エモシオンクルール
人の感情はカラフルで、キラキラと輝いている。
喜び
悲しみ
怒り
驚き
幸福
苦しみ
絶望
妬み
羞恥
…………
人間独特の……ほかの生き物にはない豊富な感情。
暖かな感情があり、冷たい感情がある。
幸福を抱いているのに、妬みを抱いたり。
苦しんでいるのに、喜びを感じたり。
ーあぁ、これだから人間は面白い
神々は人間を観察し、その様子を眺める。
自分たちにはない感情を持つ、自分たちよりも劣る生き物を。
そして、そんな人間を観察するために、神々は気まぐれに生物を作り、気まぐれに神の力を与えた。
人間たちはそんな存在に恐れ、または崇め、または興味を抱いた。
悪魔だ、神の使いだ、その力の秘密は、どういう構造になってるんだ……
ーあぁ、本当に人間とは面白い生き物だ!
神は歓喜する。
全くもって人間とは面白い。
神々は何百年も人間の観察をして、何百年も人の中に異形を紛れ込ませた。
神々はただ暇を潰すように、人間を弄んだ。
そんな残虐な神を、人間は崇める。
人間は神を疑わない。それこそ、欲望のためなら悪魔の力だって利用する生き物なのだ。
人間とは……愚かで欲深い生き物。
だけど、とある神は人間という生き物に美を感じた。
確かに愚かで欲深い生き物だ。だけど、色づく感情の色は美しいものだ。
醜い感情ですら、美しい色を出すそれに……ただ目を惹かれた。
喜びの【黄色】
悲しみの【水色】
怒りの【赤】
驚きの【オレンジ】
幸福の【ピンク】
苦しみの【緑】
絶望の【黒】
妬みの【青】
羞恥の【紫】
他の神々が面白がって人間を観察している中、その神はその美しさに目を輝かせていた。
その美しく色づく感情が欲しい。キラキラと輝くそれを、その神は欲しがった。
神が抱いてはいけない感情……【欲望】を抱いて……。
その神は、とある胎児に神の力を与えた。
その神は、胎児を生んだ母親に神のお告げをした。
ーその子に、私が名を与えましょう
「 」
*
【オラクル】
フランスの中では一番と言っていいほどの大きな街。
現在オラクルでは、多くの飾りで彩られ、オレンジ色の暖かな色が広がっている。
一ヶ月後に【ヴェイユ・ド・ラ・トゥサン】が開かれるため、街はそれに合わせて賑わっている。
ジャックオーランタンが飾られ、小さな子供たちが仮装をして、まだ一ヶ月も先だというのに、街の人々はその日を待ち遠しく感じていた。
「ありがとうございました」
街が一ヶ月後のお祭りを待ち遠しく思っている中、とあるお店は忙しそうに動いていた。
「はぁ……」
「おいおい、休んでる暇ないぞ」
出て行ったお客を見送り、体に溜め込んだ息を一気に吐き出しながら、青年は椅子に腰掛けた。だが、そんな一息さえ許されず、青年は勢い良く背中を叩かれた。あまりにも強く叩かれたため、そのまま前に倒れそうになってしまった。
ひりひりと痛む背中をさすりながら、青年は悪びれもない笑顔を浮かべる男を睨みつける。
「おら、教会の作業に行くぞ。支度しろ」
「わかってるって……たくっ……バカ力め……」
「んだよぉ〜、実の父親に向かって」
「いたたたたたたっ! やめろよクソ親父!」
親子のスキンシップにしては、あまりには雑で、ただ一方的に痛みを感じる行為。青年は首に巻かれた父の腕を振りほどき、よれた服を整えた。
店の戸締りを済ませ、店の前に置かれた荷車に担いでいた大きな袋を乗せて、そのままゴロゴロと引っ張っていく。
「よぉフォルス。教会の仕事か?」
「おう。ヴェイユまで一ヶ月しかないからな」
「できを期待してるぞ」
「任せとけ」
街の人たちからの声掛けに、父親は一人一人答えている。
青年はつくづく父親の街の人たちからの慕われっぷりに驚くばかりだ。
「なんだシャンス。そんな不機嫌そうな顔しやがって」
「別に。親父は街の人から慕われてるなぁーって」
「まぁ、ずっとこの街にいたしな。いやでも顔も知れ渡るさ」
「別に住んでるとか関係ないだろ。顔が知られてるのは、仕事あってのことだろ」
青年、シャンスの家は代々ヴィトライユ製作師をしている家だ。街で唯一の仕事で、親子三代でやってるということで、一度に多くの仕事は受けられないが、たくさんの人が彼らの技術を高く評価している。シャンスも幼い頃から父や祖父の仕事ぶりを目にして、憧れて、技術を磨いた。十五になった頃に、やっと仕事をさせてもらえるようになり、まだ半人前だと言われながらも必死に頑張っていた。
現在二人が向かっているの教会。そこで製作するヴィトライユが、今抱えている仕事で一番大きなものだった。
ヴェイユ当日に合わせて完成する予定のヴィトライユは大きなもの。お祭りの一番の見世物になるものだった。
「処刑のヴィトライユか……縁起悪いな」
シャンスは、手にしているデザインイラストに目を向けながらそう呟いた。
一人の魔女が処刑台に立っているデザインは、楽しいお祭りにはあまりにも不釣り合いなものだった。初めて目にした時に、なぜこのデザインにしたのか、シャンスは尋ねた。だが父はただ一言……
「依頼者の望みだ」
どこか重く、そう呟いていた。その時は特に気にしてはいなかったが、よくよく考えると、あの父、フォルスが真剣な表情でたった一言で言葉を紡いだということは、よほど重要な仕事なのだろうと思った。
「人間、いろいろな奴がいるからな。ほら、東洋の言葉にあるだろ。じゅうにんといろ」
「まぁ、教会がらみの仕事なら失敗できないし、俺も足引っ張らないように頑張るよ」
「そうそう、半人前なんだから、これを気に、頑張って一人前になれよ」
「うるせぇーよ! たくっ……いつまでも、人を子供扱いするなよな!」
「お母さん早く早く!」
「こらこら、そんなに引っ張らないで」
横を通り過ぎていく親子の姿。その二人の姿を、シャンスは無意識に目で追い、足を止めて後ろ姿を見つめた。
「ん?おいシャンス、早く行くぞ」
「あ、あぁ……」
