夢の中の不思議な喫茶店 肆
「それが黄泉比良坂、だったんですね」
「……そうです」
ナギ先輩の言葉に舞川さんが静かに頷いた。
「よもつ……?」
「黄泉比良坂。黄泉の国、つまりあの世とこの世の境だとされている場所だよ」
私の疑問に答えるように、ナギ先輩が説明してくれる。
「古事記によるとね、黄泉の国の食べ物を────もっと正確に言うと、黄泉の国の竈で煮炊きされたものを食べてはいけない、食べてしまうと黄泉竈食って言って、この世に戻って来れなくなるとされているんだ」
ギリシャ神話にも似たような話があるんだけどね、と先輩は続ける。
「そうなんです。私、大学で日本文学を専攻してて……講義で古事記が取り上げられたこともあったから、その看板を見てピンと来たんです。もしかして私達は、黄泉比良坂の喫茶店からあの世へと足を運んでいて……知らない間に黄泉竈食をしちゃったんじゃないか、って」
「でも、黄泉竈食をしたら……その、戻って来れないんですよね? 舞川さんは戻って来てるじゃないですか」
「そうだねぇ」
ナギ先輩は考え込むように顎に手を当てる。
「お代に生者の魂を全て頂戴するには、何回かそこで食事をする必要があったのかな。或いは食事を餌にして魂にマーキングして……、その魂が食べ頃になるのを待っていたか。ほら、熟れてない青い実を食べたところで美味しくなんてないでしょ?」
ナギ先輩はフッと微笑むけど、全然笑いどころじゃないと思う。
「だとしても回りくど過ぎじゃね?」
そう言ってコウ先輩は肩を竦めた。
「ソイツ、たった一人の魂を喰うのに何年もかけてるわけだろ。それにわざわざヨモツなんとかザカに店開いて、あからさまな店名をつけた挙句に飯まで提供してさ。ンな手間暇かける必要あんの? 魂が喰いてぇなら、余計なことしねぇでとっとと喰っちまえばいいのに」
「そこなんだよね」
ナギ先輩は人差し指をピンと立てた。
「僕の予想では、それが制約になった結果じゃないかって思うんだ」
「制約、ですか?」
意味が分からないとでも言いたそうに、舞川さんが首を傾げる。因みに私もよく分かっていない。ナギ先輩は何が言いたいんだろう?
「アイツらを細分化した時、死者の霊魂……所謂幽霊も居れば、妖怪や都市伝説、怪談なんかに区分される奴もいる。幽霊は元々は生者だし、その人の未練や強い感情から生まれる存在だけど、後者においてはそれがない。じゃあどうして存在しているのかと言われれば、人々に噂をされることによって生み出され、信じて貰うことによって生かされているから、なんだ。そしてこちらにはいくつか弱点がある。まず、信じてくれる人が居なくなってしまったら、ソイツら消滅する運命にあるってこと。噂によって生まれた存在なんだから、噂をされなくなれば力を失うのは当然だ。それともうひとつ。さっきも言ったけど、制約が課せられる時があるってこと」
うーん。長々と語ってくれるものの、いまいちピンと来ない。それは他二人も同じなのか、何も言わずにナギ先輩の次の言葉を待っている。
「例えば口裂け女っていう都市伝説があるでしょ?」
ナギ先輩もそれを察しているらしい。どうやら追加で説明してくれるみたいだ。でも、なんで口裂け女?
「マスクを付けた赤いコートの女が『私、綺麗?』って聞いてくるって奴。綺麗だって答えると、マスクを外して『これでも~?』って言われるんだよね。で、そのマスクの下にあるのは耳まで裂けた口!」
ナギ先輩は両手を口に引っかけ、それぞれの方向にぐいっと引っ張った。……口裂け女のつもりらしい。
「質問の答えが口裂け女の望むものじゃなかったら、鎌で口を切られちゃうらしいよ。走って逃げるにしても、口裂け女は足が速いから、あっという間に追いつかれちゃうんだって。怖いよねぇ。……ところでタマちゃん、口裂け女に出会った時の対処法って知ってる?」
「えっと、『ポマード』って三回唱える、じゃ無かったでしたっけ?」
突然の問いにしどろもどろになりながらも私はそう答えた。昔、そんな対処法を聞いたことがある。確か、ポマードの臭いが苦手だとかなんとか……。
私の答えを聞いたナギ先輩は「そうだね」と頷く。
「あとはべっこう飴をあげる、もしくは投げつけるっていうのもある。口裂け女の存在を信じた当時の子供達が、なんとかその恐ろしい存在を撃退しようと、一生懸命に考えて生まれた噂なんだろうね。いや、或いは同業者みたいな立場に居る人達が、口裂け女の弱体化を狙って、意図的に噂を流したのかもしれない。どちらにせよその後付け設定によって、口裂け女は『ポマード』と唱えられたら逃げなくちゃいけなくなった。新たな噂が付け足されたことによって、行動に制限がかかるようになったんだ。それでは完全無欠の怪異だったのにね。ほら、そう考えるとまさに弱体化でしょ?」
あぁなるほど、それが制約ってことか。先輩が言いたかったことがようやく理解できた、気がする。
「……そしてそれは何も都市伝説だけじゃない」
ナギ先輩はそこまで言うと、一旦ココアを口にした。一瞬の静寂が生まれる。
「同じく人の信仰心によって生まれた神様や神話にも言えることなんだよ。つまり、今回の黄泉竈食も」
「飯を食って貰えりゃ魂が奪える。が、裏を返せば飯を食って貰えなきゃ何もできねぇ。それが制約だって言いてぇの?」
コウ先輩がナギ先輩の言葉を遮る。途端、ナギ先輩の顔がパッと輝いた。
「そうそう、そういうこと! さっすがこーちゃん!」
「……うざ」
コウ先輩は思い切り顔を顰めている。ナギ先輩はその反応を見て満足そうに笑ったあと、舞川さんへと向き直った。
「舞川さんの夢に登場するのが、本当に『古事記に出てくる黄泉比良坂』なのか、それともそこから派生して生まれた怪異なのかは、そこまで重要じゃありません。何故今まで泳がしていたのかも、深く気にする必要はないでしょう。それより問題なのは、既に舞川さんが食事を済ませてしまっている、ってことですね。制約上でいけば、アチラさんはいつでも舞川さんの魂を奪える状態にあるわけですから」
「……ですよね」
舞川さんが俯く。そりゃそうだよね。この世ならざるモノに魂を握られているなんて聞かされて、怖くないはずがない。
「不安で眠れないんです。いつまたあの夢を見るのか分からないから……」
「それなら大丈夫です」
ナギ先輩がニッコリ笑った────その瞳は私を見据えている。あ、また嫌な予感がする。
「うちのタマちゃんは怪異ホイホイですから」
やっぱり! って言うか!
「人を害虫捕獲器みたいに呼ばないでください!」
「……フッ、言い得て妙だな」
「とまぁ本人はこう言ってますが、その実力は折り紙付きです。その夢はきった今夜、舞川さんを────そしてついでにタマちゃんを誘いにやって来る」
私の抗議とコウ先輩のせせら笑いを無視して、ナギ先輩はそう言い切った。
「美味しい餌がふたつ、目の前にあるんですよ。これを逃すはずがない。あ、大丈夫ですよ、安心してください。アチラさんに来てさえ貰えれば、あとは僕らが直接叩きますから」
舞川さんに不安そうな顔を向けられ、私は笑うことしかできなかった。
先輩達の腕は確かだろうけど……、そんなに上手くいくのかな? 心配だ。