商工会
「――ハア」
商工会会長ノルディック・ジアラは深々とため息をついた。
年は四十後半だが、頭髪や体型は若い頃とさほど変わっていない。流石にシワなどは増えているがもともとが精悍な顔つきであり、最近伸ばし始めたヒゲもそれに拍車をかけていた。灰色のズボンに茶色のシャツといったシン
プルな出で立ちも、よく似合っていた。
「――ハア」
容姿も悪くなく、健康であり、地位にも恵まれ、おまけに妻子もいるというのにため息は止まない。むしろ、逆だ。恵まれているからこそ、満たされているからこそ、吐き出さずにはいられないのだ。
ノルディックはチラリと部屋を一瞥する。
ノルディックの他には男性職員と女性職員が各一名ずつに、受付嬢が一人だ。古びた机と椅子に座り、職務をこなしている。天井や床も老朽化やヨゴレが目立っており、お世辞にも綺麗とは言い難い。そして、なによりも静かすぎる。
ここは商工会である。商工会の主な業務は簡単にいえば斡旋所である。
アルバイトやパートといった職業が大半を占めている業務が以外と存在するように、特殊な知識や技能がなくても可能な業務というのはどのような職種であれ大小存在する。現在日本ならばそれらはWEBや求人雑誌で簡単に閲覧することができるが、識字率が低いこの世界ではそうはいかない。専門の業者が必要であり、需要と供給を結びつけるのがここ商工会の役目であり、――そして、ギルドの役割でもある。
ギルドと商工会は業務自体にそう違いはない。だが、規模が段違いだ。
商工会が街レベルであるのに対し、ギルドは全国規模だ。その差は様々なものを生み出す。
その一つがブランド商品である。全国規模であるギルドは独自の交通網を持っている。それを情報伝達だけではなく流通にも使い、各ギルドに商品を卸している。鉄製品ならば鉄の名産地、羊毛製品なら羊毛の生産地、小麦ならば麦の生産地と、全国に支店があり流通網があることを利用し安価で大量生産し、全国の支店で販売している。質よりも量をとっているがその分値段は安い。そして、当然であるがギルド会員であれば、各種割引や優遇はある。
他にも依頼失敗時の依頼者への保証、他の街への斡旋、就業情報の提供など、全国にあることを利用したサービスは街単体の商工会レベルでは太刀打ちができない。
そして、なによりもギルドカードの存在がある。ギルドカードはギルドが身元を保証するという、身分証明書だ。商工会にも似たようなものはある。だが、全国のギルドがある地域で使用できるものと、ただの街でしか使えないものとなら前者を選ぶのは必然であろう。
そういった差が、商工会の現状を作り出していた。すなわち、依頼人が来ないということだ。
商工会が街の組織である以上、人同士の縁があり依頼は皆無というわけではないが、非常に細々としたものであり新規の加入者や依頼人はまず来ない。いつまでも横ばいのままであり、いつまでも底辺ということであり、それがノルディックのため息を吐き出させる原因であった。
「――ハア」
三度目のため息が繰り出される。それは常ならば終わらず、すぐに四度目のため息が聞こえるはずだった。
けれど、今日はそうなることはなかった。一人の青年が商工会の扉を開いたからだ。
「あの、魔石の買取と商工会の登録をおねがいしたいんですけど」
扉を開け、商工会館に入室してきたのは、見慣れぬ青年だった。
茶褐色のフード付きローブを足の先までまとい、わずかに見える髪は黒く、この辺では見かけない色だ。
どこからどう見ても怪しい格好だが、珍しいというほどのことではない。といってもそれは、流行などといった理由ではない。単純に商工会が、そういった連中を引き寄せるだけだ。
ギルドカードにはステータスが表示される。悪用や吹聴はないとされているが、人の目に触れる以上ゼロという可能性は存在しない。となっると、そんな技術はない商工会にスネに傷あるワケあり者がたどり着くのは自明の理である。そして、万年閑古鳥が鳴く商工会の方も胡散臭いと思いながらも拒絶はできず、それが雰囲気の悪化にも一役買っていることはわかっていたがどうしようもできなかった。