シャンスは再びその親子の姿に目を向け、どこか寂しそうな表情を浮かべてフォルスの隣に並んだ。
シャンスの母親は、十年前にはやり病で亡くなった。今じゃもう声も思い出せなぐらいだった。最後に覚えているのは、弱々しい母の手が自分の頬を撫で、苦しそうに一言「幸せにね……」そう呟いたことだった。
声も、顔も思い出せないのに、その場面ははっきりと覚えていた。母に対する寂しさがあるのか、無意識に親子を見かけると目で追いかけてしまう。
「シャンス、着いたぞ」
「えっ、あぁ……」
母のことを考えていれば、いつの間にか教会前にたどり着いた。すでに祖父が現場にいて、他の作業人に指示を出している。フォルスに言われて、シャンスは荷車から荷物を運び、指示された場所に置いていく。
「シャンス、ちょっとこい」
荷台に積んでいた最後の荷物を降ろしたとき、フォルスに呼ばれて顔を上げた。こちらに手招きしている姿が見え、シャンスはフォルスの側に駆け寄った。
「なに?」
「今日の作業分のヴェールがたりねぇーんだわ。悪いが取りに行ってきてくれねぇーか」
「今日運んだ分じゃたりねぇの?」
「それじゃ作業がヴェイユまでに間に合わん。シャンス、すまんが頼まれてくれんか?」
側にいた祖父にそう言われて、シャンスは少しうな垂れた。ヴェールを店に取りに行く事も仕事だ。しかし、正直一分一秒でも長くフォルスの仕事を見て覚えて、一人前になりたいと思ってる。
「仕事、進まなくなるんだよな……」
「あぁ。止まって作業が遅れてしまうんじゃよ」
「お、俺しか手が空いてないんだよな」
「すまんな、シャンス……」
「わかったよ……荷車は借りていくから」
「すまんなぁ……」
「そうだ。お前はヴェール屋の場所わかんねぇーだろ。ちょっと待ってろ」
フォルスは紙にヴェール屋の地図を記載してシャンスに渡す。
ずっと二人の側で仕事を見てきたが、一度としてヴィトライユの素材であるヴェールの受け取りをみた事がなかった。
「頼んだぞぉー!」
背後から聞こえるフォルスの声に深々とため息をこぼしたシャンスは、荷車を引きながらその場を後にした。
「おや、なんだか重い雰囲気だね、シャンス君」
早く戻りたい、早く戻りたいと心の中で何度も繰り返しながら荷車を引くシャンス。
気づけば、人通りが多い大通りに来ており、ケタケタと笑う少しばかり不気味な声が聞こえて顔を上げた。
「ポルティエ……」
「やぁシャンス君。お仕事かい?」
「あぁ……まぁ……」
「おやぁ?君の大好きなヴィトライユのお仕事なのに、ずいぶんと暗いねぇ」
そう尋ねてくる割には、どこか楽しそうにケタケタと笑うポルティエに、さっき以上に深いため息をシャンスはこぼした。
「今からヴィール屋に行くんだよ。俺しか手が空いてなくてな。はぁ……俺はもっと親父たちの仕事を見たいのに」
「ヴェール……そうか、君と【彼女】は初対面なのかぁ。キヒヒッ。それは面白いねぇ」
「はぁ?何が面白いんだよ」
「まぁ行けばわかるさ。あぁそうだ。その途中で死んでくれても構わないよ。ボクがしっかりと君を埋葬してあげるよ」
「まだお前の世話にはならねぇーよ」
「つれないなぁ。まぁ、いつでもうちを訪ねてくるといいよぉ」
「死ぬ時以外で、葬儀屋に用事なんてねぇーよ」
そう言葉を吐いて、シャンスは再び荷車を引き始める。
そんな彼の後ろ姿を、どこか楽しそうに笑いながら見つめ、ポルティエは店の中に戻っていった。
大通りから少し離れた道。人の数もほとんどない通りに、アンティークのような、綺麗で可愛らしいお店があった。
明らかに男が気軽に入れるような外見ではないそこを見つめ、自分が手にしているメモ用紙で、シャンスは何度も場所の確認をした。
「間違って、ないな……」
入る勇気がシャンスにはなかった。だが、ここに入ってヴェールを受け取らないと仕事場には戻れない。
その場で大きく深呼吸をする。シャンスの後ろを通る人たちが白い目で見ているが、そんなことは気にせずに意を決する。
「よしっ!」
階段を登り、ゆっくりと扉を開く。ドアチャイムが響き、シャンスが入ったことを知らせる。
しんっ……と静まり返った店内。
商品という商品は置いておらず、店内におかれているのは、ゴージャスなヴェールのキャビネットに、その隣に置かれたマホガニー。その上には人形が置かれている。それから、長いテーブルを挟むように、向かい合わせで置かれた2つのソファー。そして、壁に掛けられた大きな時計。
パッとみ、ただの部屋のように見えた。誰かが住んでいるような、お店とは言えない内装だった。
「ご、ごめんくださーい」
少し上ずった声で、静かな店内に声をかける。
人の気配が全くない。
「留守なのか?」
ギッ……
「っ!」
不意に聞こえた軋む音。自分がたてたものではなかったため、びくりと体が反応し、心臓が激しくなる。
店内にある出入り口以外の扉がゆっくりと開かれる。シャンスはビクビクと怯えながら、扉の向こう側から出てくるそれを待った。
「……えっと、いらっしゃいませ」
扉の向こう側から出てきたのは一人の女の子だった。
黄緑色の長い髪を三つ編みにして白いリボンで結び、赤と白のゴシックドレスを身に纏ったなんとも不思議な女の子。
シャンスの様子をうかがうように。彼女の青い瞳が揺れる。
「あの、ご用件は……」
「あ、えっと……親父……フォルスに頼まれて、ヴェールをもらいにきたんだけど……」
「フォレスさんの……ヴェールが足りないってことですか?」「今日の作業分が足りないんだ。あっ、これが足りない分」
シャンスはポケットに入っていたメモを渡した。
少女はメモの内容を確認すると、小さく頷いた。
「これなら作り置きがあるので大丈夫です。少し、待っててください」
そう言って、少女はヒールの低いブーツの底を鳴らしながらお店の奥に向かった。
シャンスは彼女が戻ってくるまで待っておこうと思っていたが、彼女はすぐに戻ってきた。
