英雄の弟-ぼくが1番欲しかったもの
源頼朝の祖先で、武将たちに神格化・英雄視された八幡太郎こと源義家の弟に生まれ、弓馬の名人・笙の名手であった文武両道の武将義光。後三年合戦で苦境に立たされた兄の義家のもとに官職をなげうって向かったことは、兄弟愛の美しさを表す姿とされた。
しかし、実際の彼は、欲しいものを手に入れるためには、手段を選ばない人でもあった。兄を苦しめ、甥の殺害に関与し、彼が両手どころか全身を血に染めても1番欲しかったものとは一体何であったのか。
☆主な登場人物紹介☆
源義光
→主人公。源頼義の三男で義家・義綱の弟。通称は新羅三郎。
源義家
→義光の長兄。義忠の父で為義の祖父。八幡太郎の名が有名。
源義綱
→義光の次兄。義明の父で義光に罪を着せられ、為義により自害に追い込まれる。
源義忠
→義家の息子で彼の死後、源氏の棟梁となった。経国の父。
源義明
→義綱の息子。義忠を殺害した事件の犯人とされて自害。
源為義
→義家の孫で頼朝の祖父にあたる。義忠亡き後、棟梁となる。
藤原季方
→義光と義家の郎等。義明の乳母と結婚する。
平成幹
→義光の長男である義業の義兄(妻の兄)で通称は鹿島三郎。
快誉
→義光の異母兄で、園城寺の僧侶(阿闍梨)。
源経国
→義忠の息子で、後年義光を殺害したとの話が伝わる。
序 2組の兄弟~駿河国の黄瀬川にて
治承4(1180)年10月のことである。駿河国黄瀬川宿に陣を敷いていた頼朝の宿所近くに、ひとりの若武者がたたずんでいた。年齢は24、5歳くらいで肌の色が白く、赤地の錦の直垂の上に、紫末濃の鎧で裾金物がついたものを着こなしている。頭には白星の五枚兜に鍬形の前立をつけたものをかぶり、小柄ながらも大中黒の矢を背負って、手には重藤の弓を携えていた。
自ら武士団を率いて、頼朝の御家人となっていた土肥実平は、孫とも遅く生まれた息子とも思えるような年齢の若武者に近づいた。何でも彼は「兵衛佐殿(頼朝)にお会いしたい」とのことであった。
(はて、誰であろう?)
実平は頭を抱えながら、弟の土屋宗遠と義理の兄弟にあたる岡崎義実のもとへやってきた。三人は見覚えのない彼の姿を遠くから眺めては頭をひねるばかりであった。
「そなたたちはあの若武者を見たことがあるか」
実平は宗遠と義実に尋ねた。
「いいえ。見たことはございませぬ。」
宗遠が言った。
「某も見たことはございませぬ。息子の与一と同じくらいの年でしょうな。」
義実は若武者の姿に目を細めた。彼は2ヶ月ほど前に、与一こと嫡男義忠を石橋山で亡くしていた。まだ25歳の若さであった。3人は少し言葉を交わしていたものの、
「それにしても、たいそう立派な出で立ちだが、素性のしれない者を殿の御前に連れてはいけぬ」
という、このあたりの武士の世界では重鎮的存在である実平の言葉に従い、この若武者を頼朝に対面させないことにした。しかし、見知らぬ若武者の姿に周囲はざわつき始め、騒ぎを聞きつけた頼朝は実平のもとへ使いをよこし、彼の年格好を確認した。
「歳のころは24、5くらいでございます」
平伏する実平に頼朝は、少しばかり表情をやわらげて、
「その者の歳のころを聞くに、陸奥国にいる弟の九郎(義経)であろう」
と言い、御前に若武者を連れてくるように下知した。実平が若武者を御前に連れてくると、頼朝はいつもの冷静さはどこへやら、陣の中にしつらえた御座所から前に身を乗り出した。
「九郎か」
義経の返事を聞くやいなや、頼朝は彼にもっと近づいて顔を見せるようにうながし、その顔を見るなり涙に咽んだ。義経も兄につられるようにして涙を流し、兄弟は共通の父が生きていた昔を語り合った。