このフードをかぶった青年もその類だろうと思い、対応しようとしていた受付嬢を手で制し、ノルディックは対応に回ることにした。紳士の彼としてはいくら仕事とはいえ、女性を得体の知れない男の前に出す気にはなれ彼自身が応対することにした。余談だがこういった彼の潔さに惹かれ、泥船と知りつつも従業員は辞職せずに運命を共にしていた。
「ようこそ、いらしゃいました。魔石の買取ですね、ではこちらのカウンターの上に魔石を置いてください」
ノルディックは笑みを浮かべ、右手を木製のカウンターに向けた。ギルドの方が商工会よりは優っている部分は多々あるが、接客という店では商工会に軍配が上がるだろう。
礼儀というものは金がかかる。なぜならば、それはある種の専門技術だからだ。媚を売るのではなく、不快にさせることのない礼儀というものは学ぶ機会のないこの世界において十分技能と呼べるものであった。
そしてそれはフードの男――和也にとってどこか日本を思い出させるものであり、思わずほおを緩めるような春の日差しにも似たぬくもりだった。
――ゆえに元々無いこの世界の常識が更に軽くなっていた。
「わかりました。これになります」
そう言うと和也は魔法を使い黒い穴のようなものを出現させると、勢いよく魔石を吐き出させた。それはたやすくカウンターを満たし、床に硬質な音を立ててこぼれていくほどだった。
この場にいる全ての者が、声を出せずにいた。理由は簡単だ。驚きである。そう、和也自身も驚愕していた。自分の魔法の特異性など知らぬゆえに、魔法自体は使うつもりではあったが少量を出す予定だった。だが、慣れていないことと気が緩んだせいもあり、制御が上手くいかず現状となってしまった。流石にこれでは白を切るわけにもいかず、ポーカーフェイスを気取りながらも内心は冷や汗を流していた。
そんな和也の内面などを知らない商工会の面々だが、内に秘めた気持ちはさして変わるものではない。今もなおカウンター一面どころか床を染めつつある魔石もそうだが、気軽に魔法を、それも扱うものがほとんおらず使い手は伝説の中がほとんどという、知名度だけは高い時空魔法である。驚くなという方が無理な相談だ。
あんぐりと大口を開き目を見開いていたノルディックだが、吹けば飛ぶような商工会ではあるが伊達で会長は行っていない。すぐに我を取り戻すと二度唾液を嚥下し無理やりのように気を落ち着かせ、大量の魔石とフードをかぶった和也に視線を向けた。
気分が静まると次にわいてきたのは、疑問だ。
魔石の需要は高い。魔具の類には必要とされ、薬を作る際の素材にもなれば、ゴーレムなどの魔法生命体のエサにもなる。一般人にこそあまり縁はないが、必要とする者は多い。そのくせ、主に魔物の体内からしか取れず、危険で強い魔物程大きく質のいい魔石を落とすとなっては価値が高いことは当然というものだ。現にギルドでも高額で買取を行っている。
だからこそ、ノルディックは解せなかった。なぜ、ウチなのだと。伝説に語られる魔法を使え、大量の魔石があればどこだってやっていける。それこそ、第二の伝説だともてはやされることだろう。人通りのない寂れた商工会に来る意味がわからない。買取額とて、ギルドの方が高いのだ。
名声も金もいらない、なんとも無欲な話だがそんなことを本気で信じられるほど、ノルディックの頭はお花畑ではない。腐っても商工会の会長だ。甘い話に踊らされ、商工会を潰し従業員を路頭に迷わせるわけにはいかない。ゆえに彼は考える。目の前にある事象を並べ、筋道が立つように。奇想天外などない、ある種平凡な思考こそがこの世の真実だと知るがゆえに。
だからこそ、ノルディックは再度驚かずにはいられなかった。順序だて、偏見や拒食におごりを捨て、曇りなき眼で思考した末の答えは非凡なものだったからだ。
