
「約束」
「え?」
「約束って言葉に心当たりはありませんか?」
「約束……?」
太田さんは首を捻る。記憶を取り戻すきっかけが太田さんだっただけで、シヅが言っていた『大切な約束の相手』というのが太田さんだとは限らない。そんなことは理解している。
けど、太田さんのことであって欲しいと思ってしまった。二人が想い合っているのは明白だったから。
「特には────」
言いかけて、太田さんはピタリと動きを止める。
「いや、ひとつだけあった。でも……うーん……さすがに違うんじゃないか……?」
やけに言葉を濁している。もしかして言いづらいことなのかな。私の視線を受けた太田さんは「実は」と苦笑いする。
「中学生の時、先輩と言い合いになったことがあったんだ。それで内容が……その、めちゃくちゃくだらないんだけど……幽霊は居るか居ないかって言う奴で」
思ってたより微笑ましい言い合いだった。照れ臭いのか、頭を掻きながらも太田さんは続ける。
「で、キミの前でこういうことを言うのもあれだけど、現実的に考えて幽霊なんてありえないって言い切った俺に、先輩が────」
〈あ……。あー!!〉
突然、紫月さんが大きな声をあげた。右手を口に当て、空いている方の手で太田さんを指差し、叫ぶ。
〈それだー!!〉
「あの……『それだ』って言ってますけど……」
「はぁ!?」
今度は太田さんが叫び声をあげる番だった。
「え、ちょ、ちょっと待って本当に? そんなくだらない約束を果たすために、先輩はここに居るって言ってるの!?」
〈くだらないってなんだよ、失礼な! あたしにとっては重要な約束だったの! って言うか、タイヨーちゃんはあの時の言い合いに負けたの分かって悔しいだけでしょ!〉
「お、お二人共落ち着いて……!」
二人同時に、しかもどちらも大きな声で話されては私も聞き取れない。太田さんはしまった、という顔をしたあとにごほん、と咳払いをした。
「取り乱してごめん。でも……はぁ……そっか、あの約束を……。本当に先輩らしいと言うかバカと言うか……」
〈おい、今バカって言ったな! こちとら幽霊なんだぞ! 呪ったろーか!?〉
「あー、その、紫月さんとどんな約束をしたんですか? 勿論、差し支えなければでいいんですけど」
焚き付けるような台詞と共に太田さんを睨む紫月さんをスルーして、私は太田さんへ問いかけた。
「いや、本当に恥ずかしい限りなんだけどね」
太田さんは何かを言いかけて────、目を大きく見開いた。ついでに口もぽかん、と開いている。まるで信じられないモノでも見たかのような表情だ。
私はその視線の先を追って行って、「まさか」と呟いた。だって、そこに居るのは。
「え……せ、先輩……!?」
紫月さんなんだから。