そして頼朝は、あまりの嬉しさに思わず、かの有名な兄弟の話をした。
「後三年の戦のおりに、我らの先祖にあたる八幡太郎殿のもとへ、都におられた御弟の新羅三郎殿が左兵衛尉の職を辞して駆けつけられたことがあった。おふたりは力をあわせて奥州を征服された。その時の八幡殿のお気持ちも、私がそなたを迎えることができた今の気持ちにどうして匹敵しよう。よく来てくれた」
最後のあたりを言いきらないうちに、また頼朝は涙を流し、義経や周囲にいる実平たち御家人も涙で袖を濡らしたのだった。
兄のために犠牲もいとわず馳せ参じる弟という、血を分けた者への愛の美しさを表す物語の主役となった義光。しかし、南北朝時代から室町時代に成立した系図『尊卑分脈』には、恐ろしい記述が遺されている。
猜甥源判官義忠嫡家
相承天下栄名、相語郎従
鹿嶋冠者令討義忠畢
彼鹿嶋三郎遂本意
其夜馳向三井寺告其
子細之処、義光相副書状、以鹿嶋三郎忩遣舎
弟僧宿坊、而彼僧兼崛〈ママ〉
設深土穴、即捕彼鹿嶋
丸堕穴、埋殺之了
『尊卑分脈』の記述が全て真実ではないものの、義光に関して何らかの話が伝わったことは確かである。彼が兄を思う聖人君子のような姿とはかけ離れ、ある意味で人の業を背負い、それと戦い続けた一生であったことを、黄瀬川に集まったどれだけの人が知っていたのであろうか。
1 大治2年 10月20日-近江国の園城寺にて
近江国(今の滋賀県)にある大きな寺に園城寺という寺があった。三井寺という呼び名で知られる。その寺の僧房に年老いたひとりの入道がいた。念仏三昧にあけくれる入道は念光と言い、俗名は源義光、かの有名な武将である八幡太郎義家の弟であった。一説によると義光は、若いときから毎日10000回も念仏を唱え、法華経を2000部も読んだとされるほどであったという。
墨染めの衣に袖をとおし、念仏を通じて仏に向き合っていると、義光はふと思い出すことがある。今は亡き両親や兄たちと共に過ごした日々と2つの言葉である。
「三郎、欲しかったものは手に入ったか」
「柿の実は甘かったか」
それぞれ彼岸と此岸にいる兄たちの声が聞こえたようで、義光は思わず数珠をつまぐる手をとめて、昔のことに、ひとり思いを馳せるのであった。
2 柿の実問答
その日、幼い三郎(義光)は、六条にあった屋敷の庭で遊んでいた。庭には珍しい木や草花がないかわりに、人が登れるくらいに太い幹を持った柿の木が生えており、実がひとつなっていた。
(あっ柿の実!)
背丈よりはるかに大きな木になっている柿の実をめざとく見つけた三郎は、兄たちを呼びにいくために駆けだした。大童に結った髪の毛が風に揺れていた。
「兄上、柿がなっています。取ってくだされ!」
三郎の無邪気な言葉に、義家は、既に元服して大人の仲間入りをしたものの幼さの残る顔に困惑した表情を浮かべた。一緒に来た次郎(義綱)も、眉間に皺をよせて何も発しなかった。
「実がずいぶん高いところにあるな。我らでは無理だ」
義家は腕組みをして、柿の木を見上げた。
「後で誰かに取ってもらおう」
次郎は幼いながらも兄らしく三郎の肩を抱いて諭した。
「嫌じゃ。柿を取ってくだされ!」
三郎は末っ子の特権か、兄に比べて我慢を強いられることは少なかったので、このときも「どうしても柿が欲しい」と義家の着物の袖を引っ張った。
「あまり甘やかしては三郎のためにならぬ」
つねづね、両親から言われていたものの、義家は6歳下の弟に白旗をあげざるをえなかった。「自分が取りに行く」という次郎に木を支えさせて、彼は木に登った。よく熟れているように見える橙色の実をとってきて、三郎の紅葉のような手のひらにのせた。
「取ってきたぞ。三郎、欲しかったものは手に入ったか」
