田舎のバス。隣にはおっさん
例年より早い梅雨入りのせいで、ここ数日は雨が続いている。湿気が体にまとわりつくような夜。スランプに悩む物書きにとって、エアコンのないこの部屋はストレス以外の何ものでもない。
俺は、苛立ちの熱量とスランプの打開策への僅かな希望を糧に部屋を飛び出した。バイクのキーを捻ると、それは情けなく甲高い声をあげる。買ってからどれ程たったろう。一人暮らしを始めた頃からの相棒だ。
深夜に近い時刻だが街は活発だ。暴言や殴り合いの喧嘩、電柱にゲロを吐くサラリーマンに、お持ち帰りされなかったらしき酔いつぶれた若い女。相変わらず下らない道を風を切って走る。こうやってバイクを走らせて精神を飛ばしている時だけが、俺が俺であることを感じさせる。いつもより五月蝿いバイク。共に走り続けてきた最高の相棒。
その相棒が、突然裏切った。
大音量で何かが弾けた。急に視界が縦に回ると、そのまま地面に叩きつけられた。前輪がパンクしたのだ。それを理解した時には、気を失うには十分な血が流れてしまっていた。
目が覚めると白い天井を眺めていた。俺の部屋は木造二階建ての二階のはずだ。こんな白い天井は見たことがない。両足の鈍い痛みと全身の気だるさから、ここが何処なのかはすぐに察した。俺はどうやら病院に担ぎ込まれたらしい。
両足と右腕の骨折だと医者が言った。それを仰向けのまま聞いていた俺は(利き手だなんてついてないな)なんてのんきに考えていた。ちなみに長年連れ添った自慢の相棒はただの鉄屑になったらしい。残念だが仕方がない。
病院での生活は苦痛ではなかった。そもそも引きこもりっぱなしだった俺は、それが寝っぱなしになったところで対して生活環境は変わらない。むしろ飯が自動的に出てくるだけプラスかもしれない。
しかし問題も勿論ある。とにかく暇だ。利き手が使えないうえに、それ以外もろくすっぽ動かせないのだから、漫画を読むにもゲームをするのにもことさら不便なのだ。もともと無精な俺は、それらにも二週間もすれば飽きてしまった。今ではただ何もない日々を過ごしている。
そう、何もない日々のはずだった。
ガタリと音がする度に体が縦に小さく揺れる。窓から差し込む夕日に思わず目を細めた。遠くに見える山がゆっくり動き、数秒の間に何本もの木々が走り過ぎる。懐かしい臭いがする。そうだ、これはバスの臭いだ。ガタリゴトリと、何処かわからない田舎道を進んでいる。
がらがらのバスの一番後ろの席。おかしい、俺は入院していたはずだ。足の骨も治っていないのだから、自力でバスに乗りようがない。ゆっくり車内を見渡すが、車体の前方には運転手以外に人影はない。そう前方には。
「お兄さん、君はどこからきたんだい?」
広いバスの車内であるにもかかわらず、俺のすぐ隣におっさんが座っている。密着しているわけではなく一人分くらいの間は空いているのだが、なんとも居心地の悪いことだ。
「こんなことを言うと変な人間だと思われるかもしれないが、私は自分が何故ここにいるかわからないんだよ」
戸惑っている俺を去り目に、おっさんは語りかけてくる。いや、これは夢だろう。不気味な夢だ。適当に話を合わせておけば直に目が覚めるだろう。
「なんでしょうね、俺も良くわからないんです」
「そうかい……君は足が悪いのかい? あと右手もおかしくしているようだね」
「なんで、なんでそれを」
自分の夢とはいえ、見知らぬおっさんに現実世界の事を持ち出されるのは気持ちが悪い。
「なぜって、ほら君の足が透けている。右手の方はほとんど見えない」
言われてはっとした。両足が色付のガラス細工のように透過している。左右で若干透過具合は違うが、その向こう側が見える点では変わらない。右手はに至っては輪郭すらはっきりしていない状態だ。
