第一章〈遭遇〉
「残ったスープくらいくれよ」
「いや、この食べ終わった後に残るスープを一気に飲むのが楽しみなんだよ」
放課後、僕とアカヤは通っている中学のテニス部の練習を終えた後、駅の近くにあるコンビニに寄った。アカヤはそこでカップラーメンを買い、僕はソーダ味の棒付きアイスを買って店の前で食べた。甘いアイスを食べた僕はアカヤが食べているカップラーメンのスープを一口くれと要求したが、断られた。
「スープくらい、いいじゃんか」
「馬鹿野郎。ラーメンはスープが命なんだよ」
アカヤはそう言って、スープを全て飲みほし、もえるゴミにカップを放り入れた。僕はふてくされてスマートフォンを取り出す。メッセージアプリのニュースページを開くと、またあのニュースがトップに表示された。
「見ろ、これ。また例のニュースだ」
「ああ、子供が連れ去られるって奴だろ?」
「なんなんだろうな。子供ばかり」
「どっかのロリコンがハーレムでも作ってるんじゃねえの?」
「いや、男女関係なくいなくなっているらしい」
「犯人はきっと男と女どっちもいけるロリコンなんだよ」
「すげえな。ショタもいけるのか」
「お前、さらわれないように気をつけろよ」
「うるせえな」
僕は学年の中でも童顔で身長が低かった。対してアカヤは身長が高く、色白で鼻筋が通っている。はっきり言ってクラスの女子のアイドル的存在であり、成績も学年二位で優秀。おまけに今年の全国中学生テニス大会に出場が決まっている運動神経抜群男だった。僕とアカヤは小学校の時から馬が合い、共に行動していた。テニス部にもアカヤがいたから入ってみたものの僕はあまり成績は振るわず、今年もレギュラー入りはなかった。来年、三年になるから、もう部活動は引退になる。僕の短いテニス人生はすでに終わったも同然だった。
「そういうアカヤこそ気をつけろよ。お前、イケメンなんだから」
「イケメンじゃないよ。からかってんのか?」
「いい加減気付けよ。お前は女子の憧れの的なんだ。まったく、羨ましい限りだよ」
アカヤは謙虚だ。そういった周りから持て囃されたとしてもクールに躱せるその身のこなしがさらにアカヤ人気に拍車をかけた。
「俺の話はいいけど、今度のテスト、どうなんだ? お前、大丈夫なのか?」
「……たぶんな」
曖昧な返事をする。僕ははっきり言って馬鹿だ。勉強が苦手で運動音痴、おまけにそんなルックスも良くない。だからアカヤと一緒にいるところを女子からあまり見られたくない、という気持ちさえある。
「勉強した方がいいぞ。じゃないと自分の行きたい高校に行けないぞ」
「わかってるよ。やる気さえあればなあ」
「やる気がどう、とかじゃないんだよ。やるか、やらないかなんだよ」
アカヤが僕に説教する。僕はそれを疎ましく思って再びスマートフォンをいじっているふりをする。
「そういうアカヤはどうなんだよ。今回、マリカに勝てる可能性はあるのか」
「……正直、わからない」
伏女マリカは定期テストで毎回学年一位をとる天才少女で毎日放課後、図書室に籠って読書をしている。丸眼鏡をかけていて身体が小さい。腰まで届くかというほど異様に長い三つ編みを二本後ろに棚引かせている、そんな稀有な少女だった。噂によれば、二年の不良グループから苛めを受けているらしいが、本当かどうかは分からない。
「あいつ、家で勉強しないらしいぜ。学校のテストも本から得た知識ですべて対応しているらしい」
アカヤが悩ましい表情で言った。
「ああ、あいつ、授業中寝てること多いもんな」
「リョウは、彼女を天才だと思うか?」
「……え? うん、天才だろ」
「そうか。俺は努力すれば天才にだって適うと思っている」
真摯にそう言って、アカヤはラケットバッグを背負い直した。
「そっか。まあ、頑張れ。応援してるよ」