三郎はぱあっと表情をほころばせて、柿の実を両手で大切に持ってがぶりと噛んだ。しかし、義家がせっかく取ってきた柿の実は、橙色の見た目と異なりまずいものであった。
(これは欲しかったものと違う)
「三郎、柿の実は甘かったか」
次郎は黙ったままの三郎の顔を横からのぞき込んだが、三郎は残りの柿を持ったまま、大声でわあわあと泣いた。義家と次郎は突然泣き出した三郎に困惑した。
(いったい、何が良くなかったのだろう)
2人がおろおろしていたところに、大きな足音が聞こえた。
父の頼義であった。頼義にとって、3人の息子たちは50歳を超えてから生まれたこともあり、息子というよりも孫のような感覚であった。彼は三郎を上手にあやして膝に抱き上げ、義家から事の子細を聞くと三郎に語りかけた。
「三郎、柿の実には渋いものと甘いものがあるのだ。見た目は橙色で甘そうに見えるものもあるが、食うてみると渋いものもある。そなたが食うたものは渋柿であったのだ。必ずしも、自らが欲するものを手に入れられるわけではないのだよ」
「父上、また柿はなるでしょうか?」
義家の問いに頼義は静かにこう言った。
「葉が茂っておるからなるかもしれぬが、どうだろうな。木のことはわからぬ。人の心もまたしかりだ。」
三郎は父の膝に乗ったまま、手の中にある残りの柿の実を見つめたままだった。
3 決断
成長した三郎は、近江国園城寺にある新羅明神で元服し、「義光」の名を得た。以後、元服した場所にちなんで、彼は新羅三郎ともよばれるようになる。義光は弓馬の道を究めつつ、豊原時元から笙を習い、その腕前は奥義を許されるほどであった。
年月が過ぎ、永保3(1083)年の秋を迎え、兄の義家が陸奥守として東国に赴いていった。やがて義光は、義家が蝦夷と呼ばれた現地の人々との間で戦をすることになったとの情報を耳にする。成長後は不仲となった、次兄の次郎こと義綱と異なり、この時点で義光と義家の間にこれといったもめ事は起きていなかった。しかし、比較的平穏な日々をおくりつつも、小さな事件が起こるごとに武名をあげていく義家や、兄の不在に好機を得て勢力を拡大する義綱に義光はうらやましさをおぼえることもあった。
(棟梁でも後継者でもない自分が、兄上に比べて官位も低いことは仕方がないとしても、もう少し日なたに出られる場があったら・・・・・・)
義光は表立って不満をもらすことはなかったが、自身が活躍できる場所として、都に見切りをつけて東国で力を拡げることも視野に入れるようになった。
義家が都を出てから3年の月日が流れた。
義光の耳に「義家が苦戦している」との報が入ってきた。兄がいる陸奥国は、かつて、彼が父とともに前九年合戦で活躍した地でもあるが、義光は何となく胸騒ぎをおぼえた。
(あの兄上が大変な目に遭われているが、自分は左兵衛尉として朝廷にお仕えする身。容易に都を離れられまい。だが、ここで武功をあげて恩賞をいただくことができれば、また状況がかわってくるかもしれない)
義光は純粋に兄の身を案じるという思いに、普段から根底にもっている思いが合わさっていくのを感じた。朝廷は義家の苦戦を知り、義綱を義家の救援に行かせようとしていたが、審議のみで実行には至らなかった。義光は、とうとう最高権力者である白河上皇に奏上することにした。
「兄の義家が蝦夷に攻められて、危険な目に遭っております。休暇をいただいて東国へ下り、兄の死生を見届けたいと思います。なにとぞお許しくださいませ」
白河上皇は義光の訴えを却下したが、彼は諦めなかった。考えた末、義光は東国へ向かって馬を走らせたのである。当然、左兵衛尉の職は停任となった。
4 これがぼくの生きる道?
(あの男は誰であろう?)