あれか、俺は死んだのか。幽霊だから足が無いのか。しかし隣のおっさんはどこも透けている様子はない。死神にては柔和すぎるし、これが迎えにきた天使なのだとしたら人生最後にしては世知辛い。
「おっさん、俺は死んだのかね」
相棒と一緒に俺もスクラップになったということか。しかし、おっさんは首を横に振った。
「いや、君も私も生きているよ。おそらく君も入院しているんじゃないかな?」
「確かに俺はバイクで事故って入院してるが……」
「私も入院して長い。今までも同じような夢を見てきたんだ。みんな途中のバス停で降りていくんだけどね」
「あんたは降りないのか?」
「どうだろう。こうやって揺られるのも心地が良くてね」
夕日に照らされるおっさんの顔は笑ってるようで、どこか切ないものだった。その時不意にバスが停止した。バス停だろうか。
「ああ、今日はここまでのようだね。機会があればまた会おう。いや、そのまま退院した方がいいのかな?」
おっさんはそんな冗談か分からない冗談を言うと、今度は楽しそうに笑った。
それからは数日に一度のペースでこのバスの夢を見るようになった。時折他の乗客がいるときもあるが、おっさんの言うとおりいつの間にか降車していく。
俺は足が万全でないためにまだ降りられないようだ。現実世界でも車椅子を押されながらでしか外出できないのだから仕方がない。しかしこんな短期間に何度も会うと、それが夢の中だといっても親しくなる。おっさんが少し痩せた事に気が付く程度には、この夢の中のやりとりが当たり前になってきているのだ。
「私はね、パイロットをしていたんだ。ジャンボジェットさ。お客様を何百人と乗せて日本中を飛び回った。ああ、懐かしい」
おっさんは誇らしそうに、少しだけ恥ずかしそうに頬をかいた。
「それじゃあ、早く体を治さないといけないな。待ってる人がいるんだろ?」
「それは君も同じじゃないか」
「いや、俺は……」
思わずいいよどむ。
「俺には、俺を大切に思ってる人間なんていないよ。まともに選考にかからないような、ただの売れない小説書きだからな」
「それは……家族とか……いや、すまない。軽はずみな発言だった」
「構わないさ、本当のことだ」
「何か、退院したら何かやりたい事があるんじゃないか? 気持ちが沈んでいては怪我の治りだって悪くなるだろう」
「やりたいこと、ね。まあ、心残りが一つあってな。書きかけの原稿があるんだけど、バイク事故のせいでこの通り利き腕が折れて続きが書けなくて困ってるんだ。選考会も近いからさ……っと、今日はここまでみたいだな」
バスがゆっくりと減速する。窓の外の夕日が沈んで一瞬真っ暗になる。それが目覚めの予兆だった。
なんとなくばつの悪いままおっさんと別れてしまった。俺より長く入院している相手に対して、少し拗ねた事を言ってしまったのだから次にあの夢を見たら謝ろう。
そう決めてリハビリに取り組んでいると、看護師が神妙な顔で俺を呼びにきた。呼ばれた先には俺の担当医。そっちもまた険しい顔をしている。
「いいですか、落ち着いて聞いてください」
そんな枕詞から始まった医者の言葉に、俺は滲む涙を我慢することしか出来なかった。
虚無感に包まれて数日、またバスの夢を見た。いつも通り隣にはおっさん。前回拗ねたことを謝らなければと思い口を開くが、なぜか言葉にならなかった。違う言葉が口をつく。
「俺さ、もう右腕動かないんだって。少し前に医者からはっきりと言われちゃってさ」
「……そうか」
「驚かないってことは、おっさんも気が付いていたんだな。このバスでも足は少しずつ濃くなってたのに、右腕だけが透明なままだったから俺も薄々そう思ってたけどさ……ひどいなぁ」
「私だって、このバスの事をなんでもしっているわけじゃないからね。適当な言葉で君に不安を与えたくはなかったんだ」
「わかってる。ごめん、おっさんにあたるってもの筋違いだ」