「ソファーに座って待っててください」
そう一声かけると、再び彼女は奥へと戻っていった。
お言葉に甘えてソファーに座ることにしたが、豪華な装飾がされた大きな黒いソファー。なんだか座るのに気がひけるが、一息ついて腰を下ろした。
そのままあたりを改めて見渡すと、物自体はそんなにないが、置かれている家具はなんとも豪華なものだ。シャンスの家にはないような、なんとも女の子らしいものばかりだ。
「すみません、お待たせしました」
ゴロゴロと何か重いものが引きずられるような音。
その音がする方に目を向ければ、扉から小さな荷車が幾つもくっついているものを引っ張ってくる彼女の姿があった。
それぞれの荷車の中には袋が入っており、シャンスのそばまで運ぶと、その中を見せた。
「おぉー」
袋の中には、まるで宝石のように光るヴェールが入っていた。袋ごとに色の違うヴェール。仕事で何度も見ているが、改めて目にすれば、やはり惹かれるものがあった。
「フォルスさんにはご贔屓にしていただいているので。私の大事な作品たちです」
「これ……いや、今までここで頼んだのって、君が作ったの?」
「はい。私がこのお店【エモシオンクルール】の店主の、サクリフィスです。初めまして、シャンスさん」
「え、なんで俺の名前……」
「フォルスさんが、お店に来るたびにシャンスさんのお話をなさるんですよ。ちなみに、同い年なんですよ。十八」
「えっ!」
シャンスが心の底から驚いた声を上げると、サクリフィスは小さく笑ってやっぱりと口にした。
「幼く見えますよね。構いませんよ、よく言われます」
「あ、えっと……悪い」
「謝らないでください。見た目はどうあれ、私が作ったヴェールをたくさんの方が評価してくださればいいので」
サクリフィスはシャンスの前に一枚の紙を出して「サインをお願いします」と言って、隣にペンを置く。
店内には、時計の針の音と紙にペンを走らせる音が響く。
しんっと静まり返り、サクリフィスもシャンスも、全く口を開かない。
サインを書き終えると、ペンを置いたシャンスが口を開いた。
「両親は出かけているのか?」
「えっ?あぁ……両親は流行り病で五年前に亡くなりました」
その言葉を聞いた瞬間、フラッシュバックのように、シャンスの頭の中に母親の姿が映った。
「一番流行した十年前は感染しなかったんですが、まるで安心したところを襲うかのように……」
「わ、悪い……」
「あ、気にしないでください。もうその時からこの仕事はしていたので、生活には困りませんでしたし」
「いやさ、俺のかあさんも……病で死んだんだよ。一番流行していた時期に……」
「……フォルスさんに聞きました。私が両親を亡くしたのは十三の時。シャンスさんはわずか八歳。同じ死に方でも、気持ちの持ちようが違いますよね」
幼いシャンスと、少し大人になったサクリフィス。両親の死という現実を受け止める器はあまりにも違いすぎていた。死という永遠のお別れをよくわかっていない時期、もう会えないという現実に、器からは気持ちは溢れるばかり。
シャンスは、泣きじゃくる幼い自分の姿を思い出す。われながら、笑いが出るほどに純粋で無垢で、母親が大好きだったんだと今更ながら思う。
「けどまぁ、俺は親父もじいちゃんもいるから、まだ大丈夫だよ。お前は……一人だろ」
「はい。けど、別に平気です。私は……誰かと一緒にいたいという執着心はないので」
「執着心ね……一人が好きってことか?」
「そういう、訳ではないです。今こうしてお話ししてるのも楽しいです。けど、ずっと側にいたいとか、誰にも渡したくない。死にたくないとか、そういうのがないんです」
どこか冷めた、心がないような言葉。
シャンスは、その海のように深い瞳をじっと見つめた。
本当に、その瞳の向こうに海が広がっていて、だけどそこはきっと、暗くて冷たくて……寂しい場所なんだろう……。
「書けましたか?」
「あ、おう……」
書いていた髪をサクリフィスに渡した。サインを確認すると、短く返事をして、テーブルの横に置いた。
「荷物は、外の荷車に乗せて大丈夫ですか?」
「あ、俺がやるからいいよ」
サクリフィスが持ってきたヴェールを、彼女と一緒に荷車に乗せていく。
最後の一つを乗せて、シャンスは引き柄に手をかける。
「じゃあ、ありがとな」
「またのご依頼、お待ちしてます」
にっこりと笑みを浮かべる彼女を、しばし見つめたシャンスは、少しだけ口を震えさせながら、彼女に声をかける。
「は、話し相手ぐらいなら、いつでもするから、その……いつでも連絡してくれていいから」
恥ずかしさが徐々にこみ上げてきて、最後の方は目を合わせることもできなかった。
「ありがとうございます、シャンスさん」
感謝の言葉を述べられ、顔を上げてサクリフィスの顔を見た。
その顔は、心の底から喜んでいるような……さっきとは違う、暖かな笑みだった。
思わず見とれてしまい、我に帰った時、恥ずかしさで思わず顔をそらしてしまった。
「じゃ、じゃあ俺はいくな」
一歩、足を前に出して荷車を引く。ガラガラと音を立てながら、来た道を戻っていくが、様子を伺うようにお店の方に目を向けた。
サクリフィスは店内に戻っておらず、シャンスのことを見送っていた。目が合い、気がついた彼女は小さく手を振った。シャンスは軽く会釈をして、前を向く。
「お母さん、あの人顔真っ赤だよ」
「これ、見るんじゃありません」
羞恥心がこみ上げてきて、危険だとわかってはいたが、真っ赤になった顔を周りに見られないように、俯きながら荷車を引いた。
「あはははっ!やっぱり、仕事後の酒はうまいな」
夜になり、今日の作業は終了となった。
作業をしていた面々は、夕食を食べに近くの酒場へと足を運んだ。
当然シャンスも連れて行かれ、騒いでいる面々から少し離れた席で、一人静かに食事をした。
「よっこらせ。一人で寂しくないか」