都を出て近江国の鏡宿に入った義光は、縹の単狩衣を着て青色の袴をはき、烏帽子を深くかぶった男が、馬に乗って必死の形相で追いかけてくる姿に気がついた。不審に思って尋ねると、義光に笙を教えた時元の息子時秋であると言う。追いかけてきた理由を言わない時秋に、義光は都へ帰るように説得するが彼は聞き入れず、とうとう相模国の足柄山まで来てしまった。
「時秋殿、私は命を失う覚悟でここまで来ております。あなたも深い考えがあるのでしょうが、今すぐ都に引き返しなさい」
「お言葉ですが私は帰りませぬ」
戦装束に身を包んだ義光は、砂埃にまみれた狩衣を着た時秋を諭したが、時秋は一向に首を縦にふらなかった。その姿に、自分が弓馬の道を究めるように、時秋も楽の道に命をかけているのだと思うと他人事とは思えなかった。義光は時秋と向かい合わせに座り、靫から文書を取り出した。
「時秋殿の父君時元殿がお書きになった『太食調入調』という秘伝の曲の譜面です。私は時元殿の弟子で奥義を許されました。父君がお亡くなりになったとき、あなたはまだ幼い童であったので、生前にお伝えされなかったのです」
時秋から笙を借りた義光は目の前に譜面を広げ、この秘曲を吹いた。荘厳な音色が奥深い山に響き渡り、大きな松の後ろには十五夜の月が顔を出していた。
「百にひとつ、私が無事であるならば、また都でお会い致しましょう」
義光は都へ帰る時秋を見送り、再び東国へ向かって馬を走らせた。
*
「申し上げます。ただいま、都より左兵衛尉殿がいらっしゃいました」
沼柵を捨てて新たに陣を敷いた義家は、取り次ぎに出た郎等の言葉に目を丸くした。兜を郎等に持たせ、目の前に座った義光は驚きの表情を隠せない兄にこれまでの経緯を話し始めた。
「わずかに兄上の戦の様子についてお聞きしましたので、上皇さまに休暇をとることを願い出ました。『兄の義家が、東国の未開の地にいる人たちに攻められて、危険な目に遭っております。休暇をいただいて東国へ下り、兄の死生を見届けたいと思います』と申し上げたのですが、休暇をいただけなかったので、兵衛尉を辞任して、こちらに下ってきたのでございます」
義家は籠手をつけたままの手で流れる涙をおさえた。
「今日、そなたが来てくれたことは、亡き父上が生き返ってらっしゃったと思われるように嬉しい。副将軍になってくれるのであれば、清原武衡と家衡の首を得ることは確実なものだ」
そう言いながら義家は「遠くから疲れたであろう」と義光をねぎらい、彼のために食事を用意させた。久しぶりに見た兄の嬉しそうな顔に義光は少しだけ心が痛んだ。目の前にある高く盛った飯は、いつも以上に味気なく感じた。
*
義光が思っていた以上にこの戦はすさまじいものであった。義家と共闘する、現地の豪族吉彦秀武が提案した兵糧攻めにより、清原武衡の館は食料が底をつき、中にいる人々はみな嘆き悲しんだ。武衡は義光につき従って降伏することを願い、その旨が郎等を通じて伝えられた。義光は義家に話したものの、兄はけして許さなかった。しかし、狡猾な武衡は、さらに丁寧な言葉を用いて義光を館に招いた。何とか手柄をあげたいという気持ちでいっぱいの義光は、彼の誘いに行く気満々でいた。
「我が君、恐れ多いですが城の中へ来て下さい」
義家は郎等の言葉に耳を疑った。義光が武衡のところへ行くという。すぐさま義光は兄の前に座らされた。
