記憶喪失の幽霊 壱
『あはは、こっちは大丈夫だよぉ』
電話口からナギ先輩の朗らかな声が聞こえる。私はと言えば。
「うぅ……すみません……」
自室のベッドの上で、ひたすら謝っていた。
五月上旬。
清々しい快晴が広がる今日は、世間一般的に言えばゴールデンウィーク真っ只中。皆が長期休暇だと浮き足立っている中、私はナギ先輩達と一緒にアルバイトへ行く予定……だった。
慣れないアルバイトの疲れが出たのか、学校生活が落ち着いてきたことによる油断か、或いは両方か。私はすっかり風邪を拗らせて、寝込んでしまっていた。
いや、寝込むなんて表現は少しばかり大袈裟で、症状と言えば三十七度半ばの、高熱とも微熱とも言えない中途半端な発熱程度だったのだけど、体調が優れないのなら大事をとってアルバイトは休んだ方がいい、とお達しが出たのだ。
『気にしないでいいよ。お土産買って行くから、タマちゃんはゆっくり休んでね』
まるで旅行にでも行くかのようなテンションで、ナギ先輩が言う。事前に聞いた話によると、今回の依頼は確か、電車移動が必要になる距離での出張だったはずだ。
内容を聞く限りだと、普通にいけば手こずらない案件だね────なんて言っていたし、普段から学業と家業の両方をこなしているナギ先輩からしたら、プチ旅行みたいに感じるのかもしれない。
『あ、電車が来ちゃった! じゃあ、僕らは行ってくるけど、本当お大事にねぇ。ほら、こーちゃんも!』
電話の向こうが一気に騒がしくなる。おそらく電車がホームに近付いている中、ナギ先輩がコウ先輩に無理矢理スマホを渡そうとして、コウ先輩がそれを拒否する……という押し問答が行われているんだろう。容易に想像できる光景だ。
「あの、なんか申し訳ないんで、無理に押し付けないであげてください」
フォローのために呟いた私の声は、どうやら届いていないらしい。そんなことをしている内に電車が出発しちゃうんじゃないかなと思っていたら、
『寝ろ』
それだけの言葉と共に、電話が切れた。
「……え?」
一瞬すぎて反応が遅れたけど、今の声、コウ先輩だったよね? なるほど、ナギ先輩のしぶとい説得に根負けして、たったひと言とは言え、声をかけてくれたのか。
そう思うと嬉しいやらむず痒いやら、でも温かい気持ちになって。
「寝よう」
私はベッドに入り直し、目を閉じた。
△△△
その翌日。しっかり眠ったのが功を奏したのか、私の体調はすっかり良くなっていた。熱も平熱に戻ったし、なんなら疲れもとれて元気いっぱいである。
「これならアルバイトにも行けてたよぁ」
若干心苦しくは思うものの、先輩達は既に出発してしまったし、今更どうこう言っても仕方がない。まぁ、せっかく貰った休みなんだから、たまにはのんびり過ごすのも悪くないか。例えば、そうだ、久しぶりにあの神社に行こう。
心の中でそんなことを考えながら、私は家を出た。
自宅から徒歩十五分くらいの距離にある翡翠神社は、古ぼけているせいか、普段はほとんど人気がなく、少し寂しい場所だ。けど、木と土の香りや手水舎から聞こえてくる小さな水音は心を穏やかにしてくれたし、何もかもを包み込んでくれているかのような優しい空気感があって、私のお気に入りの場所でもあった。
神社の中ではアレらを見かけたことがなかった、という点も大きいと思う。神聖な場所だからか、はたまた他に理由があるのかは分からないけど、どちらにしてもアレらを見ないで済む時間があるのは、とてもありがたいことだった。
だからこの体質になってからと言うもの、ときどき訪れては何をするわけでもなく、石段へ座ってぼんやり過ごしていた。最近は先輩達と一緒に居ることが増えて、反対に神社へ行く機会が減っていたけど……。私はふと、ナギ先輩に言われたことを思い出す。
「例えばタマちゃん、神様に知り合いは居ない?」