「あそこに混ざるよりいいよ。爺ちゃんはこっちきていいの? 市長さんとかいるのに」
「もう話してきたからええんじゃ。それに、騒ぐのはフォルスの役目じゃよ」
横目でどんちゃん騒ぎをするフォルスを見て、お皿の上に残った料理を口に運んで行った。
「どうじゃった、サクリフィスは」
「んぐっ! ゲホッ、ゲホッ!」
「あっはっは。若いのぉ」
何かを察したように、祖父は楽しそうに笑いながら食事をする。からかわれたことに釈然とせず、軽く祖父を睨みつけて、シャンスも食事を続ける。
「かわいい子じゃろ」
「まぁ……」
「ほっほっ。親子じゃのぉ。フォレスもお前の母親を好きになった時、そんな反応じゃった」
「べ、別に好きになったわけじゃない!」
「ほぉー」
ニヤニヤと笑みを浮かべる祖父に、恥ずかしさと悔しさで怒りがこみ上げてきてしまう。けど、ここは怒鳴ってはいけない。怒鳴れば、祖父の思い通りになってしまうような気がしたから。深く深呼吸をし、グラスに注がれた水を見つめる。
「冷たい目をしてた」
「…………」
「光も届かない……暗くて寒い、深海みたいな目をしてた」
諦めたような、何かを手放したような……ただ、流れるがままに、されるがままに……遠くなっていく光を見つめ、どんどん暗い深海に沈んでいくかのような、不安になるような瞳。あの目には、少しだけ恐怖も感じた。その理由は、彼女にとってそれが当然のように思ってるように感じたからだ。
サクリフィスはきっと、自分からは決して求めることはない。求めてはいけないと、自分に言い聞かせているようにも見えた。
「あの子の名前は、神様が与えてくれたらしい」
「は?」
「あの子が生まれた日、神が名前を与えたらしい」
「胡散臭いな。だいたい神様がなんでそんな名前を与えるんだよ」
「そうじゃな。サクリフィス……」
《生贄》
「神様がなんでそんな名前を与えるんだよ」
「さぁな。じゃが、どんな名前であれ、神に与えられた名前ということで、教会も彼女にかなりの支援をしているようじゃ。【神に選ばれた子】などと言われてな」
「阿呆らしい」
まるで自分の中にある怒りをぶつかるように、シャンスは最後の一切れになった肉に突き刺した。
「神様がいるって、信じたいだけじゃないか。ホント、この街は馬鹿げてる。神に、陶酔しすぎだ……」
「教会の人間の前でそういうことを言うじゃないぞ。異端者として、即死刑だ。この街は、そういう街だ。お前も、わかってるだろう」
「……あぁ」
憤りを混み殺しながら、絞り出した一言。
口に入れた肉は、そんな気持ちで食べれば、あまり美味しくなかった……。
*
オラクル。《神託》の意味を持つこの街は、かつて神が降り立った場所とされ、そして今この街がこんなにも豊かで発展しているのは、神よりお言葉をもらったからだと言われている。生まれてからずっと、子供が大人にその話を聞かされる。神様はすごい、偉大だ。だから崇めなさい。疑ってはいけない。神は絶対だと。まるで、自分の子供を洗脳するかのように。
この街に市長などは存在するが、主に街の運営などを行っているのは教会の人間である。教会の人間の前で、神に対する暴言は、侮辱。それらは全て死刑判決だ。
シャンスはこの街に、あまり居心地のいいものを感じていなかった。どうしてみんな、そんなに楽しそうでいられる。どうしてみんな、笑っていられる。どうしてみんな……
会ったこともない存在を崇めることができる。
シャンスは一度、教会の地下牢に閉じ込められたことがあった。それは、母親が死んですぐの時だった。
「神様なんていないんだ!いたら、母さんは死ななかった!」
母の死を受け止めきれなかった幼いシャンスは、教会の人間に泣きながらそう言った。神様ならどうして助けてくれなかった。神様なんていないから、母さんは助からなかった。
まだ幼いということで、処刑は間逃れたものの、一週間、薄暗い地下牢に閉じ込められていた。
「母さん……母さん……」
すすり泣きながら、ただ求めるように母を呼ぶ声が、心が苦しくなるほどに、地下牢に響き渡る。
牢屋から出てきたシャンスは、やせ細り、目はどこか虚ろだった。強く抱きしめる父の体温と感触が心地よくて、心の底に沈んでいた気持ちが、また浮上してくる。
「あぁ……あぁああああああああああ!」
悲鳴をあげるように泣くシャンス。そして、幼いながら気づいた。この街がおかしいと、変だということに……。
*
「なぁじいちゃん……」
昔のことを思い出し、少しだけモヤっとした気持ちを抱きながら、空になったお皿をじっと見つめた。
「またヴェール取りに行く時さ、俺が行っていい?」
チラッと祖父を見れば、どこか楽しそうに笑みを浮かべる様子に、血液が逆流するように、顔に熱が集まり始める。
「構わないが、わしらの仕事はみなくていいのか?」
「もちろん見るよ。俺も早く一人前に。けどさ、なんていうか……ほっとけないって行くか……気になるというか……」
シャンスは必死に自分の感情を言葉にしようとするが、うまく言葉にできなかった。
そんな彼の様子を見て、祖父は優しい笑みを浮かべて承諾をした。
「行く時はお茶菓子ぐらい持って行ってやるんじゃぞ」
「あ、うん」
「おいシャンス! そんな端っこにいないで、お前もこっちに来い!」
「ちょっ、親父! くそっ、酔っ払いめ……」
強制的に騒がしい輪の中に引っ張り込まれたシャンスは、酒の力で完全に酔っ払っている大人たちに散々絡まれる。そんな様子を、祖父は微笑ましそうに見つめるが、すぐに表情は暗くなる。
「もお、一ヶ月を切ったのか……」
*
扉を開ければドアチャイムがなり、来訪者を知らせる。
店内は相変わらず、お店とは思えないほどに物が置かれていない。店内にかけられた時を刻むように動き、しんと静まり返った店内に響き渡る。そして、そんな静まり返った店内に、遠くから聞こえる足音はよく響く。
慌てるように、こちらに近づいてくる足音。そして、ギシッと音を立てて開かれる扉。