「三郎、わかるか。昔から今に至るまで、大将や次将が敵に呼ばれて陣へ行く事はまだ聞いたことがない。そなたが、もし武衡と家衡に丸め込まれたならば後悔しても後悔しきれない。想像がつかないくらい長い間、我らは人々から非難や嘲りを受けることになるのだぞ」
義光は兄の言葉にぐうの音も出なかった。そんなおり、武衡からもう一度使いがきた。
「あなた様がお越しくださることがないのでしたら、適当なお使いをひとりおよこしください。その方に私が思うことを念には念を入れて説明しましょう」
兄に強く反対された今となっては、郎等の誰かに行ってもらうしかない。
(誰が行くのがよいだろう)
決めあぐねた義光が郎等たちに意見を聞くと、
「藤原季方殿が出向くのがよい」
との答えが返ってきた。義家がこの戦で定めた、兵の成果表とも言える「剛臆の座」で、いつも「剛の座」に座っていた季方は、義光の代わりに武衡の館に乗り込んだ。季方は赤色の狩襖に、無紋の袴を身につけ、太刀だけを腰につけて、敵の館の前に立っていた。館の戸が初めて開いて、かろうじて季方ひとりが入ると、中にいる兵士が垣のように立ち並んでいるのが目に入った。季方は義光のためであると自らに言い聞かせながら、弓矢などが林のようにたくさんある中を進み、武衡と面会することになった。
「『それでもやはり無理を承知でお助けください』と、兵衛殿に申し上げてほしい」
命が助かるためには、矜持も塵同然の武衡は、金をたくさん取り出して季方に握らせたのだった。
*
そのような武衡であったが、ついに処刑の場に引き出されることになった。最期のときに武衡は義光に目を見あわせた。
「兵衛殿、お助けください!」
義光は武衡の姿に思うところがあったので、義家に自分の考えを述べた。
「兄上、武士が守るべき道において、降伏した人を寛大に扱うことは、昔から今に至るまで例があります。武衡だけ、無理にでも頸を斬ろうとするのは、どのようなお考えなのですか?」
義家はあきれた顔をしてため息をつきながら、義光に向かって「爪はじき」をした。人差し指や中指を親指の腹にかけて弾くという非難を表すしぐさである。
「義光」
「はっ」
通常は自分を「三郎」と呼ぶ兄が諱を呼ぶことに違和感を感じつつ、義光は姿勢を正して兄の顔を見つめた。
「降伏したという者は、戦場から遠ざかって人に殺されず、後に過ちを後悔して、頸をのばしてやってくる人のことである。いわゆる安倍宗任などのことだ。武衡は、戦場で生け捕りにされて、無礼にもわずかの間に命を惜しんだ。彼は降伏した者にふさわしくない。そなたは降伏した者に対する礼儀作法を知らぬ。とても未熟だ」
武衡は斬られ、彼と共闘した清原家衡も殺され、義家側の勝利でこの戦は幕を閉じた。しかし、この戦は朝廷から私戦とみなされ、義光がひそかに期待した恩賞も出ることはなく、彼自身も主立った活躍をすることはできなかった。
*
東国から帰ってきた義光は都で鬱屈とした日々をおくっていたものの、白河上皇にお仕えする藤原顕季が、陸奥国に菊田荘という荘園を持っていると知り、これを押領した。義光の性質を知って顕季の身を案じた上皇の判断で、彼は所領を手にしたが、義光は兄や甥と自分を引き比べてはあせるばかりであった。
5 あの甥を討て!