「お前も頑張れよ。やればできるんだから」
「その言い方やめろよ。母ちゃんみてえだから」
「はは。そうか。すまん」
空を見ると、電柱の列の向うに夕陽が沈んでいくのが見えた。もうそろそろ帰った方がいいかもしれない。
「じゃ、僕、もう帰るよ」
「ああ、じゃあな。俺、これから塾だから、まだコンビニで暇潰すよ」
「そっか、じゃあな」
アカヤと別れていつもの帰り道を一人で歩く。僕はこのままでもいいのだろうか。何のとりえもない、冴えない、何の変哲もない中学生。世界の日本のこの県のこの市のこの町の一人の中学生として生きている僕は果たしてこのままでもいいのだろうか。僕は己の小ささを感じるたびに消えてしまいたいとよく思う。僕がアカヤみたいにルックスが完璧な男子だったら何か変わっただろうか。勉強もやる気が出てきただろうか。僕は整形願望みたいな変な欲望を胸に馳せ、そして、途端に現実的になり、下を向いて、いつもの帰り道を歩いた。
***
翌日、やっと自分の進路のことについて焦り始めた僕は放課後一人、図書室に向かった。自習するつもりだった。僕は今日の数学の小テストでなんと零点をとった。人生初の零点。さすがにやらなくては駄目だと思った。僕は勢いよく図書室の引き戸を開く。
すると、図書室の静けさが僕の感覚器を支配して、少し我に返り、落ち着いた。一瞬、図書室には誰もいないと思ったが、よく見てみると端のテーブルの端の席で伏女マリカがハードカバーの本を読んでいた。気付かれないようにそっと移動し、マリカから一番遠い席に腰かける。数学のノートと教科書を取り出し、テーブルに広げる。
ふたたび図書室独特の静けさが来る。窓の外から運動部の声出しや、一つ上の階の音楽室から金管楽器の音が聞こえてきた。僕は集中せねば、と思い、数学のノートを開く。僕は簡単な計算は出来たが文章問題が苦手だった。今日のこの時間は、教科書の章末問題の文章問題を重点的に行うことにした。マリカを一瞥する。黙って本を読むその横顔は、淑女的で美しくあまり外に出ないのだろう、色白で透き通るような肌をしていた。もしかしたら、マリカは結構、女子の中でも可愛らしい方なのではないだろうか。そう思えた。
いけない。いけない。今は数学だ。そう思って、教科書に目を落とした時に、図書室の引き戸が勢いよく開けられた。
甲高い話し声を発しながら茶髪の男女が入ってくる。二年で有名な不良グループの人達だった。下品な女の笑い声が図書室に響き渡る。
「あ、いたいた」
グループの先頭を歩いていた女子がマリカを見つけるなり、マリカに近づいて行った。
マリカはそんな不良共も意に介さずに読書に耽っている。
先頭を歩いていた女子がマリカの読んでいる本を乱暴に取り上げて、挨拶した。
「マリカちゃん、ちっーす」
「こんにちは」
マリカは本を取り上げられても、嫌な顔一つせずに挨拶し返した。
「ねえ、これからコンビニ行くんだけど、あんたも来ない?」
「俺、財布忘れちゃってさあ。お金ないんだよねえ」
「ねえ、マリカちゃん、お金貸してくんない?」
グループがマリカを囲むような陣形をとり、マリカに詰め寄る。
「ごめんなさい。今、私、お金持ってないの」
「はあ?……マリカ、確か家、学校から近かったよね?」
「家からとってきなよ、ほらはやく」
「早く行きなよ、ほら」
グループの中の男子がマリカを強引に立ち上がらせて背中を押す。
「早くお金とってきなよ」
マリカが強く背中を押されて前に倒れ込む。マリカは数歩前に押し出されて自分の足に蹴躓いて床に倒れ込んだ。マリカが痛そうに震えている。
「やめなよ」
数学の教科書を閉じながら言う。
「はあ? お前、誰?」
グループの男子が不快な表情を見せた。
「え? 超顔面ブサイクなんですけど……」