「あれ、シャンスさん。いらっしゃいませ」
扉の向こうから出てきたサクリフィスは、シャンスの姿を目にすると、満面の笑みを浮かべた。例えるなら、太陽のような明るい笑顔。
「どうされたんですか?」
「え、あぁうん。いや、今日は作業が休みだったから……ちょっとサクリフィスに、会いに来た」
「私に……ですか?」
「うん。じいちゃんがさ、サクリフィスは仕事柄大人とばかり話してるから、お前が話し相手になれって。あ、途中でおかしかってきた。マカロンとパウンドケーキだけど、食えるか?」
「む、むしろいいんですか?せっかくのお休みなのに」
「いいんだよ。というか逆に、今来て大丈夫だったか?」
「はい。ちょうど一息ついたところです。あ、私お茶入れてきますね」
パタパタと奥へと戻っていくサクリフィス。その足取りは、どこか弾んでいるようだった。
シャンスはそのままソファーに腰を下ろすと、深々と溜息を零して頭を抱える。
「よかったぁ……変に緊張したから、声が上ずりそうになった……」
サクリフィスと初めて会ってから数日、今日は本当にお休みだった。
フォレスは朝からいびきをかきながら寝ており、祖父は教会に足を運んでいた。そして、一人残ったシャンスはここに足を運んだ。
祖父の言う通りお菓子を買ってはきたが、異性との関わりが全くないシャンスは、何が女性に好まれるお菓子かよくわからなく、恥ずかしがりながらも店員に聞いて選んだ物だ。
「んっ! すごく美味しいです」
お店にclauseの札をかけ、扉のカーテンを閉めて、二人でお茶菓子を食べながら話をした。
会話の内容は何気ないもの。好きなもの、最近あった面白いことや、今日買ってきたお菓子のこと。
サクリフィスは、楽しそうに会話をする。シャンスも、最初は緊張はしていたものの、少しすれば気軽に話せるようになった。
「なぁサクリフィス」
「あの……」
「ん?」
「名前……」
「名前?」
「はい。できれば、フィースと呼んでいただけたらと……あまり、自分の名前は好きではないので」
その言葉を聞いて、シャンスは察した。手にしたカップを置いて、サクリフィスに目を向けた。
「神様が、つけた名前らしいな」
「はい。光栄なことです。けど……」
「生贄、だもんな……」
「どういう意図でつけてくださったのかわかりません。けど、なんだか呼ばれるたびに、苦しくて……」
「そうか……お前が呼んでいいなら、フィースと呼ばせてくれ」
「はい、もちろんです。シャンスさん」
しぐさの一つ一つ、表情の一つ一つが、なんとも女の子らしくて、シャンスはほんのり顔を赤く染める。
時間というのはあっという間に過ぎるようで、店の中にかけられた時計が音を鳴らす。それと同時に、外からも大きな鐘の音が鳴り響く。
「もぉこんな時間。楽しくてつい時間を忘れてしまいました」
「俺も、久しぶりに楽しかったよ」
「そう言ってもらえて嬉しいです」
にっこりとサクリフィスは笑みを浮かべるが、すぐに俯いて、どこかモジモジとし始める。
「あ、あの……シャンスさん」
「ん、どうした?」
「も、もしご迷惑でなければ何ですが……また、来ていただけませんか。お仕事がお休みの日にでも」
「え……来て、いいのか?」
「はい。異性の……歳の近い方ともっとお話ししたくて……それに今日、とても楽しかったので……」
ぎゅっと、心臓が締め付けられるような感覚を、シャンスは感じた。それだけじゃない、なんだか心が満たされていくような幸福感。
「シャンス、さん?」
しばらくその感覚のせいで意識が飛びかけたが、名前を呼ばれて我に帰る。
「え、あぁうん。俺も楽しかった。フィースがいいなら、また来るよ」
「ありがとうございます」
これでもかと、言うように満面の笑みを浮かべるサクリフィス。また、シャンスの胸が締め付けられるように苦しくなる。
「じゃあ俺はそろそろ行くな」
「はい。お菓子、とても美味しかったです」
「フィースが用意してくれた紅茶もうまかった」
「お仕事、頑張って下さい。楽しみにしてますね」
「あぁ……」
扉を開けたシャンスは、中に入るサクリフィスに手を振って店を出た。サクリフィスも返すように笑みを浮かべ、手を振って見送った。ドアチャイムがなり、バタンと音を立てて、扉が閉まる。
「神様」
サクリフィスは手を組み、祈るように目を伏せてつぶやく。
「お願いです。迎えるその日まで、今のこの時間を……」
彼女の目から、頬を伝うように涙がこぼれ落ちる。
*
「ふわぁー……」
大きなあくびを一つしながら、シャンスは街の中を歩く。ヴェイユが近くなるにつれ、街のにぎわいも変わってくる。そして、残り一週間ともなれば、いたるところで仮装している人、店の装飾が派手になっていく。
「んー……やっぱりまだ眠いな」
時刻は午前七時。作業前の日課として街の中をぐるりとする散歩。教会前のヴィトライユも、完成まじかとなり、イメージ図通りのものになっていた。ただ、シャンスは作業しながら思うことがあった。
「親父もじいちゃんも、変に緊張してるっていうか……なんか変だよな」
どこか、この作業が終わってほしくないと思っているように感じた。表情も、たまに暗くなったりするし、切なげに制作途中のヴィトライユを見ることもあった。
「なんか、また隠されたりしてんのかな……」
まだ半人前だから、何も言われてないのだろうかと、不機嫌に思いながら街の中を歩く。
「あれ?」
だがふと、シャンスの足が止まる。視線の先、サクリフィスがお店から出てくる。いや、別にそれは問題ないのだ。問題なのは、出て来た店だ。
「キヒヒッ。ご苦労様」
「いえ。いつもありがとうございます」
「いつも通りって感じだねぇ」
「えぇ。もぉ、ずっと前から分かっていたことですか」
「そうかい。まぁ私は楽しみだけどね」
「貴方はそうでしょうね。それじゃあ、失礼します」
サクリフィスは軽く一礼をして、その場を離れていった。