亡国の王子。それも復讐に身を焦がす情念の王子だ。理由はある。その一つが全身を隠すようなローブだ。人に見せられないということは、事情があるということだ。それを証明するように自分の正体がバレないこの場所でひっそりと、大金を得る。多少の金額の多寡よりも、人目を忍ぶことのほうが大事だからである。ノルディックは震えた。自分の完璧すぎる推理と洞察力に。
王子の説明もなければ、なぜ復讐に身を焦がしていうかの理由もないのだが、都合のいい解釈に曇った瞳ではそんな些細なことは目に入らず、ノルディックは自分の思い込を疑うことはなかった。
実際のところは自前のものがスーツしかない和也が目立たぬよう、そしてなるべく迷惑をかけないため、旅用のフードつきローブを借りただけである。要は目立たぬように変質者が裸の上からコートを着、ごまかすようなものだ。
そうとは知らぬノルディックは自分の推理に悦となり笑みを浮かべるが、その表情はすぐに陰る。
これまた理由は簡単だ。
金がないのである。
経営状態はギリギリ黒字という状態であり、今すぐつぶれるというわけではない。だからといって、余裕があるわけではない。ダンジョンまるまる一つ分にもなる、魔石の売却額を払えるほどの金額は持ち合わせていなかった。
とはいえ、方法がないわけではない。魔石は売れることが、半ば確定している商品だ。それを担保に金を集め、和也に渡すことは不可能ではない。しかし、そんな行為をノルディックは快しとしなかった。
一商売人として、なによりも、人として、彼の矜持がそれを許さなかった。
ゆえに、ノルディックの口から漏れた言葉は謝罪だった。
「お客様、申し訳ありません。当方のほうに落ち度がありまして、お客様にお持ちいただいた魔石に見合う金額を払えない状況にあります。誠に申し訳ないのですが、別の店での売却をお願いたします。この度は本当に申し訳ありません!」
ノルディックは腰を折り、頭を下げた。
そこにどんな思いが込められていたのかを、知る者は本人以外いない。誇りがノルディックに謝罪という選択を与えたが、誇りは同時にこうも叫んでいた。儲けろ、と。それもまた、商売人として、人としての言葉だ。どんな状況であれ儲けを出すのが商売人であり、不況真っ只中で矜持などと格好つけている場合でもない。
どちらの理屈も間違ってはいなかった。むしろ、正しくあったのかもしれない。だからといってそれは慰めにもならない。賽はふられた。それだけのことだ。そして、結果は神のみぞ知る。己が望んだ答えが出るとは限らない。
「――そうですか」
去っていくのだろうと、ノルディックは頭上から届く声を聞きながら思っていた。
後悔がないわけではない。けれど、十分に満足している自分もいた。不思議であった。だが妙に納得もしていた。正直に生きる、ただそれだけのことが、意外に難しく心地よかった。
だからこそ、もう何も望んではいなかった。自己満足にも似た矜持を満たせただけで、価値はあったのだ。
「それなら、現物と交換とかはできますか? 家とかそういう、不動産とかで」
だが、いつも、神は誠実なるものを見捨てない。
神は決して手を差し出すことはない。ただ無言で見つめるのみだ。しかし、それゆえに人は神に救われるのだ。
奇跡を願わぬがゆえに、人の身の、己という存在の可能性を信じるがゆえに。
神のまなざしに目を背けず、ただひたすらに受け止めるからこそ神は静かに微笑む。
もっとも、今回の場合は和也に選択肢がなかっただけだが。
現時点での和也の頭には魔石を売却できる場所というものは、ここしか存在していない。
売却だけならばギルドで可能かもしれないがそれにより目をつけられる可能性があるため、ギルドに関わるつもりはなかった。もっとも、人の噂に戸は立てられぬ以上和也のことが露見するのは時間の問題だったが、この世界の常識がないため自分の行いがどれだけ非常識かわからぬ身には考えの及ばぬことだ。
