平民と貴族のお嬢様の魂が入れ替わったようですが、お互い合意の上でこのまま過ごしたいと思います。
ターニャは目が覚めて、見覚えのない天井に違和感を覚えた。
昨日は間違いなく、夜自分の部屋に戻って眠った筈。だというのに、今見えるのはターニャの愛用する天蓋ベッドではない。
粗末な薄汚れた、木の天井。
おまけに、寒い。布団は厚さがなく、マットレスはへたっているのか身体のあちこちが悲鳴を上げていた。
夢かと思って、布団を頭から被る。
けれど、さわりと布団が頬を撫でる感触が妙にリアルなのだ。思わず自分の頬を抓る。痛かった。
此処が夢でない事を確認すれば、ターニャは飛び起きて辺りを見渡す。
今眠っていたベッドと、服が十着も入らないだろうクローゼット。それに小さな机と椅子。
部屋にはそれだけだった。大きさはターニャの自室の半分以下。
目を瞬かせた。然しすぐに警戒する。
こんな風に拘束される事もなく眠っていたからといって、目が覚めて知らない場所だなんていうのは――大体誘拐だと、相場は決まってるのだから。
けれど、暫く経っても物音一つしない。ターニャは首を傾げる。
そんな折、突然誰かが階段を登ってくる音が聞こえた。一瞬ぴくりと肩を揺らすが、すぐに臨戦態勢を取る。
直ぐに、扉が開かれた。
「あ、なんだミレア起きてたのね。なら早く支度して降りてきなさい。朝ご飯はもう出来てるから。遅刻するわよ」
優しそうな顔付きの女性。少しふくよかだ。ターニャを見て笑えば、言うだけ言ってさっさと部屋から出て行く。
けれどターニャはぽかん、と口を開けた間抜けな顔を晒していた。
それもそうだろう。なにせ今の女性はターニャ、ではなくミレアと呼んだのだから。
ミレア。それはターニャが通う学園に通う平民。最近ターニャの婚約者である王太子が懇意にしているとも聞く。
ターニャは王太子が好きではない、というより嫌いであったので、それはまあ如何でも良かったのだが。
それより問題なのは、何が如何なっているのかという事。
慌てて姿見を探す。然し、そんなものはない。小さな手鏡でも、と思ったのだが。その前に、偶然窓硝子に姿が映る。
その日の朝。とある家の中から大きな悲鳴が聞こえ、街中に響いた。
* * * * *
「おはよーミレア! ……って顔色悪いよ? 大丈夫?」
「………………えっ、あ、うん。大丈夫だ、よ、平気平気」
「そう? それならいいんだけど……あんまり無理しないようにね」
驚愕の余り布団を頭から被ったターニャであったが、母は強し。あっという間に剥がされ、学園に向かわされる事になる。
ミレアとターニャは殆ど関わりがない。クラスさえ違う。
だからどんな風に喋り、どんな風に過ごしていたのか分からなかったが、どうやら間違ってはいないらしい。
呼び慣れない名に、すぐは反応できなかったけれど。
とりあえずミレアの席に荷物を置こうと思った。のだが、ミレアの席が分からない。
困惑した表情で立ち尽くしていれば、ミレアの友人らしき人物が如何したのかと問い掛けてくる。
逡巡した結果、素直に聞く事にした。
友人らしき人物は一瞬目を瞬かせていたが、すぐに笑う。
「良くど忘れすんねー。ミレアらしいっちゃらしいけど。ほら此処。此処がミレアの席だよ」
如何やらミレアは物忘れが激しいらしい。念の為に、頭の中にミレアの情報を書き込んでおく。
感謝の言葉を述べて、机に荷物を置く。そしてミレアの友人に一言告げて、教室を出た。
向かう先は、ターニャが在籍するクラス。自分の事だ。覚えている。
歩き慣れた廊下を進み、後少しでクラスに辿り着きそうになったその時。
ターニャは誰かに腕を引っ張られた。それも思い切り。
然し、痛いと声を上げる前に口を塞がれてずんずんと何処かへ連れて行かれる。
嗅ぎ慣れた匂いがした。そうするときっとターニャを運んでいるのは、ターニャの身体だろう。中身はきっとミレアに違いない。
暫くして、何処かの空き教室に入る。そうしてようやっと、ターニャは解放された。
