夢の中の不思議な喫茶店 伍
年頃の女の子の、しかもひと部屋しかないアパートに、男二人が泊まるわけにいかないでしょ────となかなかに反論しにくい正論を言って、先輩達は部屋を出て行ってしまった。どうやらアパートが見えるくらいの距離で張って、異変を感じたら突入するつもりらしい。
「本当は部屋の前や駐車場で待機してあげたいんだけどねぇ。……ほら、通報されちゃったら面倒臭いからさ」
なんて、妙に現実的なことを言っていた。冗談っぽく笑ってたけど、多分、前例があるんだろうな。そう感じさせる言い方だったぶん、余計に文句が言いづらかった。
ナギ先輩が部屋を出て行く直前に言っていたことを思い出す。
もしも夢の中に誘われたら、絶対に何かを口にしちゃだめだ。それは勿論、舞川さんも同じ。急いで彼女の手を引いて、とにかく逃げること。
追い付かれるかも、なんて思っちゃいけない。誘われたとは言え、夢の主はタマちゃんなんだから。夢の中なら音速でだって走れるぞ、くらいの心持ちで逃げるんだよ。
「そんな無茶な……」
私は小さくため息をついた。ナギ先輩曰く、夢の中でこれは夢なんだと認知する────所謂明晰夢という奴では、夢の内容を思い通りに変化させられる、らしい。理屈上は理解できるんだけど、そんな簡単にできることなのかなぁ。私、明晰夢なんて見たことがないのに。
コウ先輩もコウ先輩で「ミイラ取りがミイラになったら笑うからな」だなんて脅してくるし……。あれって要するに、お前まで食事してくんじゃねぇぞってことでしょ? 初仕事にしては荷が重すぎない?
いや、先輩のところに来る依頼で軽いものは無いだろうけど、そうだとしても普通は新人をたった一人で依頼人のところに残したりしないでしょ? 仮に何か不測の事態があったら、一体どうするつもりなんだろう? ……あ、なんか腹が立ってきたな。
「タマさんも除霊とかできるの?」
心の中でぼやいていると、舞川さんが話しかけてきた。シャワーを浴びたばかりの彼女の髪は、まだ少し濡れている。「いえ」と私は首を振った。
「私はただ〝見える〟だけなんです」
「そっかぁ……先輩さんが言ってたもんね。タマさんは怪異が……、その、向こうからやって来るって」
舞川さんはパイプベッドへと腰を下ろした。ナギ先輩の発言をだいぶマイルドに表現してくれている。どうやら気を遣われているらしい。かえって申し訳ないな、と思っていると「私ね」と舞川さんが続けた。
「ここのところあんまり眠れてなくて……。多分疲れた顔をしてたからだと思うけど、ゼミの時、教授にわけを聞かれたんだ。そしたら鹿子さんを薦められてね」
まるで独り言のように呟く舞川さん。私は黙ってその話に耳を傾ける。
「昔、教授も変なモノに憑かれたことがあったんだって。その時、鹿子さんの先代さんにお世話になったらしくて、きっとあの人のところならなんとかしてくれるからって、連絡先を教えてくれたの」
不思議な縁だよね、と舞川さんは自嘲した。それから膝を抱えて俯いた。
「ソラさんはもう……魂を取られちゃったのかな」
私は言葉に詰まってしまった。その答えを私は知らない。それは舞川さんも同じだけど、きっと彼女の中では確信に近い答えがあるんだと思う。
「会ったことないし、顔も本名も分からないけど、同じ目に遭ってた仲間で……友達でもあったの。その子を差し置いて、私だけ助かっちゃっていいのかな……」
大丈夫ですよ、なんて簡単に言えない。どう声をかけても正しい言葉ではない気がして、私は舞川さんの隣に座ると、その背中をさすった。すん、すん、と鼻を啜る音が木霊する。
しばらくそうしていると、やけに静かなことに気が付いた。
「舞川さん?」
返事がない。見れば、舞川さんは眠っていた。膝に顔を埋めたまま、すぅすぅと寝息を立てている。そう言えば、最近はよく眠れていないって嘆いていたっけ。
私が傍に居ることで、少しは安心できたのかな。横にしてあげたいけど起こしちゃいそうだし……そうだ、せめて毛布をかけよう。
私は近くの毛布を引っ張ってくると、舞川さんにそっとかけた。さて、これからどうしようかなぁ。布団は舞川さんが敷いてくれたけど、まだ眠くないし。
そう考えながらもベッドから離れようとした時、ぐらりと世界が揺れた。慌てて膝を付いたところで確信する。揺れたのは世界じゃなくて、私の視界だ。それにこれは。
がくん、と首が落ちたことで、瞳を閉じそうになっていたことに気が付いた。……危ない、今眠るところだった。これはさすがにおかしい、と思う。さっきまで眠くなかったはずなのに、こんなに急激に眠くなるなんて。あれ? もしかして私、今、誘われてる?
とにかく非常事態を知らせなきゃ。私はスマホを取り出すと、ナギ先輩へと電話をかける。あ……眠い……もうだめかも……。
朦朧とする意識の中、誰かの呼ぶ声がした。
△△△
気が付くと私は見覚えのない場所に立っていた。……どこだろう、ここ。なんで私、ここに居るんだっけ?