市場や直接生産者に卸すという手段もあるのだが、現代の日本に生まれ育った身ではまずそんな選択肢は思い浮かばない。正確には頭の片隅程度にはあるのだが、方法がネットオークションしか思い浮かばず、スーパーなどの小売業で消費者と死の立場からしか売買を行ったことしかない和也には論外な手法だ。
そのため多少の問題がろうとも、和也はこの商工会で魔石を売却する腹積もりだ。
和也はそれほど、お金に執着はしていない。もちろん、聖人君子ではないのであるに越したことはないと思っている。家が貧乏であったからこそ、その価値はわかっている。だが、その上で金銭に拘らず生きていく楽しさも知っていた。
そして勤労の意味も理解していた。母が女手一つで、汗水を流し手に入れた対価は尊いものだ。自分で働くことにより、その価値はさらによくわかった。ゆえに金銭を得るのなら労働をしてこそという、考えが染み付いている。
ましてや、平和な日本で育った生粋の日本人。こちらの世界では下手をすれば、偽善とも取られない価値観が染み付いている。きっかけこそは魔石を得るためだったが、本来の理由としては善意が強く、放っておけなかったというのが実情だ。金を得るのが目的ではないため、それを便りにするような生活を送る気はなかった。それにいつまでもルシールの家に迷惑をかけるつもりはなく、生活基盤の確は急題だった
そのために出た和也の言葉だったが、事情を知らないノルディックには戸惑いしか与えなかった。そうまでして、引き下がる理由が見えなかったからだ。だが、彼とて商売人、お客から請われれば内心を表に出さず対処するのは朝飯前だ。不動産業者の仲介もしているが、いくつかは所有している物件もある。あまり、価値のあるものはないが。
「家でございますか。そうですね、三件ほど紹介できますが」
「そうですか。それはどんなものですか?」
「一つは老夫婦が住んでいたものです。娘夫婦のところに引越し、空いた家です。老朽化が進んではおりますが、少し手直しをすれば問題ありません。次は没落した貴族の館です。問題は特にありませんが非常に広く、何人もの使用人が必要です。そして最後ですが、工房になります」
「工房ですか?」
「はい、腕のいい鍛冶職人が住んでいたんですが、寄る年波には勝てないということで引退し、引っ越したんです。お弟子さんもかなりいたので広く、市街地にも近いんです。色々と物は残っておりますので、住むならば改修は必要ですが」
和也は悩むように腕を組むと、眉間に皺を寄せた。
表情の陰りが出るのは、仕方ないことだ。和也には技術がない。
社会人生活をしていたがそこでの経験は、この世界では役に立ちそうもない。元の職業はシステムエンジニアだ。パソコンがない以上同種に就くのは不可能であるし、デスクワークで落ちた体力では力仕事ができるとは思えなかった。
これが小説や漫画ならばダンジョン攻略や魔物を打倒し金銭を得るのだろうが、和也にその発想はなかった。危険ということもあるが、それ以上に自分の性に合わないと感じたことが大きいだろう。浄化という死者のためにに行う行為だとしても、後味の悪さのようなものが粘りつくように残り自分の手のひらが酷く薄汚れて見えた。実際に魔物を殺害したならば倍以上の不快感にさらされるのは間違いなく、進んで確かめる気にはなれなかった。
何をしたいかで仕事を選べるほど、和也は夢を見ていない。何ができるかで、考えてしまう程度には現実主義だ。
そして、その思考で言うならば和也は自身のある能力に目を付けていた。
クリエイトアーティファクト、その説明には魔具を作る出すと記載されていた。能力を使用していないためどのような形になるのかは不明であったが、魔法の例を見る限り簡単に扱えるではないのかと和也はふんでいた。物作りを行うならば、様々な工作ができるであろう工房は勝手がいい。鍛冶場なら、なおさらだ。だが問題は広さだ。独り身で、広すぎるのは却って不便だ。それならば、老夫婦の家を改築したほうが良いかもしれない。二人暮らしだった夫婦の家だ、半分工房にすれば手頃だろう。