「……ターニャ・クルスト様?」
「そういうあなたは、ミレアね?」
向き合う。先に口を開いたのは、ターニャの姿をしたミレアだ。やっぱりターニャの読みは当たっていたらしい。
お互い確認を済ませれば、何方も同時にため息をつく。
「如何してこうなったか、あなた分かるかしら?」
「……いいえ、全然全く。朝起きたら、見覚えのない豪華な部屋にいて……それで、その。部屋にあった姿見に映った姿がターニャ様でしたので、もう何がどうなったのか、と……」
「そう。あなたもなのね。実は私もなのよ。困ったわね」
二人して頭を抱える。解決方法を相手が知っている、とは何方も思っていなかった。
けれど、当事者二人共が何も知らないとなると八方塞がりである。
「とりあえず、今はこのまま過ごすしかないでしょう。すごく不安が残るけれど」
「ええっ⁉︎ 私お作法とか何も出来ないんですよ! 如何やってターニャ様の振りをしろっていうんですか!」
「見様見真似で如何にかなさい。最悪、身体は覚えてるっていうでしょう。きっとなんとかなるわ」
「そんなぁ……無茶苦茶ですよ……ただでさえ、すぐ近くに高位貴族の方がいっぱいいて、緊張しちゃうのに……」
ミレアが情けない声を上げた。けれどそればっかりは如何しようもない。
なにせいちいちターニャが手伝ってやれるわけではないのだから。
けれどそこで一つ、名案が浮かぶ。
「如何しても駄目だったら、王太子殿下に泣きつけばいいわ。あの人、あなたの事気に入っていたみたいだしなんとかしてくれるでしょう」
「こんな突拍子もない事、信じてもらえませんよ! それ以前に殿下はきっと、ターニャ様が殿下の気を引こうとしていると思って、相手にもしてくれないと思います……」
「……そう思われるのはかなり遠慮願いたいわね。やっぱり先程の案は却下ということで」
ターニャの眉間には思い切り皺が寄っていた。ミレアが小さく悲鳴を上げる。
自分の顔が不機嫌そうなところは、初めて見たのでびっくりしたらしい。
ただターニャの悪役顏でそうされるよりはマシだと言ったので、ターニャは笑顔でミレアの足をふんずけてやった。少しだけすっきりした表情になる。ミレアは半泣きだった。
そんな事をしている間に、予鈴が鳴る。何の解決策も生み出せていない。
ミレアは慌てたが、ターニャは落ち着いている。
「落ち着きなさい。昼休憩までに、あなたの性格、口癖や口調、仕草の癖や交友関係、後は家族構成なんかを全て紙に書き出しておきなさい。そして、昼休みにもう一度此処に来るのよ。良いわね?」
「わ、わかりました……! 書けるだけいっぱい書いておきます!」
「宜しい。それじゃあ今は解散しましょう」
何故かぴしりと敬礼したミレアを白い目で見てから、ターニャは空き教室を後にした。
* * * * *
二人が入れ替わって随分と日数が経った。けれど少しも戻る気配はない。原因さえ不明のまま。
それもそうだ。二人は誰にも話していないのだから。ただの学生である二人に分かる筈もない。
けれど二人は今の生活に、一切の不服はなかったのだ。
勿論最初は、お互い慣れない事の連続で――ターニャは労働、ミレアは礼儀作法や令嬢たちの集まりだ――疲労困憊していたけれど。
以前、否本来の姿である時よりも二人共が随分と生き生きしているように見える。
多少性格を偽る事には、疲れているようだけれども。それもお互い日が経つにつれて、徐々に本来の性格が出ていた。勿論二人は気付いていない。
周囲の人間は変化に戸惑っていたが、今ではすっかり馴染んでいる。
「ターニャターニャ、今日はクァンヒ伯爵とマリアン子爵のご令嬢と一緒に実習したよー。結構仲良くなれそうな感じなんだけど、おつきあいしても平気かなぁ?」
「そうね。その二人なら問題ないでしょう。ところで、私の方は相変わらず殿下が鬱陶しいわ。身分が平民だから無下に出来ないのが、いっそ腹立たしいくらい」
「えへへー、そういうのは愛されてるっていうんだよ。良かったね、ターニャ!」