彼女が出て来たのは葬儀屋だった。なゼアそこから出て来たのか気になり、シャンスは足を進める。
「ポルティエ」
「おやぁ。これはこれはシャンス君じゃないか。朝のお散歩かい」
「さっき、ここからフィースが出て来ただろ?」
「フィース? あぁ《魔女さま》か」
「魔女さま?」
「彼女はうちのお得意さんなんだよ。あぁ早くあの子を棺の中に収めたいよぉ」
興奮したように、うっとりとした瞳で遠くなっていく彼女の背中を見つめるポルティエ。
「お得意さんって……ヴェール製作者である彼女が、なんで葬儀屋なんかに……」
「………ふむ。残念だけど、それは企業秘密だ。知りたいのであれば、彼女に聞くといいよ」
「どういう……」
シャンスの声を遮るように、町中に響く鐘の音。その音を聞き、ポルティエは笑みを浮かべる。
「そろそろ君の大好きなお仕事の時間だろう?」
「むっ……はぁ、わかったよ。その様子じゃ、おまえは言わなそうだしな」
軽く手を振り。シャンスはそのままその場を後にする。
その後ろ姿を見つめながら、ポルティエはクスリと笑みを浮かべる。
「大丈夫だよぉ。後一週間も経てば、嫌っていうほどわかるよぉ。君が作ってる、ヴィトライユの意味もぉ」
夕暮れが街をオレンジ色に染める時間帯。
日も沈み出し、今日の作業は終了となった。
作品を隠すように、周りには布がかけられており、本番まで作品が見えないようにされていた。
他の作業員が片付けをしている中、シャンスは一人、完成まじかのヴィトライユを見つめていた。
「よっしゃああ!今日ものむぞぉー!」
「おぉー!」
フォルスの声に、周りの作業員のテンションも上がる。シャンスは深々とため息をつくと、彼も片付けに参加する。
片付けが終わったのは、ちょうど日が沈んだ頃だった。
「のむぞぉー!」
作業を終え、酒場に行く途中。フォルスは作業員の方を寄せて機嫌を良くしていた。そんな様子を、後ろから冷たい目で見つめるシャンス。
「あぁシャンス。ちょっと頼まれてくれんか?」
「え、なにじいちゃん」
酒場に入る前に、祖父に呼び止められて、中に入ろうとしていた脚を後ろに戻した。
「腹が減ってるとは思うが、サクリフィスのところまでお使いを頼まれてくれんか?」
「追加のヴェール?」
「あぁ。明日の朝に、取りに行くとも伝えといてくれ」
「わかった。腹も減ってるし、すぐに済ませてくるよ」
「頼んだぞ」
シャンスは一瞬だけ酒場の中の様子を眺めて、そのままその場を後にする。
夜の街は、明るかった。とは言っても、大通りはだ。サクリフィスのお店がある通りは、街灯の明かりだけが街を照らしており、人は全く通ってない。
賑わって、騒がしい大通りとは違い、しんと静まり返った通り。
「あれ?」
不意に脚を止めたシャンスは、そのまま物陰に隠れ、そっと彼の行く先を見つめる。
路地から、数人のローブを身にまとった男たちが出てくる。
暗くて顔までは見えないが、そのローブは教会の人間のものだった。
「なんであそこから……」
その路地の先には、サクリフィスの店の裏口がある。シャンスは行ったことはないが、前に祖父とサクリフィス本人から聞いたことがあった。
男たちはそのままその場を後にした。その後ろ姿が見えなくなるのを確認すると、シャンスは物陰から出て、店の扉を開けようとした。当然鍵はしまっているし、closeとかかれた札がかけられている。
「行く、か……」
男たちが出てきた路地に目を向け、シャンスは意を決して脚を進める。
薄暗い路地を、一歩。また一歩と進めて行き、脚を止める。目の前にある木製の扉を開ければ、人一人が通れるほどの狭い廊下があった。
なるべく大きな音を立てないように、ゆっくりと奥に進む。すると、一つだけ半開きになっている扉があり、そこから光が漏れていた。
シャンスはそのままゆっくりと中の様子を見た。
だけどそこに広がっていたのは、幻想的な……あまりにも非現実的な光景が広がっていた。
〔 〕
どこの国の言葉かもわからない、呪文のような言葉を唱えるサクリフィス。
石が輝き、光が飛び交う。いろいろな色の煙が、部屋の中に立ち込める。自分は夢でも見ているのかと思うほどに、その光景は現実離れをしていた。
夢中で見とれていたせいで、ギシッ……と音を立ててしまった。
サクリフィスは大きく肩を上げて、シャンスのいる入口の方に目を向けた。
「シャンス、さん……」
見られた。と、そんな表情を浮かべたサクリフィスは、そのまま顔を彼から逸らした。
「フィース……」
「どう、されたんですか。こんな時間に……」
顔をあわせることなく、彼女はいつも通りに会話をする。だけど、その声はどこか震えていた。
「フィース、お前……」
触れないわけにはいかなかった。ここまで見て、何も見ていないということを、シャンスはできなかった。
サクリフィスは、小さなため息をついて、テーブルに置かれているピンク色のヴェールを手にして、シャンスの元に駆け寄った。
「【神に選ばれた子】なんて言われているのは、神様に名付けられたからじゃやないんです」
サクリフィスは、今にも泣き出しそうな顔をしながら、手にしたヴェールを彼に渡した。
「私には特別な力があるんです」
「特別な、力……」
「死者の感情を、色として抜き出す力です」
「えっ……」
「正確には、死者の生まれて初めての感情と、死ぬ直前の感情なんですけど……」
思わず、シャンスは手にしていたヴェールを落としてしまい、そのままヴェールは砕け散った。
「そう、ですよね。普通、そういう反応ですよね」
「ちがっ!」
「いいんです。この力が異端だって……死者の魂を弄んでいるんだと……処刑されて、当然です」
その時、シャンスは察した。なぜ、教会の人間がこんな遅い時間にサクリフィスの店を訪ねていたのか……。
「処刑、されるのか?」
「はい。一週間後のヴェイユの日、シャンスさんが作っているヴィトライユの前で」