グループの女子が陰口を叩くように小声で、かつ僕に聞こえるように言った。
「その子、読書の途中だったでしょ? 勝手な理由で、人の時間を奪うのはよくないよ」
僕はマリカを支えて起き上がらせながら、目の前の不良女子に言った。
「お前、何様? リキヤ、やっちゃってよ」
リキヤと呼ばれた不良男子が僕の前に立ちはだかり、僕を見下げる。
「なんだよ……」
僕が下から睨むと、リキヤは僕の腹に容赦のない膝蹴りを入れた。
「くぁっ……!」
僕は激しい腹の痛みに悶えて、その場に蹲る。
「うっはー! きも!」
不良女子が一斉に笑い出す。
僕は痛みを堪えながらゆっくりと起き上がり、不良共の顔を睨みつける。
「え……、なに? なんか見てくるんだけれど」
不良女子が僕から目を逸らし、少し距離をとった。
「見てんじゃねえよ! このカスが!」
今度は張り手だった。攻撃をもろに受けた僕は大きな音を立てて図書室の床に倒れ込んだ。身体に激痛が走る。
「……っつぅ!」
マリカが心配そうに僕をかばい、覆いかぶさる。
「やめてください! 帰ってください!」
構わずに僕はまたゆっくりと起き上がり、不良共を睨みつける。
「リキヤ、こいつ面倒臭いから、もう帰ろうよ」
グループの女子たちがリキヤにそう言ったが、リキヤは少し躊躇する様子を見せた。
「……ちっ。お前、明日ぶっ飛ばすから覚えてろよ」
ぞろぞろと不良グループが立ち去って行く。引き戸が乱暴に閉められて再び図書室に静けさが戻る。
「大丈夫? 立てる?」
マリカが僕を支えて立たせてくれる。
「ああ……ごめん」
「あの、ありがとうございました! 私をかばってくれて」
「いいよ。僕、前からあいつらのこと嫌いだったし……」
僕は咳込み、蹴られた腹をさすりながら言った。
「あの……なにか、お礼がしたいのですが」
「ああ、いいよ。気にしなくても」
「でも……」
マリカは握りこぶしを胸に当て、僕を見つめた。
「わかった。じゃあ……」
「なんでもしますよ?」
「……なんでも?」
僕は唾を飲み込んだ。……いいのか? ここは僕たち以外誰もいない図書館。二人きり。視線を下にやるとマリカの白く穢れのない脚が見える。スカートはウエストできゅっと閉まり、その上には胸部の控えめな膨らみが見て取れる。まだ発展途上の青い果実。穢れのない、身体―――。僕は再び唾を飲み込み、高鳴る胸の鼓動を必死に抑えた。
「……じゃあ、マリカって呼んでもいい?」
「え?」マリカは驚いたように目を見開き、僕の目を見た。「そんなことでいいんですか?」
「うん。ここでこうなったのも何かの縁だし、友達になっておきたいな、と思って」
「……そう。じゃあよろしく。リョウくん」
僕はマリカに自分の名前を呼ばれて少し恥ずかしくなった。この場から逃げ出したくなる。
「じゃあ、僕、これから部活だから、いくね」
「うん。部活頑張ってね」
マリカが本を読んでいる時とは違った優しい笑顔を見せて言った。
僕は急いで、数学のノートと教科書を鞄に仕舞い込み、そそくさと図書室を後にした。これから部活というのは嘘だった。今日はテニス部の練習がない日だった。本格的な喧嘩をしたのは生まれてこの方はじめてだった。しかし、マリカを助けるつもりが、最終的にはマリカに助けられてしまった。僕は自己嫌悪する。僕は無力だ。僕は無能だ。そんなことを思ったって強くなれないことはわかっている。しかし、どうしたらよいのかがわからない。所詮、人は自らの能力的な限界を受け入れて生きなくてはならないのだろうか。一生―――自分以上の者になれず、何者にもなれずに、僕は死んでいくのだろうか。そんな考えが頭に浮かんできたが、首を振って薙ぎ払い、僕はとぼとぼと家路についた。