「……ねえそれは私に対する嫌味かしら?」
「いひゃいいひゃいいひゃい!」
そして、ターニャとミレアの密会も毎日の恒例になっていた。
流石に昼休憩だと怪しまれるので、放課後だが。
お互いに身辺を報告しあい、何時戻ってもいいように備えているのだ。内心では、何方も戻りたくないと思いながらも。
不快な事を言われたので、ターニャは思い切りミレアの頬を抓る。そこには少しの妥協すらない。
解放されたミレアの頬は痛そうなくらい真っ赤に腫れていた。
「うぅー……ターニャの意地悪」
「なんとでも言いなさい。貴方が悪いのだから」
つんとした態度で対応する。ミレアも自分が悪いと分かっていたので、素直に謝った。
「……それにしても、何時戻るのかなぁ」
「さあね。それがわかれば苦労しないわ」
「そうなんだけど……私、戻りたくないなぁって。だって戻ったら、ターニャとのこの時間もなくなっちゃうでしょ? それに、折角仲良くなった子もいるのに……」
「……まあ、貴方の気持ちもわからなくはないわ。でも、家族は如何するの。入れ替わる前に交友関係のあった子は? そう考えると、……戻っても戻らなくても、一緒なのよね」
二人の間にしんみりとした空気が流れる。入れ替わって長く過ごしてしまったが為に、戻るにしろそうでないにしろ、何方かを捨てなければならない。
それに、何時戻るかも分からないのだ。難しい問題だった。
「よしっ! 決めた! ターニャ、私決めたよ!」
「一体何を?」
「私、ターニャさえ良ければこのまま過ごす! 過ごしたい! あのね、その……実はターニャには言ってなかったんだけど、領地経営、少し手伝っててね」
「……ごめんなさい。少し耳が遠くなったわ。今なんて言ったかしら」
「だから、領地経営を手伝わせて貰ってるの。お父様がやってるの見て、ちょっと興味が湧いて独学してたら、やってみるかーって言われて」
「そう、……そうだったの。それで?」
「うん。それがとっても楽しくて。確かにお母さんやお父さんたちの事も気になるけど……でも、ターニャが教えてくれるなら……って思ったの」
「……私もね。実は、お店を手伝うのがとても楽しいの。最初はただの売り子だったのだけれど、今度パンを焼く手伝いをさせてくれるって。嬉しかったわ。それに……自分が働いてお金を得るっていう事が、とても楽しくて仕方がないのよ」
どちらともなく顔を見合わせる。そして笑った。如何や。ら考えていた事は二人とも一緒だったらしい。
結論は出た。もう迷う事は何もないだろう。
万が一元通りに戻ってしまってしまった場合の事を考えると、こうして結論を出してしまうのはどうかと思ったけれど。
ずっとなあなあにして生きていく訳にもいかないのだ。それぐらいなら、早く決めてしまう方がいい。
ターニャの顔にもミレアの顔にも、そこに迷いは一切なかった。いっそ少し前より、随分とすっきりしている。
「私は、ミレアとして生きるわ。平民のパン屋の娘ミレア。それが私」
「私はターニャ・クルストとして生きる。クルスト侯爵家の長女……あ、でもまだわからない事だらけだから、教えてね」
「……締まりないわね。まあそれがあなたらしいといえばあなたらしいけど。いいでしょう。私が教えられる限りの事は教えてあげるわ」
「さっすがターニャ! すきだよ!」
「はいはい。わかったから離れてちょうだいね」
ぱっと顔を輝かせ、ミレアはターニャの後ろから飛び付く。
口ではこういっているが、然しターニャも満更でもなさそうだった。
それから二人は結局生涯、元に戻る事はなかったけれど。二人とも、とても幸せな人生を全うしたという。
また生涯に渡って、二人は交友を続けた。
中には平民と貴族、という事で奇異の目でみる人たちもいたが。ミレアとターニャのお陰で、かなり平民と貴族の壁は取り払われたらしい。
如何して入れ替わったのか、原因を知る事は出来なかったけれど。二人は口を揃えて言った。
――入れ替わって良かったと。