依頼からの帰り道、ナギ先輩は私にそう訊ねた。答えは勿論、NOだった。
知り合いに神様が居るくらいなら、私の〝見える〟体質は多分、とっくに解決していると思う。だって、何度も神頼みしたもの。
見えなくなりますように、普通に戻りますように、って。
それでも解決しなかったから、私はいまだにこの世に存在しないモノが見えている。
「タマちゃんって、何かに守られている感じがするんだよね。所謂守護霊とかじゃなくて、もっと大きい……それこそ僕らみたいなちっぽけな生き物にはあずかり知れない、巨大な存在に。だからこそ、今まで変なモノに付き纏われることはあっても、それ以上のことにはならなかったんじゃないかな」
「あ、でもタマちゃんだけじゃなくて、タマちゃんの住んでる町全体がそんな雰囲気に包まれているから、恐らくは産土神か何か……? いや、さすがの僕でも本物の神様は見たことがないし、感知もできないから、多分としか言いようがないんだけど。今回おおごとになったのは、タマちゃんが町を出て、守りが薄くなったのもあるんじゃないかな……」
あの日、ナギ先輩は自信なさそうにそう言っていた。
私だって神様は見たことがないし、その存在を身近に感じたこともない。けど、産土神と言われて心当たりがあったのが、翡翠神社だった。
翡翠神社にはこの町の守り神が祀られていると言う。ナギ先輩も町全体がそんな雰囲気だと言っていたし、私もこの町の住人の一人として、ここの神様に守られているんだろうか。
だったら〝見える〟能力も神通力だか何かで無くしてくれればいいのに、なんて思うけど、神様だからと言ってなんでもできるわけじゃないのかな。まぁ……狭い田舎町とは言え、全町民を守ってくれているのなら、たった一人のためにそこまで力を割くことはできないのかもしれない。
とりあえず……お礼を兼ねて、手を合わせて行こうかな。
翡翠神社に辿り着くと、たん、たん、たんとステップを踏みながら、私は苔むした石段を上がる。
その先に────女の子がいた。歳は……私と同じくらい、いや、少し下かもしれない。眉上で切り揃えられた特徴的な前髪に、ふわふわ揺れるロングヘア。白いワンピース姿なのも相まって、なんだか幼く見える。
珍しいこともあるな、とこっそり思う。他の参拝客に会ったのは多分、これが初めてだ。夏祭りの日は縁日のお陰でそこそこの盛り上がりを見せるけど、それ以外だとここは寂れている。いやまぁ、この穏やかな田舎町で寂れているのは、何も神社だけじゃないんだけど。
「こんにちは、なのです!」
元気のいい挨拶をされる。まるで花が咲いたかのようにパッと笑う女の子につられて、思わず私も小さく微笑んだ。
「おねえさんはここで何してるのですか?」
女の子に質問をされる。それに答えようと口を開きかけて、ギョッとした。咄嗟に右目を手で覆う────女の子が、消えた。……やってしまった。
右目からそっと手を離す。不思議そうに首を傾げた女の子と目が合った。右目だけにしか映らないと言うことはつまり、この子は。
〈おねえさん?〉
女の子が再び声をかけてくる。対して私は一歩分、後ずさりした。今逃げれば、なんとかなる、だろうか。あぁもう! この場所は安全だと思ってたから完全に油断した!
自分自身の詰めの甘さと言うか、危機管理能力の低さにはほとほと嫌気がさすけど、落ち込んでいる場合じゃない。とにかく今は、思い切り〝見える〟ことがバレているこの状態から、逃げ切る方法を考えなくちゃ。
〈……行かないで欲しいのです〉
頭をフル回転させて考えていると、女の子は寂しそうな顔をした。まるで締め出された子犬のように、大きな瞳にはうるうると涙が溜まっている……ってダメ! 情に絆されるのは良くないって、ナギ先輩も言ってたでしょ!