***
翌日、僕はテニス部の朝練習に向かうべく、早起きして家を出た。自転車に乗っていつも通りの道を走る。朝の生暖かい向かい風を顔で切って進む。朝練習は自由参加だったが僕もアカヤも休んだことがなかった。アカヤの天才的でありつつ、そうした努力を惜しまないところもアカヤ人気の所以である。僕は朝練習にでたって結果がでていないので評価されない。せいぜい「頑張っているね」くらいだ。所詮、結果だと思う。過程を評価するにも限度がある。親や先生は過程が大事だというけれど、やっぱり結果が大事で、人は結果によって評価されたりしなかったりする。どうして僕は結果が出せないのか。努力が足りないのだろうか。でも、僕は控えめに言っても練習量は他の部員よりも多いし、努力が足りないとは考えにくい。アカヤはやるかやらないかだと言ったけれど、僕はやってないのだろうか。僕は努力していないだろうか。ネガティヴになりそうなので思考を断ち切る。
ほどなくして学校に到着し、駐輪場に自転車を停める。テニスコートに向かうと、もう誰かがラリー練習をしていた。
テニスコートを見渡してメンバーを確認する。すると、アカヤがいないことに気付く。
「よう、今日はまだアカヤきてねえのか」
「ああ。あいつのことだ。夜中まで勉強でもして机に突っ伏して寝てんじゃねえの」
同じテニス部の柊が言った。柊は色黒で、スポーツ刈りが特徴的なテニス部の二番手だ。ダブルスではアカヤとペアを組んでいる。僕はアカヤとダブルスをしたかったのだが、柊の方が僕より各上なので、それは断念せざるをえなかった。いつか柊を倒してアカヤとペアを組むのが僕の目標だ。
「アカヤはそんなヘマしねえよ。あいつが朝練を欠かすなんてことはありえねえ」
「そうかい。夫のアカヤが心配でたまらねえってか」
「うるせえな」
僕とアカヤはテニス部内で夫婦のような扱いを受けている。おそらく、一緒にいることが多いからだろう。部員たちはそのことを度々からかってくる。部員たちによると、僕が妻でアカヤが夫らしい。僕の身長が低く、かつ童顔だからだろうか。
僕もラリー練習に加わる。しばらくテニスボールを相手に打ち返すことに集中していたがふとアカヤの事を思い出す。遠くの時計台に目をやると、もう朝練の終了時刻だった。アカヤが朝練に来ない。アカヤがサボる。こんなこと今までに一度たりともあっただろうか。
「帰るぞ。一限に遅れちまう」
「アカヤ来なかったな」
「どんだけアカヤ好きなんだよ。もう結婚しろよ」
「だってあいつ朝練休んだの今日が初めてだぜ」
「……確かにそうだな。熱でもあるんじゃねえの」
病欠。それならいい。しかし、アカヤは皆勤賞の常連で、中学に入ってから一日たりとも休んでいない。早退したことはあったがそれは祖父の葬式に出席するからで、病欠は一度たりともなかった。アカヤも人間だった、ということだろうか。
僕は判然としないまま自分のクラスに行き、朝のホームルームに出席した。
***
放課後、僕は今日も今日とて下校する。家に帰るこの時間には今日も今日という一日が終わったな、という気分になり、あとは帰って飯食って風呂入って寝るだけか、と思うと少し悲しい気分になる。
あの日、アカヤは学校を休んだ。僕は驚いた。おそらくあの日はアカヤ史に残る一日だったろう。アカヤの連続出席記録に傷がついた一日だ。そして、数日が過ぎ、アカヤは学校を休み続けている。僕は驚きを超え、心配になってきた。アカヤに何かあったのだろうか。僕の周囲は、アカヤは若年性の癌に侵されて入院しているだの、頭が良すぎて精神を病んで不登校になっただの、好き放題に噂している。小学校の時から彼を知っている僕から言わせてもらうと、アカヤはそのどちらでもない。アカヤは健康の権化みたいな奴だし、そんな豆腐みたいなメンタルの奴ではない。アカヤは強い人間だ。しかし―――。
