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リツは仕立て屋での仕事を終えて、家への帰り道を歩いていた。
疲労の色は隠せないが、一日の仕事を終えた安堵感からか、その足取りは軽い。
つい最近、やっと一人前の仕立て人になったリツは、街の南端に小さな家を借りて一人で暮らしていた。
母を流行病で亡くすと同時に仕立て屋の仕事を始めて三年が経った。
今年で十五になるリツにとって、この三年間は過酷だった。
母を失ってから仕立て屋を営む叔母に引き取られ、悲しむ間も無く生きるために必死で仕事を覚えた。
叔母の家に置いてもらうために、寝る間も惜しんで家事全般を請け負った。
叔母は厳しい人であり、働かざるもの食うべからず、甘えることは許されなかった。
しかし、家族としての関係は築けなかったものの特別理不尽な扱いをされることもなく、手に職をつけることができた。
一人前となり、給金を出して貰って、生計を立てることができるようになった。
だからきっと、自分は孤児としては恵まれている方だろうとリツは思っている。
三つ下の叔母の息子は学校に通っていたが、彼は家族で自分は他人だからと、そう理解し、納得していた。
時折、叔母が息子に向ける笑みを見て胸がきゅっと締め付けられたように痛むこともあったが、忙しい日々のなかで、そんな痛みも次第に消えていった。
時折、素肌を撫でていく風がきんと冷たい。
風が吹くたびに、リツのチョコレートブラウンの髪がはらりと揺れた。
寒さで頬は紅く染まり、乾燥のためか髪と同色の瞳は潤んでいる。
今日はちょっと贅沢にスープにお肉でも入れようか、たしか材料は家にあったからと、温かいスープに思いを馳せて、リツはかじかんだ両手をこすり合わせた。
通りの途中途中にあるお店に入ってうっかり買ってしまわないように、遠目に眺めるだけにとどめる。
青果店の店先から、柑橘系の香りがふわっと香る。
その隣の雑貨店では色とりどりの髪飾りが、夕日を控えめに受け止め、並んでいた。
この辺りでは大きめのお屋敷の庭には、立派な赤い花が咲いていて、その花の前だけ、少しだけゆっくりと通り過ぎた。
もう少しで家に着くというところで、ふと不思議な感覚に誘われて、左横に視線を向けた。
すると視線の先の建物と建物の間に、見慣れない路地がのびている。
いつも通っている道なのだからその存在を知らないはずはないのに、いくら頭を捻っても、そんな路地は記憶にない。
ここはたしかに、ぴったりと隣り合っていたはずだった。
路地の奥は夕方の通りの明るさと比べて不自然なほど暗く、覗いてみても二、三歩先までしか光が届いていない。
不気味な雰囲気にも関わらず、なぜだか嫌な感じはしなかった。
突然現れたのだろうか。
リツは辺りを見回してみるが、日が沈み始めるこの時間にもある程度人通りのあるこの通りで、今この路地を気にかける人は皆無だった。
誰もが当たり前のように路地の前を通り過ぎていく。
やっぱり記憶違いだとは思うが、リツはそれでもどこか釈然としなかった。
リツはどうしても気になって歩みを再開させることができずに、寒さに耐えてその場で思い出そうと頭を捻る。
すると視界の端、路地の奥でぽう、と光が灯った。
視線を向けた路地の奥には、灯りに照らされる古びた扉があった。
びっくりして、リツはぱちぱちと数回瞬きする。
幻かと思って目をこすってもう一度まじまじと見てみたが、古びた扉は変わらずそこにあった。
ふと、はじめに路地を見つけたときと同じ、不思議な感覚が満ちてくる。
こっちにおいでと、手を引かれるような、誘われているような。
扉までの道は相変わらず暗いままだが、恐怖はなかった。
リツは誘われるままに、路地の奥へと歩みを進めた。
目の前で見ると、扉は思っていたよりだいぶ古びていた。
右上の突き出た板の上に、見たことのない橙色に発行する球体がのっている。
緻密な細工が施された取っ手は黒ずんでいて、握るとひんやりと冷たかった。
生温い風が吹いて、チョコレートブラウンの髪を揺らす。
開けて、と誰かが囁いた気がした。
リツは無意識に詰めていた息を吐く。
壊さないようにと注意しながら、思い切って扉を開いた。