還暦もそう遠くない頃、義光は念願の受領になった。常陸介という立場である。この国は親王任国といって親王が国司となるものの、任地には赴任しないことから、実質上、常陸国で最上位の立場である。義光は地盤を固めるために大掾氏の娘と長男義業を結婚させた。大掾氏は常陸平氏の本流で、平将門の従兄弟平貞盛の子孫である。
やがて常陸国で勢力をのばす中、義光は義業らともに、甥の義国と争うことになった。父の義家には彼の捕縛命令が下り、東国の国司には義光と義業の召進の命が下った。
(血を分けた我が子を何度もこの手で捕らえることになろうとは。しかも相手は三郎と言うではないか)
今や病の床についた義家は、渦中の義国・源家の問題児である義親という息子たちと弟の顔を思い浮かべては頭を抱えるばかりであった。義家は息子義親の息子で孫の為義を引き取って面倒をみつつ、自身の後継者には義国の弟である義忠を考えていた。
義業を常陸国に残して都へ帰った義光は、60歳を超えて従五位上になり、任国がないことからゆかりのある園城寺に住むようになった。彼は息子のひとりを出家させて覚義とし、園城寺の北院に金光院を創建、丈六阿弥陀仏を安置した。かなりの間、義光は園城寺でくらした後、今度は甲斐守に任命されて任国に乗り込んだ。義光は常陸国でつかんだ方法を生かし、多数の私領を確保してそれらを荘園化していった。今や彼は東国に広大な所領をもっていた。
(だがな、欲しいものはこれではないのだ)
義光は郎等から所領に関する報告を聞きながら、屋敷の庭に生えている柿の木を眺め、たわわになる柿の実に向かって右手を伸ばした。
義家の死後、正式に棟梁となったのは義忠だった。彼は妻に平正盛の娘を迎え、妻の兄弟である忠盛の烏帽子親をつとめたりと、伊勢平氏との和合を考えて行動するばかりではなく、院政に参画して摂関家との関係も良好に保つという平衡感覚に長けた人物であった。
(どんなに所領を手に入れても、源家という枠の中では、所詮、わしは甥の下。小童に頭を下げるなんぞ、もうまっぴらだ。しかも義忠は、若いが非の打ち所がないと聞く。いつになったら、わしが本当に欲しいものは手に入るのか。まったくもって面白くない)
義光はおさえていたはずの野望がふつふつとわきあがってくるのを感じていた。そして、我慢ができなくなった彼は、とうとう人間としての一線を越えてしまったのだ。
「三郎、そなたに頼みがある。郎等として義忠のもとへ行ってはくれぬか」
鹿島三郎こと平成幹は、義光の発言に驚きを隠せなかった。
「某を郎等とは。なぜでございますか?」
義光は、義業の妻の兄弟でもある成幹を近くに呼び寄せて、耳打ちをした。成幹は一瞬ひるんだものの、義光の指示通りに動いた。
「季方、『剛の者』のそなたを見込んで頼みがある。そなたが傅として仕えている義明が、たいそう素晴らしい刀を持っておるそうな。それをわしの所に持ってきてはくれぬか」
義光は成幹に続いて、後三年合戦で活躍した、あの季方に義明の刀を盗むように言った。季方は言われたとおりに刀を盗み、義光はそれを成幹に渡した。そして世にも恐ろしい事件が起こった。
*
天仁2(1109)年2月3日の夜のことであった。義忠は背後から何者かに斬りつけられ、応戦したものの出血多量で5日に亡くなった。現場には源義明の刀が残されていた。
(何とか殿にお伝えせねば!)
自身も傷を負いながら成幹は、園城寺への道を急いだ。しかし、口がかたい成幹にはそぐわず、ある者に事の真相をもらした。
「ごくろうだった。三郎。これはわしからの礼だ。この寺の房で傷が癒えるまで休むとよい。西蓮房にいる阿闍梨の快誉にこの手紙を渡せ。わしがそなたのことを頼んでおいた。」
義光は、ところどころ破れた着物をまとった成幹を気味が悪いくらいにねぎらいつつ、手紙を握らせた。成幹は義光の意図を知るよしもなく、快誉にそれを渡した。快誉は中身を見て、一瞬血の気がひいたものの、園城寺に援助をする義光の頼みを断りきれず、仕える僧に頼んで宿房の裏庭に深い穴を掘らせたのである。阿闍梨であると言っても、ひとつの大きな寺で生きる身として背に腹はかえられなかった。手紙の細かい内容は不明であるが、やってきた成幹を殺すようにと書かれていたらしい。