首を傾げながらも周囲を見渡す。どうやら私は今、古民家に居るらしい。どこを見てもまるでドラマのセットのような古めかしい出で立ちだけど、小綺麗に整えてあるぶん、お洒落に見える。それに。
「……いい匂い」
あたりは食欲をそそられる匂いが立ち込めていた。
「いらっしゃい」
ずっと見ていたからだろうか。部屋の奥にあった引き戸が開いて、割烹着姿のおばあさんが顔を出した。ニコニコと人あたりの良さそうな笑顔を浮かべている。
「ここは食事処だよ。何か食べて行くかい?」
「え……っと」
本音を言えば、食べて行きたい。それも無性に。けど、何故か言い淀んでしまった。なんでだろう。
「ほぉら、うちのご飯は美味しいよ。あんたも食べなさい」
おばあさんはそう続ける。急かすような口調だ。まるで、どうしてもここで食事をして欲しいように見える。そう思うと、優しそうな笑顔まで胡散臭く感じてくるから不思議だ。
どうしようかなと考えながらも視線を巡らせる。すると、私の背後────木目調のテーブル席に一人の女性が腰かけているのに気が付いた。さっきは気にも留めなかったけど、どうやら先客が居たみたいだ。
何気なしにその女性客を見つめる。ショートヘアの彼女はスプーンを持ち、目の前のオムライスを口へと運ぼうとしていた。その瞬間。
「だめっ!」
何かを考えるより先に、私は駆け出していた。女性客の腕を掴む。スプーンの上のオムライスが零れ、テーブルにべしゃりと落ちた。
「どうして……」
女性客が虚ろな瞳をこちらに向ける。どうして、って言われても……あれ? どうしてだめなんだっけ。あぁ、ズキズキと頭が痛い。
「お前も食べろ、早く食べるんだ」
おばあさんがこちらに向かって歩いてくる気配がする。早くしないと、と本能が囁く。早くしないとって、何を? 早くしないとどうなるんだっけ?
「食べちゃだめ、逃げなきゃだめ」
確かにそう言われたよね。誰に?
「せんぱい……ナギ先輩。そうだよナギ先輩に!」
私は女性客の、舞川さんの腕を引っ張ると無理矢理立たせた。
「舞川さん、走りますよ!」
「でも」
舞川さんは名残惜しそうにオムライスへと視線を向ける。ここではどうにも思考が鈍るらしい。さっきまでの私もそうだった。
自分がどうしてここに居るのか分からないまま、ここで食事をして行こうかなって気持ちに傾きかけていた。頭の中の靄が晴れた今なら、それが何を意味するかよく分かる。
「ミイラになるのはご免です!」
危なかった。あのままあそこで食事していたら、それこそ「忠告しただろ」ってコウ先輩に馬鹿にされる。いや、馬鹿にされるくらいで済んでいたならまだいい。下手をすれば、私も舞川さんもそのまま魂を持って行かれたかもしれない。
「待て!」
走り出した私達を、おばあさんの声が追いかけて来る。ついさっきまでの優しい声色とは正反対の、それこそ地獄の底から響いてきていそうな、低くて怖い声。おばあさんの正体は私には分からないけど、とにかく今は。
「音速で、走る!」
……くらいの心持ちでダッシュだ!
「あ、あれ?」
店を出たところで、困惑したような声がした。舞川さんも正気に戻ったらしい。まだ状況が読み込めていないようだけど、説明している暇も余裕もない。
「走って!」
手を引いたままそう叫ぶ。遅れて舞川さんも理解したらしい。「ひっ」と息を呑む音が聞こえて、自分の意思で駆け出したのが伝わってきた。良かった……じゃない、まだちっとも安心できない。アレに捕まったら多分、私にも彼女にも良くないことが起きる。だからと言ってどこに逃げれば。
「────、────!」
聞き覚えのある声がした。遠いせいなのか、ここからじゃその内容までは分からないけど。
「こっち!」
私は声のする方向に向かって走る。直感だった。でも、結果として正解だったらしい。声に近付くにつれ、だんだんとその内容が聞き取れるようになってくる。────私の名前だった。そっか、ずっと呼んでくれていたんですね。
「タマちゃん!」「タマ!」
すぐそこで、先輩達が私を呼んでいる。
「逃げるなぁぁぁぁぁぁぁ!」
だけど背後の声もすぐ傍まで迫っていた。まずい、このままじゃ。その時。
「離せ小癪な!」
背後の声が叫んだ。何が起きているのか気になるけど、今がチャンスだ。私は全速力で駆け抜けた。目の前が明るい。きっとここまで来れば大丈夫。
そう確信して、私はようやく後ろを振り返った。
髪を振り乱し、まるで昔話に出てくる山姥のような見た目をした老婆が怒り狂ったように暴れている。その腕に、足に、おなかに、背中に、たくさんの人影が群がっていた。性別も年齢もバラバラだ。その人達が全員、老婆にしがみついている。
その内の一人……眼鏡をかけた、髪の長い女性と目が合う。彼女はこちらを見て、微笑んだ。
「────」
視界が光に包まれた。