しかし、強い人間だからこそ、弱点がある。
弱点を見せることが出来ないという弱点だ。彼はいつだって完璧だ。しかし、それとは裏腹に学年一位のマリカに勝てない悔しさや葛藤、コンプレックスが彼にはあると思う。
僕はアカヤと一緒にいて話しているとそう感じる時がある。アカヤもアカヤで悩んでいて、でも人に相談できなくて。そういったアカヤの弱さを僕は知っている……つもりだが、本当のところは分からない。僕はアカヤを知ったかぶっているだけかもしれない。
僕は道中、アカヤとよく放課後の練習の帰りに立ち寄っているコンビニに入店する。店内にアカヤがいないか、確認してしまう。アカヤとは幼稚園からの腐れ縁なので、アカヤが隣にいない毎日が続き、逆に新鮮で開放的な気分になったりしたが、やはり親友である彼がいないとなると寂しいものがある。自分を構成する部品が取れてどっかへいってしまったようだ。
僕は何も買わずにコンビニを出て、等間隔に並ぶ電柱の向う側に沈む夕日を見つめる。陽炎だろうか、オレンジの視界がゆらゆら揺れている。アカヤは塾も休んでいるのだろうか。ふと、アカヤの勉強事情が心配になって、他人の心配するより、自分の心配をした方がいいと思い直して、僕は家には帰らず、自習するために私立図書館に向かった。
***
夕方の市立図書館は人が疎らで職員も心なしか少ないように思えた。僕は館内にある自習室に向かう。
「リョウくん」
後ろから僕の名前を呼ぶ声がする。振り返ると、マリカがそこにいた。
「あ、マリカ」
「リョウくん、久しぶり。いつもここにきているの?」
「いや、今日初めて来た。マリカは放課後いつもここに?」
「うん。ここら辺で図書館って言ったらここだけだから」
「そっか。マリカは本の虫だな」
「やりたいことをしているだけよ」
「やりたいことか……僕にはないな」
「そんな。きっとあるはずよ。目標とかないの?」
「目標か……アカヤとペアを組むことかな」
「アカヤくんって……最近休みがちの?」
「うん。原因不明なんだ」
「連絡とってみた?」
「なんか、しにくくてさ。アイツもアイツでなんか悩んでんのかなあって」
「そっか。リョウ君的には心当たりはないの?」
「うん、あいつ、結構コンプレックスがあるんだ。あいつ、学年二位だろ。マリカに何時まで経っても勝てないこととか、気にしているんだよ」
「……そうなの?」
「ああ。別にマリカのせいってわけじゃないけれど」
「……それが原因で不登校に?」
「いや、僕の勘では精神を病んでいるってわけではないと思うんだけれど、何かトラブルが起こっているんだと思う」
「トラブルね……今、リョウくんからもらった彼の情報から予測するに、彼は自我同一性の問題で苦労しているんじゃないかと思うの」
「自我同一性?」
「ええ。二十世紀の発達心理学者、エリク・エリクソンが提唱した概念で、彼はこの自我同一性の獲得が青年期の発達課題としているわ。おそらく……アカヤくんはこの自我同一性の問題で苦しんでいると思うの。自分は人より勉強ができるし、運動ができるけれど、自分を自分たらしめるものがなにもない。このまま上を目指しても上には上がいる。このままでは一生中途半端で終わってしまう。アカヤくんは自分を特定する何か、個性的な部分が何もないことに気付き、苦しんでいる。さっき、リョウくんがアカヤは定期テストで学年一位になれないことに苦しんでいるといっていたけれど、それがその自我同一性の問題に深く絡んできていると思うの。学年一位になれば自分は自分でいることができる。自分と自分はイコールで結ぶことできる、つまり自我が同一する。しかし、それができないでいる、ということに彼は苦しみ抱えていると思うの」
「難しくて言っていることが良く分からないよ……」