〈シヅは悪い子じゃないのです。ただ、〝おとしもの〟を探しているだけなのです……〉
女の子はくしゃりと顔を歪めると俯いてしまった。悪意はまったく感じない。そこにあるのは悲しみだけで、今にも泣き出しそうな表情にも偽りなんてなさそうに見える。
正直、このまま流されてしまいそうだ。現に、本当に悪い子じゃないのかも、と思っているくらいなのだから。
「おとしものって、何?」
あぁ、ついに話しかけちゃった。もう取り返しがつかないなとは思うけど、どうしても放っておけなかったんだ。これでこの子が本性を現してやばいモノと化したら……その時はなんとかできる……かなぁ? できなかったらどうしよう……。
ドキドキしながらも女の子を待っていると、その子は俯いたまま、小さく呟く。
〈記憶なのです。シヅはどこかに記憶をぜんぶ、落としてしまったみたいなのです〉
その言葉に私は、戸惑ってしまった。
「え……記憶? 記憶喪失ってこと?」
私が聞き返すと、女の子はこてんと首を傾げた。
〈記憶ソーシツってなんですか? シヅは記憶を落としただけなのです〉
やっぱり、ひとつひとつの言動がどことなく子供っぽいと感じる。ここまで意思疎通のできるタイプと出会ったのは初めてだから分からないけど、見た目の割に言動が幼く感じるのは記憶がないせいなんだろうか。
「えっと、ほら、何か覚えてることはないの? たとえばお名前とか、何歳なのかとか、おうちの場所とか」
なるべく易しい言葉を選んで、私はそう訊ねてみた。女の子は少し考えたあとで、〈シヅ〉と呟く。
〈それがシヅが唯一、覚えている言葉なのです。だから忘れないようにシヅはシヅのことを、シヅって呼ぶのです。じゃないとシヅは忘れん坊さんだから、きっとすぐに忘れてしまうのです〉
頭がくらくらしてきた。ええとそれってつまり、何も覚えてないってことなんじゃ。
迂闊に話しかけてしまったけど、一体どうすればいいんだろう。先輩達は仕事中だし……。
そもそも幽霊って記憶喪失になるものなの? これが生きている人なら、記憶が吹き飛ぶくらいの大きな事件・事故に巻き込まれた可能性や、何らかの精神的ショックを受けた説、病気の影響あたりが思い浮かぶんだけど、なにぶん相手は幽霊だしな……。
〈おねえさん?〉
目の前の少女が私の顔を覗き込んでいた。私と目が合うと、彼女は無邪気に笑う。そのあとで今度は真剣な顔をして、こう言った。
〈シヅの〝おとしもの〟探し、手伝って欲しいのです〉
「手伝って欲しいって言われても……」
無くした記憶だなんて、一体どうやって探せばいいんだろう。
〈今までシヅはたくさんの人に声をかけたのですよ。でも、みんなみんなシヅのことを見えてないみたいに、すぐにどこかへ行っちゃうのです。こんな風にお喋りできたのは、おねえさんが初めてなのです。だから、お願いなのですよ〉
うぅ、そんな顔で見つめられたら罪悪感が……。
もしここで私が断ったら、この子はまた〝見える〟人を求めて、彷徨い続けるのかな。その間にこの前みたいな他者を喰らう存在に出くわしてしまったら、この子は食べられちゃうのかな。ああいうのに喰われた子って、その後はどうなるんだろう。
そんな風に考え出したら、放っておけないという気持ちがどんどん強くなっていく。
「手伝うよ。とは言っても、何ができるか分からないけど」
結局、頷いてしまった。女の子の顔がぱっと輝く。
〈ありがとうございますなのです!〉
あーあ……先輩達に怒られるかな、これ。