「三郎殿と申されるか。さぞお疲れであろう。こちらでゆるりとなされるがよい。」
成幹は快誉の接待を受けた後、穴に落とされた。生き埋めにされたのである。快誉のまとう墨染めの衣が、血染めにかわった瞬間であった。しかし、「天網恢々、《てんもうかいかい》疎にして漏らさず」で、成幹がある者に話していたことが巡り巡って人々の耳に入ることになる。
6 血は水よりも“薄き”もの
義忠を殺害した犯人は美濃源氏の源重実とされ、検非違使によって逮捕されたものの、現場には義明の刀が落ちていたことから、重実は無実であることが判明した。今度は義明と義綱に疑いが向けられた。義光は心の中でほくそ笑みながら、兄の孫にあたる為義を訪ねた。為義は叔父で父代わりの義忠と関係が深かった。
「頼みであった棟梁殿を亡くされ、さぞ心細いことであろう。それにしても、美濃三郎殿(義明)の刀があったとは。三郎殿も従兄弟を手にかけるとは血も涙もない男じゃなぁ。」
為義は突然やってきた大叔父を特に警戒しなかった。義光はそのような為義にひたすら哀れむ言葉をかけ、さりげなく義明が義忠を殺害した犯人であるとすりこませた。
一方、藤原摂関家の勢力が強大になることに、院政を敷いていた白河法皇は面白くないと思っていた。摂関家の勢力を削ぐにはどうしたらよいだろうかと考えた法皇は、義忠との関係もさることながら、まだ10代の為義に義明を討てという命を出した。義忠の嫡男である経国が幼すぎたことも一因であった。為義が義綱ら一族を討伐すれば、当然、その主君である摂関家にも衝撃がもたらされるからである。為義は法皇の命令とはいえ一瞬ひるんだが、義光は「棟梁殿の仇をとれるのは御身だけ」と吹き込み、彼をその気にさせることに成功した。
*
70歳近くになっていた義綱は、息子に嫌疑がかけられたと知ってひどく狼狽した。義綱は義明に事を問いただしたが、彼は身に覚えがないという。
「確かに私の刀でございますが、棟梁殿を殺めてはおりませぬ。それより父上は一刻も早くお逃げくださいませ」
「そなたが逃げないでどうする」
「私は体の具合がよろしくないので、季方の屋敷に移ることに致します」
それが父と子の別れであった。
義明はやってきた検非違使の源重時の大軍により、自害に追い込まれた。重時は最初に犯人とされた重実の弟である。義光を始めとする、源家に尽くした季方も運命を共にした。義綱は抗議の意味もこめて、残りの4人の息子たちと共に都を出奔した。
*
義光のいる近江国へやってきた義綱は、途中、甲賀郡にある大岡寺で出家し、息子たちとともに甲賀山に立て籠もった。彼は近江国と聞いて、兄ほど険悪ではない仲の弟義光のことが頭に浮かんだが、すぐに頼ろうという思いを打ち消した。
(いくら都から近いとはいえ、このわしがいる所に来るとは。兄上もうつけでございますなぁ)
義光は自らやってきた兄を内心馬鹿にしながらも、このことを朝廷側に事実を偽って伝えさせ、そのことを受けたであろう為義が甲賀山へ討伐にやってきた。この近くまで来て火を放ったのであろう、義綱たちのいる所まで何となく焦げ臭い匂いが漂ってきた。
「もう降参しようと思うのだ」
ここに来るまでの間、各所で敗退したこともあり、義綱は息子たちにこう勧めた。
「父上、それでは罪のない三郎が浮かばれませぬ。我らは十分に戦ったのです。ここは潔く果てることに致しましょう」
長男の義弘は思わず父の前に進み出た。他の息子たちもうなずいている。しかし、義綱は黙ったままであった。その様子を見て、義弘は父と弟に向かって頭を下げ、近くにあった高い木に登った。
「おさらばでございます」
戦装束に身を包んだまま、義弘は谷底へ身をおどらせた。続いて、次男の義俊も兄の後を追った。四男の義仲は為義方が放った火に飛びこみ、五男の義範は切腹した。六男の義公は義綱の側に付き添っていたものの、結局自害してしまった。
(わしは武に生きる者として、戦場をわたってはきたものの、我が子にこのような形で先立たれるというこれほどの地獄絵図はあろうか)
墨染の衣をまとった義綱は、両手で顔を覆い、むせびなくばかりであった。武人の彼にも耐えがたいものであった。その後、ひとり残された義綱は降伏して佐渡へ配流されたものの、彼に安住の地はなく、約20年後の天承2(1132)年に、再び為義の追討を受けて非業の死を遂げることになる。