これから先のことを考え頭を悩ます和也を尻目に冷静な表情で判断を待っているノルディックだったが、その実背中は冷や汗で濡れていた。和也に売却する予定の家だが実のところ、その三件すべてを売り出したところで魔石の売却額には及ばなかった。及ぶのだとしたら、真っ先に売り払っているので、ある意味当然の帰結ではある。
ノルディックは商売人の誇りとして、騙すような商いは行わなかった。
だが、相手からこちらの土俵にのったとすれば話は別だ。商売人の矜持として、チャンスがあるのならそこに賭けるのは道理に他ならない。 さすがに魔石の売却額全てを賄うことはできないだろが、少しでも多く手に入れられるのならばそれにこしたことはない。なによりも、これはチャンスだった。一度目は自らの手で逃した。それに後悔はないが、どこかで惜しいと思う自分がいたことは否定できない事実だ。
未だノルディックの肝は冷え、背中を濡らす汗は止まらない。それは当然のことだ。相手の善意を逆手に取るのだ。下手をすれば取引自体がなかったことにされ、評判も落ちることは間違いない。
さすがにこの状態で評価が下がれば、経営は上手くいかないだろう。だがそれも一興だと、ノルディックは思う。このまま何もせず朽ちていくように終わるよりは、イチかバチかのような心躍る勝負に賭けた方が何倍もマシだ。それでこそ、商売人と胸を張れるのだから。
ノルディックは強く拳を握り、そして、開く。閉じたままではなにも掴めやしない。いつだって空っぽこそが、未来をたぐり寄せる強さにつながるのだから。
「お客様、どうやらお悩みのようですね。僭越ながら申し上げますが、何事も最初は大きくなさってはいかがでしょうか」
低く深みのある声が和也の耳朶を打った。思考に没頭していた頭は切り替えられ、新しく入ってきた情報を確認するように口ずさんだ。
「――大きく、ですか」
「はい、即答できないところを見ますと、お客様は様々な選択肢をお持ちなのだと思います。決断というものが難しいというのは、私も存じております。なにを持って妥当とするのかは難しいものですから」
「ハアー、まあ、そうですね」
首をふりため息を混ぜ、ノルディックは芝居がかった口調で言うが、要点のつかめない会話に和也の方は困惑を返すだけだった。
「選択で一番簡単なものは、想像がつくものです。思い浮かぶということ自体が、安易に叶えられるという可能性の表れでもありますから」
「まあ、確かにそうですね」
たやすくイメージができる行為が簡単なのはその通りなので、和也は頷いて答えた。それは納得ができるものだ。だからこそ和也も予想のしやすい範囲内ですべてを決めようとしていた。
「ですが、それは同時に大きな枷となります」
「枷、ですか?」
「はい、人は皆想像の範囲内でことを起こします。こんなことはありませんでしたか? 完璧だと思っていた人が予想外のできごととなると慌てふためき、なにもできなくなる、なんてことです」
ノルディックの語る言葉は和也の脳裏に、幾人かの人影にマニュアル人間といった言葉を思い出させた。
そして、ノルディックはそんな和也の反応に、心の内で安堵の息を吐いた。
興味を持たせることこそが、購買の第一歩だ。商品の利点を語り、押し付けることではない。その商品というよりはまずは自分自身を知ってもらうことが第一だと、ノルディックは考えていた。
知るということは、始まりだ。そこからようやく、形は生まれ始める。商売とはそれに意味をつけ、価値を付与する作業だ。
必要という、この世で最も、尊き価値を生み出す行いだ。
「自分の世界というものは、恐ろしいものです。その限られた空間の中では、往々にして上手くいくことがあります。そうでないことのほうが少ないくらいかもしれません。ですがそれは同時に終わっているようなものです」
「――終わっている、ですか」
その言葉の物騒な響きに、和也は咎めように眉根を寄せた。
いささか過剰な演出かと思っていたノルディックは、無事成功したことに内心笑みを浮かべた。