「えっ……」
「処刑される魔女のヴィトライユ……あれは、一週間後の私の姿なんです」
「そんな……なんで!」
「言ったじゃないですか。この力は異端だって」
サクリフィスの目は、以前見たものと同じだった。
深い深海のような、冷たい目……しかたがないと、諦めた目だ。
「私は生まれながらにして神様の《生贄》。このなるのは運命なんです」
「そんなこと」
「人間は、自分とは違うものに怯えます。シャンスさんの反応は、平常なんですよ。だから、気にしないでください」
苦笑いを浮かべるサクリフィスに、シャンスは違うと言いたかった。だけど、怯えたことは事実。
「いつ、話があがったんだ……処刑のことは……」
「ずっと前からです……受け入れたのは、1年前ですね」
「なんで受け入れたんだよ!お前は何も悪いことしてないだろ!」
「シャンスさん、人と違うことは……罪なんです」
「そんなことは!」
「そうなんです。私は、私の存在自体が罪なんです。人の魂を弄ぶ、《魔女》なんです」
その言葉を聞いて、ポルティエが彼女のことを魔女さんと呼んでいたわけがシャンスはようやくわかった。
ヴィトライユに描かれている魔女は、サクリフィス。魔女が処刑されているヴィトライユの前で、彼女はその最期を終える。
サクリフィスは、近くにあった箒とちりとりを手にして、床に砕け散ったガラスを片付け始める。
「悔いはありません。お仕事も楽しかったですし。けど、自分の作ったヴィトライユが飾られていると、複雑な気持ちになります」
そのまま作業台に戻ったサクリフィスは、軽く手招きをしてシャンスを呼んだ。
彼がそばに駆け寄れば、作業台にあるのは透明ヴェールと、小さな瓶に入った赤い液体。
「これが、死者から取り出した感情です。死の直前の感情です」
瓶を手に取り、蓋を開け、そのままヴェールにかけるように液体を落とした。
「えっ……」
液体は、ヴェール周りを伝って作業台の上に溢れるかかと思えば、そのままヴェールの中に染み込んでいく。
透明だったヴェールは、赤いものに姿を変えた。
「こんなふうにできてるんですよ」
「すげー……」
「事実を知らなければ、とても魅力的なんです」
サクリフィスは、赤いヴェールをシャンスに渡す。今度は落とすことはなかった。
「赤い色は、死ぬ直前の感情に多いんです。ほかにも、水色とか緑、青色も多いんです」
彼女は、何かを紛らわせるように色々な話をする。それがシャンスにはその様子がとても苦しくて、気がつけばサクリフィスを抱きしめていた。
「シャンス、さん?」
「怖いんんだろ?」
「……そんなこと、ないです。ずっと前からわかってたことなんです。今更怖いわけ……」
「俺、お前と話してる時、すっごい楽しかったぞ」
シャンスは、異性と話すことなんて全くなかった。サクリフィスと話す時も、うまく話せているか不安だった。だけど、彼女は一生懸命聞いてくれて、とても楽しそうにしてくれていた。だから、また話を聞いて欲しいと思うった。
「フィースは、楽しくなかったのか? 俺はさ、話を聞いてくれている時のお前は、心の底から楽しんでるように見えたぞ。あれは、同情とか、憐れみ……」
「違います!」
シャンスの言葉を遮るように、彼女は必死に否定の言葉を述べる。
体を離せば、彼女は泣いていた。目からボロボロと大粒の涙を流して。
「本当に、シャンスさんとお話ししている時は楽しかったです。同情とか、憐れみとか、そんなもの一切ありません」
「フィース……」
「もお……受け入れたんです。だから、残りの時間は幸せに暮らしたいと思いました。そして、私はそれを味わうことができてます」
サクリフィスは、そっとシャンスの手を握る。
「シャンスさんと出会ってからは、とても幸せですよ」
胸の奥がぎゅっと、締め付けられるような感覚。その笑顔は本物の笑顔だった。シャンスは再びサクリフィスを抱きしめる。彼女もその行為を受け入れるように、背中に手を回した。
「俺も……フィースとの毎日がすごく幸せだった。だけど……」
だけど、もうその幸せを味わうことはできない。真実を知った以上、これ以上自分はヴィトライユの作業に参加することはできない。もちろん、このことを隠しておけることもできない。
「あのヴィトライユ、私がフォルスさんにお願いしたんです」
「えっ……」
再びサクリフィスから体を話せば、彼女は苦笑いを浮かべる。
「お二人は知ってらっしゃいますよ」
「知ってるって……」
「ヴェールの製作方法。そして、私が処刑されることも」
「えっ……」
「あのヴィトライユの依頼をしたのは私なんです」
「なんで……」
「私の望みです。魔女として処刑されてもいいです。だけど、私が作ったヴェールで……私が確かにここにいたという証を残しておきたいんです」
異端者として、いつかこの日が来ることはサクリフィスはわかっていた。死に対する恐怖も、自分が救われるという期待はなかった。だけど、自分がいなかったことになるのは、辛くて、苦しくて、寂しかった。だから彼女は教会の人間と、シャンスの両親に告げた。ヴェイユの日を自分の再起とし、自分が作ったヴェールを使ったヴィトライユの前で命を落としたいと。それ以外は望まない。性にすがりつくことはない。全てを受け入れるからと。
「シャンスさん。私に未練はありません……だから、最後まであれを作り上げてください」
「けど、俺は……」
それでもシャンスは、頷くことはできなかった。完成すれば、ヴェイユが来れば、サクリフィスは死んでしまう。そんなのは嫌だ。もっと彼女と話したい。話すだけじゃない、どこかに出かけたりもしたい。いろいろなものを見て回りたい。
そんな感情が表に出ていたのか、サクリフィスはシャンスから手を離すと、戸棚からピンク色のヴェールを取り出し、シャンスに渡した。
「ピンク色の感情は《幸福》なんですよ」
「えっ……」
「ちゃんと、見届けてください」
