【二章】十六話。子守唄の主
翌日も、そのまた翌日も……。五日経とうとも、アリマ皇女は目を覚ます事はなかった。
その間に、帝城では新たな軍務総監の就任式典が行われた。
タルタント大公軍務卿の誕生だ。
今頃、軍を轡並べして帝国軍の精強さでも誇っているところだろう。
中身がどれだけ腐った加虐趣味の変態でも、華美な軍装と勲章によって覆い隠されている。
ルーシーはアリマ皇女に付きっ切りの看病をしている為に、代理で屋敷一切の事を執り行っている。
「すぐ皇女殿下はお目覚めになられますよ。私達はただ、笑顔で気持ちよくご挨拶を出来るように頑張りましょう」
手を止めて、眼尻を下げて廊下で立ち話をする使用人に向かって、手を叩いて意識を変えさせる。
使用人が何を話していたかというと、アリマ皇女はもうお目覚めにならないのではないかといった。不安感を話し合っていたのだ。
主が眠ったままでも、やる事は減りはしない。使用人に目を配る事と、ここ数日で急に増えた面会の申し入れの拒絶を行うぐらいだ。
一度など、上級医師が訪れたが、一通り看てアリマ皇女の容態に匙を投げた。
当然のことだ。体は衰弱気味だが、悪い所などはないのだ。
精神的なものなのだから医師が見ても、手の出しようがない。
無理やり目覚めさせようと、気付け薬の匂いを嗅がせようとして、ルーシーと二人して叩き出したのはつい昨日だ。
私は暇を見ては薬を作り、深夜にはアリマ皇女の寝所に忍び込む。
香炉皿に調合した薬品を乗せて、灯りの燭台から火を借りる。
その香炉皿を寝所の扉の前に置き、近くの窓を開いて風で香を送った。
この香は精神を沈静化させて、深い眠りを誘発する。
沈夢香と呼ばれるものだ。
昔の貴族で愛用する者も多かったが、暗殺者がよく使う為にいつしか禁忌扱いとなって、この世から消えた調薬である。
寝所の室内に匂いが満ちたことを確認すると、眠気を防ぐ苦いだけの木切れを口に含み、侍女だけに与えられる合鍵を差し込んで押し開いた。
いつもと変わらぬ位置に、座って眠っているルーシーを確認すると、香を逃がすために窓を開けて換気してから、アリマ皇女のベッドの脇に座る。
初日見た時と違って、その寝顔には苦しそうな表情は浮かんでいない。
そっとベッドの隙間から、香の袋を取り出すと、新しく調合した香の袋と取り替えた。
この袋からは香の匂いは薄いが、沈夢香に似た効果がある。
こちらには催眠効果は薄く、精神の沈静化の効果だけが大きくなる。
一通りの作業を終えると、いつものようにベッド脇に座ったまま、そっとアリマ皇女に掛けられた毛布の上から、優しく撫でながら口ずさむ。
「草原を駈ける親子馬。果てしなく駆けてゆく。
地平線に夕日が沈む。その先に向かって。
空を飛ぶあの鷹達も向かうは、地の彼方。
眠る場所求め……」
「貴女だったのですね……」
後ろに殺気を感じて、ビクリと跳ねようとした身体を無理矢理に抑える。
首筋には冷たい感触が当たり、その冷たさと殺気に心肝を寒からしめる。
「動かぬように……。このナイフには毒が塗られています。少しの傷ですら死に至らしめるほどに」
言葉に嘘は感じない。何よりその殺気の凄まじさにピクリとも動くことが出来ない。
死を恐ろしいと思ったことはない。だが、死にたいと思っているわけでもないのだ。
「答えなさい。なんの為にこのような真似を?」
「私はただ、皇女殿下に安らいで頂きたいと……」
「あの歌はどこで知った? どこまで、何を知っている?」
無感情な言葉に思わず、生唾を飲む。
この侍女はやると言ったら殺る。そう思えるだけの深い殺意が言葉に含まれている。
「歌は皇女殿下の母上は南方の出だと聞いていたから……。知っているのは全て知っている……います。下衆の貴族のせいでこうなったことも……です」
「なぜ?」
「それは言えない。言っても信じてもらえない!」
私はここまでかと思い、首に押し当てられているナイフを持つルーシーの手を握ると、自分の首へと一気に突き入れる。
ルーシーは私の突然の行動に反応できずに、ナイフを持つ手を引っ込めて、死ぬ事を防ごうとするが私の方が早い。
そして冷たい感触だけが、首に強く押し当てられただけだった。
「ああ、もう。バレてしまいましたか」
「……えっ?」
私の背中から身を離したルーシーを、振り返り見てみると、その手にはスプーンが振られていた。
「えっ?」
「うふふ。貴女がアリマ皇女様に害意が無い事は最初からわかっていたことです」
「どう……して?」
「簡単なことです。この部屋のベッドチェックしてるのは私ですよ? 匂い袋に気付かぬ筈はないでしょう? それに貴女に害意があれば初日になにかすることもできた」
まあ、なぜ香薬の知識を持っているかはわかりませんがねと、初めて見る茶目っ気を含んだ笑みを私へと向けた。