「ええ、私はそう思っております。ですがお客様は納得されていないようなので、ひとつ質問をさせていただきます。お客様はそれに答えてください。銅貨十三枚でお客様はパンを購入しました。ではそれを銅貨十四枚以上で売るにはどうしたらいいと思いますか? 条件として、パンに付属品などをつけることは禁止です。パンの価値は購入した時と同じになります。加えて、指定した場所から動くことはできません」
なぞなぞのような問は和也の思考を刺激する。そして、同時に和也はほくそ笑む。現代日本で育った和也には、この手の問題に慣れていた。すぐさま答えを言える程には。
「そうですね。僕なら、頭の良くなるパンや、有名な人がご愛顧しているなど、付加情報をつけますね」
和也の手法は現代の日本ならば、どこでも見られるものだ。物の品質を高めるのではなく、付属価値を付けるという方法、日本ではご利益などいう言葉が、一番近いだろう。
自信を持って答えた和也だったが、ノルディックの答えは否定だった。
「確かに、そういう方法もあるのかもしれませんね。ですがある程度の根拠を提示しないことには誰も納得しませんでしょう。そして、それには仕込みが必要です。となると、指定の場所から動かなければいけないでしょう。仕込みをその場で見せるわけにはいけませんし。――まあ、そう、難しく考えないでください。答えはもっと単純なものですので。最初から問題を思い出して頂ければ、すぐにわかるものです」
凝り固まった思考はそう簡単にはやわらかくならないのか、和也は腕を組みながら真剣な面持ちを崩すことなく考え続ける。
その様子にノルディックは、気づかれぬようかすかに苦笑を浮かべた。今の和也のように悩んでいるものが、そのまま答えを出すことなく頭を抱え続けるところを何度も見てきたゆえの笑みだ。
ノルディックは答えを告げるため、声を上げた。答えを口にするには幾分早いが、数学などとは違い時間をかければ解けるといった要素が少ない以上、正解は手早く教えたほうがいい。遅ければ遅いほど意固地になり、かえってタイミングがつかめなくなる。早ければ、傷は浅い。ノルディック自身も体感した真理の一つだ。
「さて、それでは答えの方を申し上げます。考える時間が少なかったとは思いますが、簡単な問題ですのですぐに答えは浮かぶことだと思います。ですがそれでは、私の立つ瀬がないので、申し訳ありませんが答えさせていただきます」
おどけるように目をつぶり、胸を張ってノルディックは言った。その行為が自分の顔を立てるために行ったのだとわかった和也は、応えるように頬をゆるめた。
「気にしないでください、僕もそろそろ答えが聞きたかったですし」
「そうですか、どうやら、ちょうどいいタイミングだったようですね」
和也の発言に、ノルディックは顔をほころばせた。建前という言葉を気遣いと呼ぶか、それとも白々しいと呼ぶかは人それぞれだが、大人の対応という点では及第点だろう。
「それでは了承も得られましたので、口にさせていただきます。先ほども申し上げました通り、単純なもので申しわけないのですが。銅貨十三枚で購入したものを銅貨十四枚で売る方法ですが、――値札に銅貨十四枚、そう記載するだけです」
「えっ、それだけですか?」
「はい、それだけです。あくまでも売る方法であり、買っていただかなければいけないとは申しておりませんので」
悪びれず胸を張り、けれど茶目っ気を含んだ笑みを片頬に浮かべ、ノルディックはそう言った。それに対し和也は納得がいかないように顔をしかめた。
和也の心情は当然とも言えた。予想だにしていないというほどではなかったが、それでも単なる言葉遊びだとは思っていなかったので、不満が顔に出ていた。ノルディックの方としては、狙い通りの反応といったところだ。あえて、後味の悪い答えを選択したのだから。なぜなら、満足はそこで終わりだからだ。不満とは一種の心残りだ、満たされぬゆえに生まれる意志だ。それは静かに足を引く。逃れられぬように。
ゆえに表情として張り付くほどの感情の揺れは望んでいたものだ。