にっこりと笑みを浮かべるサクリフィス。どんな言葉を投げかけても、きっと彼女は生きたいとは言わない。
「わかった」
自分の中の感情を押し殺すように、シャンスは返事を返した。
「そうか、聞いたのか」
サクリフィスの店を出て、酒場に戻ったシャンスは、店の隅の方で祖父と一緒に食事をとり、先ほどのことを話した。
「本当は、全部壊して逃げ出したい。そして、フィースには幸せに……」
「それは、お前が思う幸せであって、サクリフィスの望む幸せではないだろ」
祖父の言葉に、シャンスの口から反論の言葉は出なかった。それでも、あまりにも現状は理不尽すぎるのではないかと、憤りを隠すことはできなかった。
「彼女のことを思うなら、ヴィトライユを完成させることだ」
「じいちゃん達は、それでいいの?」
「わしらはただ、依頼されたことをやるだけじゃ。それに、どんな理由があろうとも、依頼してきた人の望みを叶えるのが、製作者としての責務だ」
「……そう、思えないってことは……俺はまだ、半人前ってことか……」
「お前のその気持ちは、ヴィトライユ製作者としてではなく、一人の男としてだろ。なら、何も間違ったことじゃない」
確かに祖父はシャンスの言葉を否定した。だけど、それはあくまで製作者としての否定であり、人間として……シャンスという一人の人間の考えとしては、間違ったことではない。
「あの子のためにも、ヴェイユまでに完成させよう」
「……あぁ」
*
怪しいオレンジ色の光が街中を照らし、いろいろなお化けの衣装を身につけた待ち人達が、オラクルの街の中を徘徊する。子供達は、一つでも多くお菓子をもらうためにいろいろな家を訪ね回る。
ヴェイユ当日ともなれば、街は普段よりも賑わった。昼間もそれなりに騒がしかったが、夜が本番と言うように、街は昼間のような明るさと賑わいを見せていた。
笑って、楽しそうにヴェイユを満喫する街の人々。お菓子をもらい終えたり、十分に楽しんだ彼らの足は、別の方に向けられる。人だかりができているそこは教会前。シャンス達が作り上げた、ヴィトライユの前。設置された処刑台を、民衆は見上げていた。
「これより、魔女の処刑を行う!」
ローブで身を包み、フードを深くかぶった教会の人間は、集まった民衆達にそう告げた。
罪人として壇上に立っているサクリフィスは、その最期の瞬間が来るまで、集まった民衆の顔に目を向けていく。
近所に住んでいるおばあさん。よく行くパン屋のご夫婦。街の噴水広場でよく遊んでいた子供達。ここに住んでいた時の思い出を、一人一人の顔を見ることで思い出していく。
「ここにいる罪人は、死者の魂をもた遊んだ。よって、神への反逆行為とみなし、今日この瞬間を持って、処刑を行う」
サクリフィスは一歩前に出て、ギロチンの穴に首を通す。
そして、再び民衆に目を向ける。あるものは魔女位を殺せと叫び、反抗できないものは、ただ涙を浮かべていた。首を通した時、民衆に紛れてポルティエの姿があった。どこか楽しそうに、嬉しそうに彼はケタケタと笑っていた。そしてその隣……サクリフィスにとっての残り短い期間、とても幸せな時間をくれたシャンスの姿があった。
苦しそうな、今にもこちらに駆け出してきそうな表情を彼は浮かべていた。そして、目が合う。
「すべては神のために!」
教会のものがそう言うと同時に、ギロチンの紐が切られる。
シャンスと目があったサクリフィスは笑みを浮かべ、口だけを動かして、彼に気持ちを伝えた。
『ありがとうございます』
雄叫びと悲鳴が辺りに響き渡る。
サクリフィスの体と頭が離れた。もう、彼女の声を聞くことも、笑顔を見ることもできなくなった。
「さて、私は彼女の埋葬の準備をしなくてはね。キヒヒッ」
民衆は街へと戻り、ポリティエは仕事のために処刑台に足を運ぶ。シャンスだけが、その場に立ち尽くし、動けずにいた。
空を見上げ、目の端から一筋の涙を流す。
「あ……」
その時、視界に二つの光が天に昇っていく。
ピンク色をしたその二つの光は、誰にも気づかれないように、ゆっくりと、ゆっくりと天に昇っていく。
「生まれた時の感情と、死んだ時の感情……」
サクリフィス入っていた。死んだ時に一番多い色は怒りの《赤》と悲しみの《水色》。苦しみの《緑》に絶望の《黒》。嫉妬の《青》。では、今登って行ったピンク色の光は……。
「幸せ……だったんだな……なんだか複雑だな」
泣きながら、笑みを浮かべ、シャンスも人込みに紛れるようにその場を後にした。
*
「ご満足、していただきましたか?」
少女は、背を向けているその人に笑みを浮かべてそう尋ねた。
ーーーえぇ、満足しました。いいものが見れたと思ってます。
「それは良かったです」
少女は背向ける人物の隣に腰を下ろして、同じものを見た。
ーーー本当に、未練はないのですか?
「えぇ。色々と嫌なことはありましたが、楽しくなかったわけじゃなかったので。特に残り短い期間は」
少女がピンク色の光が放ち、隣にいた人物は興味深そうな表情を浮かべて、再び見ていたものに目を向ける。
ーーー人間は、やはり醜く欲深い生き物だな
ーーーなのに、なぜこんなにも美しいのだろうな
「私達には感情があります。確かに、欲深い生き物ですけど、それは、感情があるからなんですよ」
少女はそっと、自分の胸に手を当てた。
「感情があることで表情も、考えも、行動も全部変わってくる。人の数だけ感情があり、人の数だけ輝きがある。だから、神様は人間を面白いと思って、あなたは美しいと思ったのでしょう」
ーーーそう、かもしれないな
その返答を聞くと、少女は腰を上げてその人物に背を向ける。
「それじゃあ、私はきますね」
ーーーあぁ……次は、長生きできるといいな
「はい。そして、今度こそすがりたいです……」
そう言って、少女は消えていった。
一人取り残された者は、じっとその光景に目を向けた後、腰を上げ、少女と同じようにその場から消えた。
【完】