ごっつぁんザウルス
「ねえねえパパ! これ!」
そう言って、四歳の一人息子の留太が一枚の画用紙を目の前に広げて見せた。
「おお! これは凄い!」
食器を洗う手を止め、満面の笑みでドヤる息子を褒めた。
「何て言う名前なんだい?」
買ったばかりのクレヨンで画用紙をいっぱいに描かれた、恐竜と呼ぶには奇形で、怪獣と呼ぶには古風なその生き物を、泡だらけの手で指差して聞いてみる。
「えっとね! えっと……ごっつぁんザウルス!! ごっつぁんです! ごっつぁんです! って言いながらパパのお仕事を手伝ってくれるんだよ!?」
「ああ。それはパパ、嬉しいなぁ」
「でしょ?」
息子は歯を見せて笑った。こんなに笑う息子を見るのは、いつ以来だろうか?
少なくとも妻の妙子が亡くなってから半年間。留太は殆どと言って良い程に笑わなかった。
──パパ、僕がいるから。
その言葉に当時の私がどれ程救われたであろうか。息子が居るからこそ路頭に迷いかけたが、息子が居たからこそ立ち直れた。
目の前で画用紙を広げて嬉しそうに笑う息子に向かって、そっと親指を立てた。
「パパ、嬉しい?」
「ああ、勿論」
「良かった!」
留太はリビングへ戻り、今度はハサミで画用紙を切り出し始めた。
私も皿洗いの続きへと戻る。
……四歳の息子に心配されてしまった事に気が付いたのは、ご飯茶碗の洗い残しに気が付いた頃だった。
人一倍寂しい筈の息子に『嬉しい?』だなんて聞かれるとは、私は余程酷い顔をしていたのであろう。そう思うと、自然と涙が溢れてきた。悟られぬ様に少し水を強くした。
「パパ、お水出しすぎ!」
「……ゴメン」
「いつも言ってるでしょ! これで何回目なの!?」
「ゴメンな」
息子を怒る妻の口調そのもので、今度は息子に怒られる。耐えきれずこぼれ出た涙を慌てて拭い、トイレへと逃げた。
落ち着きを取り戻し、静かにトイレから出ると、息子がまたもや満面の笑みで先程切り抜いた画用紙を差し出してきた。
「あげる!」
「……ありがと」
赤と緑が入り交じるごっつぁんザウルスを受け取り、セロハンテープで冷蔵庫へと貼り付けた。
「夜はチャーハンにしようか」
「えーっ! またチャーハン!?」
「唐揚げ入れよう」
「やったー!」
留太の頭を撫で、冷蔵庫の中を確認した。
翌朝、キッチンからの物音で目が覚めた。留太が何かしているのかと思ったが、留太は部屋の隅っこで丸まっていた。寝相の悪さは私に似たらしい。
「……お義母さんか?」
一応両家には合鍵を渡してはいるが、今まで断り無しに入った事は無く、何処かただならぬ異常な気配を感じ、学生時代にお土産屋で買った木刀を手にした。
今では布団叩きとしての役目を与えてはいるが、人に向かって使う事はこれが初めてである。
ゆっくりと、かなりゆっくりと、物音が続くキッチンへ向かい、静かに覗き込む。
「──うわぁ!!」
私はたまらず悲鳴を上げた。
「ごっつぁんです!」
私よりも一回り程小さな、赤と緑が入り交じった、不格好な恐竜のような怪獣のような生き物が、満面の笑みでこっちを向いて挨拶をしてきた。
「パパ……あ! ごっつぁんザウルス!! ごっつぁんザウルスだ!!」
「危ないぞ留太!!」
寝起きで寝癖の酷い息子と止め、少しばかり距離を取った。昨日冷蔵庫に貼った画用紙は、何故か真っ白で何も描かれておらず、目の前には息子が描いたと思われるごっつぁんザウルスとやらが、何故か朝食を作っていた。
「ごっつぁんです! ごっつぁんです!」
不器用そうに出来た目玉焼きと野菜炒めを運び出すごっつぁんザウルス。食えと言わんばかりに二人分の支度がテーブルの上に広げられた。
「ごっつぁんザウルスだよパパ!」
「あ、ああ……」
理解の追いつかぬ私をさておき、留太はごっつぁんザウルスに向かって飛びついた。
「クレヨンくさい!」
触った留太の手とパジャマに、赤と緑の色が移った。
「触らないでおこうな」
「うん!」
「ごっつぁんです!」
納豆の蓋を開けるごっつぁんザウルス。不器用そうに見えて、どうやら中々に出来るらしい。
突如として現れたごっつぁんザウルスは、家事全般を手伝ってくれ、私としてはかなり負担が減った。息子とも遊んでくれ、自分の時間も取れるようになった。ひょうたんから駒とは正にこの事なのだろうが、私としては嬉しい限りだった。
息子も大層喜んでおり、この怪奇について深く考えるのを次第に止めるようになっていった。
──と、そこで私は思った。
女の子を描かせてみてはどうか、と。
妻を亡くして半年。こういった思考は忘却の彼方へと押しやられていたが、私もまだ三十代。まだまだ男盛りだ。
しかし、まだ妻を亡くして半年だ。こういった思考を表に出すことは、実に躊躇われる事であり、妻に申し訳ない気持ちも十分にあった。
息子に妙子を描かせるのは、些か気が引けた。