いわば、それはつかみだ。偶然ではなく、故意に引き出された思いは、そう簡単に消え去ることはない。ここまでくれば話は最後まで進む。出目がどうなるかはわからないが、付き合いきれずに席を立つという事態は避けられた。
「どうやら、ご不満のようですね。ですが、これはある意味、もっとも単純な商売であり、商人の心意気でもあります。なにせ、最低限の労力で儲けが得られるのですから。――商人にとって、最も大事なものは変化なのですよ」
疑問を乗せた視線を受け、ノルディックは続けて口を開いた。
「商人というものは、変化に敏感です。先の例ではありませんが、品質が同じで価格が違うというものはいくらでもあります」
特別商売の知識があるわけではないが、ノルディックの発言の意味はわか
らないものではなかった。学校の授業や漫画といった、なにかしらのメディアで目にしたものだからだ。
この世界における簡単な例で言えば、塩がそれにあたるだろう。海がある地域では安価で手に入るが、海が遠く流通が不便な山間部ともなれば高額となる。需要と供給によって値段が変わる、良い例だ。
「そしてその一方で安定した利益というものを、私たちは強く望みます。毎回同じ利益が得られるというのなら、それはある種の保証にもつながりますので。ですからそれを崩すであろう変化には、細心の注意を払います。安定と変動、異なるようですが、商人にとってそれは本来の目的に続く手段のための布石でしかありません」
「利益を求めるということのですか?」
「はい、その通りです」
ノルディックは微笑む。学校の授業で生徒が正しい答えを述べた時、教師が浮かべるように。
「そして、もう一つ私たちが求めるものは、お客様の満足です。利益と満足、それらを天秤にかけ、両者が釣り合う答えを常に探すのが商人でございます」
「……銅貨十三枚のものを、十四枚で売るのが最適ですか?」
わかるようなわからぬような理屈に不満がにじみ、和也の問いかけは皮肉のようだった。けれど、ノルディックの表情は揺らぐことはなかった。
「はい、銅貨一枚の値段を気にする人は、そういませんから。仮に気に食わない方がおりましても、その方は購入しませんので問題はありません」
ノルディックの言うことはスーパーとコンビニが近場にあり、そこでジュースを買うとしてどちらで購入するかという話だ。ただし、スーパーの方がコンビニより、いくらか安いという制約がつく。状況にもよるのだろうが、必ずしも安価なスーパーで会計を済ませるとは限らないだろう。そう、変わらないのなら、どちらでもいい、そんな思考は意外と溢れているものだ。事実、和也とて覚えがないわけではない。コンビニの方がスムーズに買えたなど、理由はそれなりにあるが。
「確かに問題はないのかもしれませんね。ですが、銅貨一枚ですよね。大した金額にはならないと思いますけど」
反抗と呼ぶほど強い感情ではないが、納得できないしこりのようなざらついた不満が和也の口から形になっていた。
「そうですね、おっしゃる通り銅貨十三枚のものを十四枚で売ったところで、大した儲けにはなりません。ですが、確実に変わるものがあります」
半ば予想通りであったノルディックはすぐに対応した。もう仕上げの段階だ、もたついている暇はない。叩きつけるような勢いでさらに言葉を紡ぐ。
「それは意識です。たった、一枚の儲け、されど、一枚です。それも労せずに手に入れた利益です。そうなればもっと、欲をかくのが人情というものです。それはいわば現状からの脱却です」
ノルディックは知っていますかと一言口にすると、まるで世界の理を告げるかのような厳かな口調で言った。
「人はそれを向上心と呼ぶのです。前へ、一歩先へと、進む力です」
「足を動かさなければ、景色は変わりません。それはいわば、周りが風景を変えてくれることを願っているようなものです」
結局のところ、この世に単一な真実は存在しない。光があれば影があるように、メリットとデメリットという側面は生まれてしまうからだ