「私からもいくつか質問があるのですが……」
「そうでしょうね。その前に先程の続きをお願いできますか?」
「えっ?」
「子守唄の続きです。久しぶりにきちんと聞いてみたくなったのですよ」
それだけいうと、ルーシーはさっさと自分が最初に居た椅子に座って、腕組みをすると嫋やかに微笑んで見せる。
私は腑に落ちない気持ちで、ベッドの脇に座り直すと、アリマ皇女の体をぽんぽんと撫で叩きながら、口を開いて旋律を紡ぐ。
「草原を駈ける親子馬。果てしなく駆けてゆく。
地平線に夕日が沈む。その先に向かって。
空を飛ぶあの鷹達も向かうは、地の彼方。
眠る場所求めて飛んでゆく。草原と空の交わる果てへ。
あなたは私の胸の中で眠りなさい。そして夢の中に。
寒い冬の風が来ても、私の腕の中で眠れ。
この広い草原の果て、空の果てよりも。
あなたの眠る場所は母の腕の中より良き場所は無い。星が見つめる中で眠りよお眠りよ愛しき子よ」
余韻を残しながら歌い終わると、部屋には暖炉の火が爆ぜる音だけが、暖かな音を部屋の中に転がる。
私はベッド脇から立ち上がると、暖炉脇に座るルーシーへと向き直った。
そこにはエプロンの端で、目元を拭うのが見えた。
「良い歌声でした。よく奥様もまだ生まれて間もないアリマ皇女様に、そうして歌って差し上げておりました」
「奥様もご存知なのですね」
「ええ、昔に紆余曲折ありましたが、奥様の側付きとなり、お仕えしていました」
ルーシーの過去を初めて聞いた私は驚いた。
確かに古株であろうと思っていたが、まさか先代様から付き添われていたとは思っても見なかった。
「沈夢香と白夜香ですね?」
ポツリとつぶやくように言ったルーシーの言葉に、私は心底驚いた。匂いだけで解るとは思ってもいなかったからだ。
扉の前に置いたのは嗅いだ者を深い眠りに誘う『沈夢香』
アリマ皇女の寝所に仕込んだ鎮静作用の強い香を『白夜香』と言う名前なのだ。
白夜香はマイナーだが現存している。
だが、沈夢香は暗殺者の中でも知っている者がほとんど居ないほど、知られていない香薬だ。
「貴女もそんな顔をするのですね。こまっしゃくれた娘だと思いましたが、そういう顔をすると年相応に見えます」
いたずらが成功したとばかりに声を出して笑い喜ぶその姿に、戸惑いが隠せない。
「よく、ご存知ですね」
「それは勿論、私は暗殺者でしたからね」
さっきからどれ程、この侍女殿は私を驚かせれば気が済むのだろう。
目を剥いて驚きを露わにする私に、おほほっと笑いながら、一人しか殺したことはないと言った。
一人でも殺したの所でとても寂しい笑みを浮かべて。
一瞬冗談かと思ったが、目を見て瞬時に悟った。
この人は本当の事しか話していない。だから、私にもどんな信じられないようなことでも話せと……胸襟を開けと言っているのだろう。
敵わないなと思う。千年を超える時を生きても、本気で生きた一人に敵いはしないのだとまざまざと見せつけられているようだ。
「私は転生を繰り返しています。それは何度も何度も、自我あるままに、記憶があるままに……百か二百か。もう忘れてしまう程ですが……」
アリマ皇女との温室の出会いから、シロクロの存在まで、そして自分がどれほど長く生きてきたかを語る。
本来ならば知られていけないことだ。だが、知って貰いたい。アリマ皇女に出会った事でそう思えるようになった。
異端だ。受け止められないかもしれない。これからも進んでは、人に話したりしないだろう。
しかし、話すことを、知られることも恐れるのは止めよう。
化け物と己を蔑むのは止めよう。
そうでないと、受け止めてくれた。友達と言ってくれたアリマに悪い気がするから。
「そうですか。大変な運命を生きてるのですね」
全てを話し終えた時に、ルーシーはそう言って返してきただけだった。
「え? それだけですか?」
「……? 他になんといえばいいと?」
「あ……いえ、なんというか、普通だったので、信じてもらえていないのかなっと……」
私の言葉にルーシーはポカンと口を開けると、不意に表情を崩して、口に手を当ててくすくすと童女の様に笑い始めた。
「ふふふふ、面白いこと言うのですね。真実を話しているのでしょうに。そうですね。普通の人の反応とは違ったかもしれませんね」
「そ、そこまで笑わなくとも……うぅ」
「ふふ、ごめんなさいね。あー、可笑しい。久しぶりです。これほど笑うのは……。そうですね。私は薬師で暗殺者ですから、それが物であれ人であれ。アリマの毒になるか薬になるかという基準しか持っていないせいかもしれません」
今度は私のこれまでを語りましょうと言って、ルーシーは壮絶な人生を語り始めて、冬の短い夜は更けてゆく。
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