一生の保証も無い、ある日忽然と姿を消してしまうかもしれないクレヨンの具現に、私は妻の面影を追い求める気にもなれなかった。
なにより、留太の絵心で私の求める妻を描ける気がしなかった。四歳の息子にそこまで深く描かれても困る訳なのだが……。
「留太」
「えー、なーに?」
丁度良くごっつぁんザウルスとクレヨンで絵を描いていた息子に声をかけた。あわよくば金目の物を、なんて発想が浮かぶ辺り、私は既に純真さを失っているのかもしれない。
「今度は何を描いているんだい?」
「女の子!」
「そうか!」
思わず下品な声が出てしまった。流石は息子と言った感じだ。気が利く所は妻に似たのであろう。私は嬉々として画用紙を覗き込んだ。
「……そう来るか」
画用紙には赤と緑が入り交じる、恐竜にしてはSFチックで、怪獣にしてはアナログ的な生物が描かれていた。
「見て。リボン!」
仕上げにデカデカと頭にピンクのクレヨンでリボンを着けると、それをごっつぁんザウルスへと広げて見せた。
「ごっつぁんです! ごっつぁんです!」
「待っててね、いま切るから」
「ごっつぁんです!」
私は、一旦落ち着いてリビングのソファへと深く腰掛けた。天井を向いて目を閉じ、静かに頭の中の雑念染みた意地悪い大人の醜い汚れみたいな物を、必死でスクレーパーでこそぎ落とした。
「じゃじゃーん!」
とても嬉しそうな息子とごっつぁんザウルス。
中々落ちない頑固な汚れに苦戦する自分。先日コンビニで立ち読みした週刊誌のグラビアアイドルが、脳裏に焼き付いたまま離れない。
「へいらっしゃいザウルス!」
「なぜ?」
「お寿司たべたい!」
「ごっつぁんです!」
「ああ……なるほど」
最近めっきり行ってなかったからなぁ……。
「家で作るか? それならごっつぁんザウルスも食べられるし」
「やったー!」
「ごっつぁんです!」
その日は手作りの手巻き寿司で賑やかな食卓を囲んだ。
「ごっつぁんです!」
「へいらっしゃい!」
「ごっつぁんです! ごっつぁんです!」
「へいらっしゃい! へいらっしゃい!」
「確認するまでも無いが、朝から騒ぐのは勘弁してくれ……」
畑仕事の老人かと思うほど早起きを余儀なくされキッチンへ向かうと、昨日のへいらっしゃいザウルスが画用紙から飛び出して、ごっつぁんザウルスと熱い抱擁を交わしていた。
「ごっつぁんです!」
「へいらっしゃい!」
「分かった分かった。だから少し静かに頼む、な?」
「……ごっつぁんです」
「……へいらっしゃい」
「じゃ、俺はもう少し寝る」
寝室へ戻り、留太の横へ。なんと無邪気な寝顔な事か。
「ご、ごっつぁんです!!」
「へいらっしゃい……!!」
「お盛んだなー……」
思えば初めて会っていきなり夫婦みたいなもんだからな。仕方ないと言えば仕方ない、か……。
「まさか子どもとか出来ないだろうな……?」
少し心配になり、笑ってごまかした。
謎の生物二人と過ごす日々はとても快適で、留太が風邪をひいても看病してくれる人が居るのは、とても楽であった。俺は仕事に集中出来るし、良いこと尽くめだ。
「ずーっとこのままだと良いのにね」
「……そうだな」
そんな事があるのだろうか?
何事にも必ず終わりがある。だからこそ今がとても愛おしいのだ。留太が大人になるまでに、私が生きている事すら不確かなのだ。だからこそ私は今この時間ですら全力で息子の成長を支えたい。
「……へぃ……らっしゃ……ぃ……」
終わりはすぐにやって来た。へいらっしゃいザウルスの姿が次第に薄くなり、後ろが透けて見えてしまっている。
「パパ……」
「留太、お別れの時間だ。最後にバイバイを言おうな」
親愛なる家族との二度目の別れ。
別れの挨拶を言わせる事がこれ程までに苦痛を伴うなんて、妻が死ぬまで知らなかった事だ。
「バ、バイバイ……っっ!!」
必死で涙を堪え、前を向く。四歳にしてここまでの事をさせてしまっている自分が何とも情けないが、如何せんどうしようにも無い。
「ごっつぁんです……!!」
ごっつぁんザウルスが何度も抱きしめようとするが、既に掴めない程に薄くなってしまった。
「……ゃぃ……」
そしてへいらっしゃいザウルスは、画用紙へと戻ってただの絵になってしまった。
「ごっつぁんです! ごっつぁんです……!!」
まるで遺影の前で泣きすがる夫のような、半年前の自分が目の前に見えてしまった。
「大丈夫だよ。僕がいるよ」
私はたまらずトイレへと逃げてしまった。
便座に腰掛け、トイレットペーパーで涙と鼻水を拭った。
留太はいつまでもごっつぁんザウルスの背中をさすり続けた。自分の手がどんなに汚れても……。
間もなくして、キッチンは静かさを取り戻した。
ごっつぁんザウルスも絵に戻り、へいらっしゃいザウルスと仲良く並んで冷蔵庫に貼り付けられている。
背中がやけに色抜けしてしまったが、いつまでも絵の中から息子を見守っていてくれているだろう。