「いや、それくらい構わないよ。ここは多かれ少なかれ精神的に不安定な人間しかいないのだから」
「そりゃあ、みんな怪我か病気で入院してるんだからな」
おっさんの言う通り、今の俺は精神的に不安定なのは確かだ。アナログ原稿家の俺にとって、文字が書けなくなるダメージは何よりも大きかった。当たり前が当たり前でなくなるという衝撃が重くのしかかっていたのだ。
「顔が晴れないね。無理もないが……一つ、私の提案を聞いてくれないかな」
「提案? 聞くのは別にいいけどさ」
「そうか。では、私の右腕をもらってくれないだろうか」
「……すまない、冗談で笑う余裕はないんだが」
俺は声を少し荒げていたと思う。右腕が動かないという告白をした俺に対して、何を言っているのだろうか。からかっているのだとしたらたちが悪すぎる。こんな冗談をいう男だとは思っていなかった。しかし、おっさんは続ける。
「この病院の外科医は優秀だ。現代のブラックジャックだなんていうやつもいるくらいだからね」
「ブラックジャックって。そんな大層なあだ名は相手を馬鹿にしているだけだろう」
「それがそうでもない。彼でなければ、私は入院するまでもなく命をおとしていた。きっと助けてくれる」
その眼は真っ直ぐ俺を見ている。茶化すような雰囲気ではない。おっさんは確かに真剣なのだ。しかし、だからと言って何故おっさんが自らの右手を俺に差し出す必要があるというのだ。そんな俺の疑問を察したように、おっさんは続ける。
「私はこのバスでの出会いには意味があると思っている。強いつながりがあるのだと。それに、私は君が来るずっと前からこのバスの中から出たことがない。現実世界は一瞬で、ぼんやりしていて騒がしい情景が浮かぶだけなんだ」
「寝たきり……植物状態ってことか?」
「分からない。ただ自分が生きているということだけが分かっている。それでも、だんだん私はこの世界ですら痩せてきているんだ。きっと長くはないのだろう」
「だからって、腕なんてもらえない。俺は何も返せないよ」
「君のそのやさしい心だけで十分。それだけ貰えれば、私も生きてきた甲斐があるというものだよ」
そう微笑むおっさんの顔を、俺は何故か真っ直ぐ見ることが出来なかった。長い一人暮らしのせいか、そのおっさんの笑顔すら何か企んでいるようにしか思えない程に、俺は混乱していたのだと思う。
そうしているうちにまた車窓の夕日が沈む。俺はこの後目が覚めるが、おっさんは一人でずっと真っ暗なバスにいるのだろう。想像するだけで震えてしまう。それはとても寂しい事だ。俺じゃ正気でいられる自信なんてない。おっさんを助けることは出来ないだろうか。
その日、俺はナースステーションへ向かった。同じ病院にいるはずのおっさんについて確認するためだ。おっさんには何度か名前を尋ねたが、毎回はぐらかされてしまっていたために分からない。二人で話しているときはおっさんで十分だったせいで、特に気にしていなかったのだ。
「あら、どうしました?」
看護師が笑顔で応対してくれる。俺はおっさんとの会話を思い出しながら、その看護師に尋ねた
「なあ、この病院に飛行機の墜落事故で運ばれてきた患者はいないか?」
「……患者の方の個人情報は教えられません。いったいどのようなご関係ですか?」
「つまり、そういった患者がいるってことだな。なあ、その人に合わせてくれないか。俺はその人を助けたいんだ」
「申し訳ありませんが、規則ですので」
当たり前の事だ。これ以上この人に聞いたところで無駄だろう。まさか彼女を脅すという訳にもいかない。しかし、やはり俺の推理は当たった。おっさんは墜落事故で寝たきりの患者なのだ。だとすると現実世界で会うのが難しくなってしまった。どうやって話を聞き出そうかなんて次の作戦に悩んでいると、俺を呼ぶ声がした。白いひげを蓄えた老齢な医者がそこに立っていた。初めて見る医者だ。彼は自らを外科医だと名乗った。