「分からないのは言葉の意味かしら……自我同一性という言葉は日本ではアイデンティテイという言葉で広く人口に膾炙しているわ」
「ああ、アイデンティテイね。わかるわかる」
僕は分かったふりをして、肯く。
「アカヤくんはきっと力を欲している……。今よりももっと絶大な力を。有能だからこそ感じる無力感が彼を追い詰めている。」マリカは丸眼鏡をくいっと上げて、真剣な表情で言った。「……そうね。アカヤくんはもしかしたら、アカヤくん自身の無力感に付け込む悪い人たちの餌食になっているかもしれない……」
「それって……」
「可能性の話よ。可能性として、アカヤくんは己の無力さを克服するために悪い集団に加わっているかもしれないということ……」
「本当かよ……」
動悸が来る。僕はアカヤが意外と弱い人間だということを知っている。アカヤは力を欲していたのだろうか。アカヤはマリカに勝てないでいる自分に満足できず、何か悪いことに巻き込まれているのだろうか。
僕はアカヤを本当に理解しているだろうか……。
「どちらにせよ、いいことではないわ。何か手伝えることがあったら言ってね、リョウくん」
「ああ、ありがとう。僕、これからアカヤを探しに行ってみるよ」
「うん。気を付けてね」
「じゃ」
「待って」市立図書館を出ようと背を向ける僕をマリカは呼び止めた。「くれぐれも危険なところにはいかないようにね」
「わかっているよ。僕もさすがに十四で死にたいとは思ってないよ」
市立図書館を出ると外はもうすっかり暗くなっていた。街灯の光が煌々と点き、そこに蛾がたかっている。僕はそれを後目にアカヤが行きそうな場所に歩を進めた。アカヤの安否を確認するにはやはりアカヤの家に行くのが常套手段だと思ったが、それはしたくなかった。アカヤに僕がアカヤを心配しているということを知られたくなかったからだ。アカヤが行きそうな場所に行って探してみていなかったら諦めて帰宅するつもりだった。僕は腕時計を見て、まだ親に怒られる時間じゃないことを確認して、まずはアカヤが通う塾に行くことに決めた。
***
アカヤが通う塾は中学校の最寄り駅に併設してあるものだった。中に入ると、壁一面が真っ白で蛍光灯の光を反射して眩しかった。室内は学習塾独特に匂いがして、受付にはスーツ姿の二十代半ばの女性がいた。
「すいません」
「はい、なにかな」
「藤代アカヤの友達なんですけれど……アカヤ、最近塾に来てます?」
「ああ、アカヤくんね……最近見ないわね」
「そうですか。いつ頃から来なくなりました?」
「そうね。来なくなったって言っても授業は週二回だから、まだアカヤくんは二回しか休んでいないわよ」
「そうですか、ありがとうございます」
僕はお礼を言って塾を後にする。二回休んだということはもう一週間休んでいるということだ。つまり、前にアカヤとコンビニに寄った時からもうアカヤは塾を休んでいたということだ。あの時、アカヤはカップラーメンを食べていて、僕が「もう帰る」と言うと、自分はこれから塾だからもう少しこのコンビニで暇を潰す、と言っていた。あれは嘘だったのだろうか。あの後、アカヤは塾へ行かずに何をしていたのか。
僕は街を歩きながら考える。夜の街は仕事帰りのサラリーマンやカップ酒を飲むおじいさん、髪の毛が茶色い女子高生、居酒屋の客引き、大学生の集団など入り混じっていて賑わっていた。僕はそんな人の海を掻き分けて進む。今日はもう諦めて帰ろう、そう思った瞬間、雑踏の遠くの方にアカヤらしき人影が見えた。
僕は走り出す。
「アカヤ!」
叫んでみるが、アカヤは振り向きもしないで雑踏の中に消える。刹那、アカヤを見失い僕は周囲を見渡してアカヤを探すが見つからない。
