記憶喪失の幽霊 肆
次の日の〝おとしもの〟探しも難航を極めた。
〈あ、見てください! おっきなワンちゃんがいるのですよ! 可愛いのです!〉
〈シヅ、あれ知ってますよ! 学校というのです!〉
〈とってもいい匂いがするのです。……あー! たこ焼きの屋台が出てるのですよ! うぅ、食べたいのに食べられないの、つらすぎるのです!〉
シヅの興味があちこちに移り、走り去ってしまうせいで、記憶に繋がる何かを探すどころじゃなかったからだ。そのたびに私は慌ててシヅを追いかけ、制止し、叱ることを繰り返していた。まったく、これじゃあ本当にお散歩だ。それもただのお散歩じゃなくて、〝手のかかるやんちゃな犬と一緒に〟っていう注釈が付く感じの。
今日はとりあえず駅の方まで行ってみようか、と家を出たのが午後一時。いつもなら二十分~三十分程度の道のりなのに、寄り道が多いせいでとにかく時間がかかっている。この調子じゃ文字通り、日が暮れてしまいそうだ。
昨日も思ったことだけど、シヅは記憶喪失だってことを悲観していないように見える。失った記憶を〝おとしもの〟と表現しているくらいだし、そこまで深刻に考えていないだけなのかもしれない。でもその割には〝誰かと交わした約束〟についてはよく気にしているようで。
〈シヅが約束を破ったら、破られたその子は可哀想なのです。きっとシヅのこと、ずっと待ってるはずですから〉
〈早く約束を思い出さないと、その子に怒られちゃうのです〉
〈大事だったのに、シヅは忘れちゃったのですよ〉
なんて言っては、悲しそうにしていた。
うーん。せめて、シヅの本名が分かればなぁ。亡くなった原因が事件や事故ならニュースになっている可能性を考えて、図書館にある新聞で調べることができたはずだ。いや、そこまでしなくても、ネットで検索すればSNSアカウントが見つかるかもしれないし、下手をすれば在籍していた学校や知り合いすらも発見できたかもしれないんだけど。
〈あ! お花屋さんがあるのです!〉
「もう! だから急に走らない!」
何十回目かの同じやり取りをしつつ、シヅが向かって行ったのは花屋だった。
駅からほど近い場所にあるそのお店は、私も何度か利用したことがある。店先にはいつも色とりどりの花が並んでいて目を引くし、何より店を切り盛りする店長さんが、儚げに咲く一輪の花みたいな印象の、すごく綺麗な女の人なのだ。店長さん目当てのお客さんも多いらしいって、お母さんが話していたっけ。
小走りでシヅに追いつくと、ちょうどお店からお客さんが出ていくところだった。スーツを着た、若い男性だ。その手には小さな花束が抱えられていた。
これから恋人にでも会いに行くんだろうか。花束だなんて素敵なプレゼントだな、なんて思いながらも遠ざかっていく男性の背中を見つめていると、
〈あの人……〉
シヅも同じように男性を見ていた。今までとは明らかに違う反応だ。
「シヅ?」
私の問いかけに答えないまま、シヅはしばらく立ち尽くしていた。────と思ったのも束の間、突然、何も言わずに走り出した。
「え!? ちょ、ちょっとシヅ!?」
慌てて追いかける。いきなり大声を出して駆け出したせいで注目を浴びてしまったけど、この際気にしていられない。それよりも今はシヅだ。あの男性を見た途端、急に様子がおかしくなった。って言うことは、もしかして。
〈あの人、なんだか知ってる気がするのです……!〉
ようやくシヅが答えた。その言葉に、やっぱりそうなんだと納得する。あの人が何者なのか分からないけど、初めての手掛かりになるかもしれない。
「すみません!」
思い切って声をかけると、男性は振り返った。歳は多分、二十歳前後だと思う。突然話しかけた私を訝しげに見ている。当たり前だ。今の私は客観的に見て、ものすごく怪しい。
「何か?」
訊ねられてから、無計画で呼び止めたことを後悔する。え、えっと、なんて言って引き止めたらいいんだろう。
「い、今、私、人を探しててっ!」
しどろもどろに言い訳を考える。
「シヅっていう名前の子に、心当たりはありませんか! 中学生か高校生くらいの女の子なんですけど!」
「はぁ……」
男性は困惑したような表情を浮かべたあと、「知らないです」と答えてくれる。
「そ、そうですか……」
「……」
「……」
どうしよう。会話が終わってしまった。助け舟を求めてシヅを見れば、食い入るように男性を見ているだけで何も言わない。
「それだけですか?」
そう言った男性の声色からは、すぐにでもこの場を去りたそうな雰囲気が伝わってくる。そりゃそうだと思う。初対面の、いかにも怪しい人物に変なことを聞かれれば、誰だって警戒する。これ以上この人を引き止めるのは、私の話術では無理だ。
すみません、もう大丈夫です────と言いかけた正にその瞬間。
〈待って、行かないで……!〉
シヅが叫んだ。胸の奥が締め付けられるくらい、悲しい声だった。
でもその声は、男性には届いていない。
私が伝えなきゃ、彼には届かない。
「あのっ!」
声が上ずった。心臓がバクバクとうるさい。このことを言うのは、酷く緊張するし、すごく怖い。
「わ、私……〝見える〟んです! その、幽霊とかって言われるモノが!」
言った。とうとう言ってしまった。家族と先輩達以外には話したことが無かったのに────今後も話すつもりが無い、私の秘密だったのに───シヅのためとは言え、見ず知らずの人に、話してしまった。
男性は何も言わない。無言の間が怖くて、私は俯いた。
「簡単に信じられない話なのは分かってます。けど、ここに女の子が居て! あなたのことを知ってるかもしれないって言ってるんです!」
〈おねえさん……〉
私の必死な訴えを聞いて、シヅが申し訳なさそうな声をあげる。
「その子、今ちょっと記憶を無くしているみたいで……自分が誰なのか、分かってなくて……。初めてなんです。この子のことを知ってるかもしれない人に出会ったのも、失った記憶の手掛かりになりそうなことを見つけたのも! だから!」
「えーっと……」
男性は困りきったように頭を掻いた。
「それってお芝居か何か? それとも宗教勧誘とか……あ、もしかしてドッキリ動画の撮影? だとしたらタチが悪いんだけど」
その声色にはにわかに怒りの色も含まれていた。信じて貰えるわけがないって理解してたけど、どうしよう、泣きそうだ。
俯いたままの私を見て、痺れを切らしたんだと思う。
「じゃあ俺、もう行くけど……そういうの、もうやめておきなよ。トラブルになる前にさ」
男性はそう言い残して踵を返した。このままじゃ本当に行ってしまう。呼び止めなきゃ。でも、どうやって?
〈待って、待ってよ……〉
シヅも泣き出しそうな声で男性を呼ぶ。────と。
〈タイヨーちゃん!〉
シヅの口から、初めて聞く言葉が飛び出した。
「……タイヨーちゃん?」
誰かの名前だろうか。反芻すると、男性はピタリと立ち止まり、ゆっくりとこちらを振り返る。その表情には明らかに戸惑いが浮かんでいた。
「キミ、なんで、それを……」
私は思わずシヅを見る。男性も私の視線を追うようにそちらを見て。
「もしかして、本当に紫月先輩が……?」
困惑しきったように呟いた。