義光は義綱が佐渡へ流されたと知ると小躍りして喜んだ。義忠が亡くなり、義綱一族がほぼ全滅になって一番得をするのは義光であると思った人がいたのか、はたまた、成幹から一連の事件を聞いた者が伝えたのか、義光がこれらの事件の黒幕であるということに薄々気づく人もいたようであった。彼を捕らえようとする者は誰ひとりいなかったものの、事態は義光の思い通りにはいかなかった。
実際のところ、白河法皇が1枚かんでいたかは不明であるが、この事件以降、義光を含む河内源氏の勢力と、彼らが代々仕えてきた摂関家の力が急落し、時代は院政一色に向かっていく。そればかりではない。義光が両手どころか全身を血に染めても欲しがった、「河内源氏の棟梁の座」に就いたのは、自称であったとも言われるもののあの為義であったのだ・・・・・・。
義光は為義が棟梁の座に就いたという知らせを聞き、思わず皺だらけの手のひらを見つめた。
(1番欲しいものを手に入れるために、血を分けた兄を苦しめた。もう1人の兄も生き地獄に落とし、僧の異母兄にまで人殺しの片棒を担がせた。甥を殺し、別の甥には身内を殺させた。それでも1番欲しいものは手に入らなかった。わしは一体何をやっていたのだ)
もはや何を思おうが、何をしようがどうしようもないことはよくわかっていた。義光は改めて自ら犯した罪と業の深さを嫌というほど痛感した。やがて彼は出家して、ゆかりある園城寺に移り住んだ。
終 再び大治2年 10月20日 園城寺にて
(あの入道が父上を殺めたのか・・・・・・)
父の義忠を失った後、母の実家である平氏の館で育った源経国は、この日、園城寺のとある僧房の前に立っていた。中ではたいそう年老いた入道がひとり念仏を唱えていた。墨染めの衣の上からでもわかるくらいに腰は曲がり、体は枯れ木のように痩せ衰えつつも、その声は不気味なほどにしっかりとしていた。経国はそっと僧房の扉を開け、腰にさした刀を鞘から抜いた。
(入道は弓馬の名手と言われた人だ。老いても勘は鈍らないはず)
経国は抜き身の刀を手にして近づいた。しかし、それでも入道は振り返りもせず、念仏を唱え続けていた。経国は手にした刀をそのままに佇むばかりであった。
義光は誰かが自分のもとへ来たことがわかっていた。刀を鞘から抜くわずかな音も、武人の彼は聞き漏らさなかった。いつかこのような日が来るのではないかと、心のどこかで思っていた。
「三郎、欲しかったものは手に入ったか」
兄の声が聞こえる。
「三郎、柿の実は甘かったか」
もうひとりの兄の声が聞こえる。
「1番欲しかったものは手に入りませんでした。私が手にした柿の実は、見かけはよくともたいそう渋いものでございましたよ」
義光は静かに目を閉じた。
念仏の声は聞こえなくなった。
経国は刀を鞘におさめ、静かに僧房を出ていった。
大治2(1127)年10月20日、義光は園城寺で83年の生涯を終えた。
その死は病死とも暗殺とも言われている。
才に恵まれながらも、1番欲しかったものは手に入らず、彼にとっては渋柿を食らい続けた一生であった。そして皮肉にも、清和源氏の中で末永く発展したのは、義光の子孫であり、戦国時代にはかの有名な武田信玄を輩出している。(了)
河内源氏をテーマに何か小説を書くと聞いて頭に浮かんだのは、前から興味があった義光であった。頼朝や義経のように誰でも知っている人物ではなく、かといってスター枠やアイドル枠とも言えない。表だって華々しく活躍することは少ないものの、重要なところには関わっており、時にはキーパーソンになっているという、色々な意味で目が離せない人物であると思う。
そして、武田信玄のようなとても有名な子孫を輩出している系統なのに、義光自身の史料は少ないということが残念である。
今回の小説は、少ない史料の間を埋めて、義光の一生をカバーしたいと意気込んで書いた。しかし、「放置すると全て萌え語りになる」ということを意識しすぎたので、かなり堅い内容になってしまった。しかも、バラエティパック並みに内容を詰め込みすぎ。もう少しシンプルで、ぶっとんでいてもよかったのではないかと思っている。