アカヤがいた付近まで来てもう一度周囲を見渡すと、奇妙な雰囲気を醸し出している路地裏が目に入る。商業ビルと、空きテナントの建物の間にある細い路地だ。路地は夜だとしても異様に暗く、かつ段ボールや木片、空き瓶などが散ばっていて汚かった。
僕は恐る恐る路地を覗いてみる。すると、奥の方にドアのようなものがあることがわかった。アカヤはここら辺で一瞬のうちに姿を消した。もしかしたらこの路地に―――。
僕は勇気を振り絞って狭い路地を進む。途中で木片に躓きそうになりながら、壁を伝って、暗い中、やっとの思いでドアまで辿り着いた。
僕はゆっくりとドアを開ける。
すると、中から冷えた風が一気に吹き出してきて僕の前髪が乱れる。
僕は中に入り、片足で暗くて何も見えない足元を確認する。どうやら目の前に階段があるようだった。僕は一段一段確認しながら一歩一歩階段を降りた。すると、途中から階段の段が無くなっていた。
僕は見事に足を滑らせて訳が分からないまま滑り落ちる。どうやら途中から滑り台のようになっていたらしく、僕は数十秒間、叫び声を上げながら滑り落ちていき、地下室のような場所に転げ落ちた。壁に等間隔でライトが取り付けられていて先ほどよりかは明るかったが、何だか旧日本軍の防空壕を彷彿とさせるような場所だった。
恐る恐る奥に進むと、またドアがあった。ドアにはドアノブが無く、のっぺらぼうな防火シャッターのようなもので、隣の壁にボタンがついていた。
僕は試しにそのボタンを押してみる。すると赤く点滅して、機械的な駆動音を唸らせてドアが上に開いた。白い煙が立ち込めたのち、その室内の全貌が明らかになる。
部屋の中は何かの研究室みたいな空間で、サイケデリックな幾何学模様を映し出したモニターや、訳の分からないプログラミング言語がスクロールされているディスプレイ、キーボード、タッチパネルなどが所狭しと並べられていた。天井は複数の電線とパイプ管が通っており、精密機械の城だった。
機械達が駆動音を上げて、不気味な光を点滅させ、僕を囲んでいる。
恐る恐る、ゆっくりと奥に進んでいく。
「うわあ!」
途中でコードの束らしきものを踏みつけて驚き、大きな声を上げてしまった。誰かくる、と思ったがここには自分以外誰もいないようだった。
周囲をよく確認しながら、奥に進んでいく。すると、道が右に折れていたので、右に曲がる。
すると、そこには。
たくさんの水槽が等間隔に整列していて、その中には裸の中学生ぐらいの男女が薄緑色の液体に浸かって保管されていた。
「なんだ……これ」
僕は驚愕のあまり、意識を失いそうになった。ここはだめだ――子供が、僕が来てはいけない場所だ。僕の額を一筋の汗が流れる。
僕は呼吸を荒げながら、水槽が並ぶ道を、音を立てないように進む。
僕はアカヤとの会話を思い出した。
“
「見ろ、これ。また例のニュースだ」
「ああ、子供が連れ去られるって奴だろ?」
「なんなんだろうな。子供ばかり」
「どっかのロリコンがハーレムでも作ってるんじゃねえの?」
「いや、男女関係なくいなくなっているらしい」
「犯人はきっと男と女どっちもいけるロリコンなんだよ」
「すげえな。ショタもいけるのか」
「お前、さらわれないように気をつけろよ」
“
子供がいなくなる事件。それも中学生くらいの子どもばかりが疾走する事件。僕は今、見てはいけないものを見てしまっているのかもしれない―――。
もうだめだ――そう思い、慌てて引き返そうとした瞬間。
一つの水槽が目に入ってきて、僕はその場で動けなくなった。
―――アカヤだった。
水槽の中で、僕の親友、アカヤが、液体に浸かって眠っていた。
To be continued.
読んでくれてありがとうございます。
続きは順次発表していくつもりです。
では、あなたのより豊かな読書ライフを祈って。
2016/8/13