〝見える〟人 壱
高く澄んだ空が広がっている。
高校生活初日の入学式の朝は清々しいほどの快晴。そんな天気とは反対に、私の心は暗く沈んでいた。
「……はぁ」
同じ制服を着た生徒達の背中を追いながら、私は大きなため息をつく。額や背中を伝う汗が鬱陶しい。せめて額の汗だけでもなんとかしようと手の甲で拭えば、思いの外ぐっしょりと濡れていた。
あぁもう、せっかく前髪を整えてきたのに。きっと学校に着く頃にはぐちゃぐちゃになっているんだろうと思うと、更に憂鬱になる。
こんな時に気分を紛らわせてくれる友達は……今はいない。なんでも新学期早々寝坊をしたとかで、「先に行ってて!」という連絡が来ていた。
あの子らしいと言えばそれまでなんたけど、高校生にもなって寝坊というのは、あまり笑えない気がする。ほんと、社会人になったらどうするつもりなんだろう。今はあの底抜けの明るさで許されている節があるけど、さすがに社会じゃそれも通用しないような。
なんて、現実逃避気味に考えながら、私はこっそりと後ろを振り返る────あぁ、まだ『居る』。
私の背後にピッタリとくっつく、黒い影。薄ぼんやりと人間の形を留めているけど、生きている人じゃないのは明白だった。それに……コレは、他の人には見えていないということも。
〈見えてルんでショ?〉
耳鳴りと同時に、思わず身震いしてしまうような嫌な声も聞こえてきた。キィキィと甲高いようで、くぐもっていて低くもある、年齢も性別も感じさせない不気味な声。私が聞いているアレらの声は、いつもこんな感じだ。
声まで聞こえてくるタイプには、恨み節を唱えていたり、喜怒哀楽のどれかを爆発させていたりするのが多いけど、今日のコレはずっとこの調子だ。特別何かをするわけじゃなく、私の後を付いてきて「見えてるんでしょ」「ねぇってば」をずっと繰り返している。正直、鬱陶しい。
実のところ、コレの正体は私にもよく分からない。多分、幽霊だとか怪異だとか妖怪だとかオバケだとか……そういう風に呼ばれているモノ達なんだとは思う。
子供の頃の話だ。私の右目が突然、それらの存在を映すようになったのは。普通なら見えない、聞こえないはずの存在が認知できるという事実は、まだ幼かった私の生活を脅かした。
怖いモノがいると泣き喚く私を心配した両親が、病院へ連れて行ってくれたこともある。でも結局、原因は分からずじまい。そうしているうちに、私はアレらがいる生活に慣れてしまった。大抵はぼんやりと立ち尽くしていたり、こちらに気付いていても関心が無さそうだったりするモノばかりだったし、右目を覆ってしまえば映さないというのも大きかったと思う。
とは言っても、今日のように付き纏ってくるモノもごく稀にいた。このタイプは非常に厄介で、向こうが飽きてどこかへ行くまでずっと付き纏いが続く。右目を眼帯やサングラスで完全に覆わないでいるのは、こういうめんどくさい奴の存在にいち早く気付くようにするためだ。付き纏われる時間に比例して、体調に異変をきたすから。
恐らくはマイナスの感情とか、そいつらが纏っているよくない、なんて言うのかな、雰囲気みたいなものが影響を及ぼしているんだと思うんだけど、そのあたりも詳しくは知らない。
そう、私はアレらについて、何の知識もないんだ。数少ない知識を強いて挙げるなら、関わらない方が身のためだということだけ。
私自身が被害を被る可能性があるわけだから、なるべく接触は避けたいところ。変にアクションを起こすと何をされるか分かったものじゃないし、こういうのは全部無視するのに限るから。
今回のコレだって、どこから憑いてきたのか分からないけど、しばらく無視していればどこかへ行ってくれるはず。願わくば、体調が悪くなる前に消えて欲しいんだけどな。あぁ、今日から新学期なのに、本当に運が悪い。
何度目か分からないため息をついた時、ずっと背後に居て声をかけてくるだけだった黒い影が動いた。私の顔を覗き込むようにぐぐぐ……と影が間近に迫る。
ひっ、と喉の奥が鳴った。まずい、非常にまずいタイプの奴だ。これは無視しておけばそのうちに居なくなるとか、そんな生半可なモノじゃない。
私が見聞きしていることに気付いていて、そしてそんな私に何か害をもたらそうとしている。そういう嫌な気配がヒシヒシと伝わってくる。今まで見てきた中でも、一位二位を争うレベルに危険だと思う。
これは早急になんとかしないと、本気でやばい。でも、どうしよう。コレの存在を認知できる人はなかなか居ないし、ましてやその対処法を知っている人なんて会ったことがない。
〈ねェねェ〉
耳元で声が囁く。皮膚が粟立つ。耳鳴りが酷くなる。呼吸するのが苦しくなって、意識が遠のいていくのが分かる。
そのままその場に倒れ込みそうになった時、
「おい」
背後から声がした。
振り返る前に後ろから腕を引かれる。その人物と向き合う形になったものの、意識がぼんやりしているせいかよく顔が見えない……けど、制服を着た男子生徒だということは分かった。
「フラフラ歩くんじゃねぇよ。危ねぇだろうが」
強い口調で彼が言い放つ。それに返事することもできずに立ち尽くしていたら、「聞いてんのか」と肩を掴まれた。その瞬間、霧が晴れたかのように視界がクリアになった。
驚いて固まる私の肩を掴んでいたのは、金色に染めた髪と耳元のピアスが目立つ男子生徒だった。ネクタイの色からして、二つ上の先輩だということが分かる。見覚えはない、はずだ。
「おい」
もう一度、先輩が言った。……怖い顔だ。
「えっと、ご、ごめんなさい……?」
状況が飲み込めないものの、気分を害してしまっているようなので謝っておく。どうしたものかと周囲に視線を巡らせると、他の生徒達はなんだか可哀想なものを見る目でこちらを伺いつつ、私達を明らかに避けている様子だ。……まぁ、怖いよね、この状況。
「ま、いいや」
先輩は私の肩からパッと手を離すと、面倒臭そうに大きな欠伸をした。それから何も言わずに歩き出す。え……ええ? なんだったの……?
先輩が何をしたかったのか理解できない。もしかして私、意識が遠のいているうちに、ぶつかったりしちゃったんだろうか。そこまで考えた時にようやく気が付いた。さっきまで背後に居た黒い影が居なくなっていることに。
思わず、遠ざかっていく先輩の気怠げな背中を見つめる。
もしかしてあの人が……? でも、どうやって……?
考えを巡らせてみても答えは出そうにない。と、とりあえず学校に行こうかな……さっきの出来事で私、目立っているみたいだし。それに学校に行けばあの人に会えるかもしれない。
深呼吸をして歩き出す。さっきまでの沈んでいた気持ちはどこへやら、なんだか晴れやかな気分だ。
見上げれば青い空が私の背中を押してくれているような、そんな気がした。