外科医の話では、自分ならば俺の腕を治すことが出来るのだという。おっさんの言っていた通りだ。見た目はブラックジャックとは程遠いが、きっとこの外科医がおっさんのお墨付きのそれだろう。であるならば信じてみてもいいかもしれない。
それから手術までの間、なぜかバスの夢を見なくなった。手術は十時間を超えるものとなったが、今俺の右手は、ぎこちないながらも生身の腕が確かについている。リハビリも頑張ってどうにか文字もかけるようになった。
そして俺はリハビリがてら入院前に書いていた小説の続きを完成させ、賞に応募した。人生で初めて貰った佳作の通達が届いたのは、退院手続きを進めている最中の事だった。
結局あれからバスの夢は一度も見ていない。おっさんに御礼を言えていないのだ。もやもやした気持ちを持ちながらも月日は進み、ついに退院する日を迎えた。しかし、俺はやはりこの気持ちのつっかかりをどうしても取りたかった。あの外科医に無理を言って、何度も頼み倒して、この右腕の提供者に会わせてもらえることになった。
「君も大概しつこい人間だね。あの時の彼を思い出すよ」
呆れる様に外科医はそう吐き捨てた。
「彼、って誰のことだ」
「君のその腕の提供者だよ。隣の病連にいる、パイロットの精神病患者だ」
「……精神病患者? 意識のない植物状態なのだと思っていたんだが」
「君ねぇ、意識のない人間の腕をとって移植なんてできるはずがないじゃないか。バカも休み休み言いたまえ」
それもそうだ。当たり前だ。そんな俺を見てまた呆れた声で外科医はつづけた。
「墜落事故が原因でね。多くの客を死なせた自席の念からなのか、心を壊してしまったんだ。いつもは低く唸っているだけなんだが、君に話を持っていった日は珍しく意識がはっきりしていた。そして何度も君に腕を移植してくれと懇願してきたんだ。あんな彼は初めてみたよ」
「おっさん……」
やっぱりおっさんが約束を守ってくれた。自分の事も顧みず、あのバスで過ごしただけの俺のために何故それほどまでに自己を犠牲にしてくれたのだろうか。客を死なせたことでふさぎ込んでしまう程、きっとおっさんは優しすぎたのだろう。
ちゃんと有難うと伝えよう。おっさんのおかげで俺は初めて佳作を取れたのだと報告しよう。言葉が伝わるかはわからない。でも、きっと喜んでくれるはずだ。
「ほら、着いたぞ。いつもと変わらない。言葉かどうかわからんものを呻いているだけだ」
無骨な鉄格子の向こう。まるで刑務所かのようなその場所に、バスの時とはかけ離れたおっさんの姿があった。髪はボサボサで髭も長い。そして確かにその右腕は無くなっている。
「おっさん、俺だよ! 夢の中で一緒にバスに揺られた、売れない小説書きだよ!」
俺の声に、おっさんがピクリと動いた気がした。
「おっさんのおかげで、おっさんがくれた右腕のおかげで、初めて俺の小説が入賞したんだ。佳作をもらえたんだ。おっさんには感謝しきれないよ。きっと、きっとおっさんを助けるからさ。おっさん、返事をしてくれよ!」
自分でも気が付かないうちに俺の声は震えていた。泣きそうになるのをどうにか抑えて叫び続けた。すると、おっさんの顔がゆっくりと動き、その眼ははっきりと俺を捉えた。おっさんの口角がわずかに上がった気がする。
そして外科医が言っていたように低く唸ると、ぽつぽつと言葉を発し始めた。俺はそれを聞き逃すまいと必死に耳を傾ける。
「お、れい、なん、て、いい、んだよ。
こうし、て、キミは、ヤクソク、どおり、アいに、き、てくれ、た。
ウデ、は、いらな、い。ワタ、シ、が、テにい、れたか、ったもの。ウデの、かわりに、返して、貰いたい、もの
君の『心』だけで十分だよ。ありがとう。ゆっくりバスに揺られると良い」