「ただ黙ってたっていれば変わっていく世界は、殺風景だと私は思っております。自分自身の意志を持って足を踏みしめるからこそ、その彩りを変えていくのではないでしょうか。――ならばこそ、夢は大きなものであればあるほど、一歩を踏み出せるものです」
ノルディックは目を細め、微笑みを浮かべた。それは大樹が強い日差しを和らげ心地よい木漏れ日を生み出すような、包むようなやわらかさに溢れていた。もっともそれは無意識なものではなく意識して行ったものだったが、和也が演技だと気づくことはなかった。
「最初から小さな世界では、歩みは小さく、頂きもすぐそこにあります。登ってしまえば、終わりです。もうそれ以上はありません。ですが、頂上が高ければ、高いほど終わりません。景色はずっとずっと、続いて行きます。――世界はどこまでも変わっていきます。それはきっとあなた様をどこまでも高みへ誘うことでしょう」
停滞というものは、悪いことではない。それは言葉を変えれば、安定ということだ。
確かにそれは変化に乏しいだろう。だが、そこに至る理由はある。不必要、その一言にすべてが詰まっている。
変わるということは、そうせねばどうにもならないからこそ行うものだ。
本来、変化は必要ないのだ。それを求めるということ自体が問題であるのだから。
ノルディックもそんなことは、百も承知だった。ギルドという新しき風が生まれ、彼はその嵐のような変化に巻き込まれた人間だ。わからないはずがない。だからこそ、視点をそこには向けさせない。逆の視界をメリットにのみライトを当てた。その眩い輝きに和也は目を奪われている。そのすぐそばにある薄暗い影には、気づく素振りもない。
「誰もが夢を持っています。けれど、人はその高さを見上げると、目がくらみすぐに足元を見てしまいます。それが悪いとは申しません。ですが、私は思うのです。夢は挑戦するものだと。挑む前に覚めるのは、ただの幻です。たとえ、うたかただとしても、見続けることが夢の条件ではないのでしょうか」
空気というものは大事だ。勢いでどうにかなるということも多々ある。理屈だけで、人が生きているワケではない立派な証明であろう。 世界の真実の一つに、自分こそが世界の主役というものがある。誰であろうとも、自分を中心に世界を見るものだ。それは言ってしまえば、自らの目で見た世界を信じるということでもある。
嘘も本当も何かもが、自分で感じたままでしかない。自分の思いこそが、ある種世界の全てである。だが同時に世界の小ささも認識する。
なぜなら、世界の中心は自分ではないからだ。
自分は主役であるが、そこに物語はない。日常という名の即興劇が、何度も同じ題目で繰り返されているだけだ。
物語はどこか遠いところで語られている。そう、それは演じるるものではなく、離れた場所から耳にするそんなものだと気づいていく。
つまるところ、人は誰もが物語に弱い。その瞬間、本当の意味で自分こそが世界の中心だと感じるからだ。自分自身と世界、その二つが噛み合うように主役という言葉を意識させる。
ノルディックが行っているのはまさにそれだ。
大仰なセリフと動作、そして、選択肢という名のアドリブを与えることによって観客でいることを止めさせる。
さて、半ば無理矢理に主役へと成り上がさせられた者はどうするだろうか?
高鳴る胸に、熱くなる頬、どこか微熱めいた熱情を、和也は感じていた。
ノルディックの会話や動作からうかがえるフィクションじみた非現実さが、高揚感を与えていた。それは脳内にドーパミンを分泌させ、和也の思考を曇らせ加速させてゆく。
冷静さが幾分抜けた頭は、普段なら思いもよらない方向へと誘う。無意識的に留めていた理性は離れ、突飛な考えに発想は飛んでいく。そしてそれを咎める者はいない。体の中にある躍動と熱が、肯定のように感じられた。もちろん、勘違いだ。それはノルディックの手腕の成果だ。 だが同時に、そこにはゼロにも、無限にもつながる可能性が眠ってもいた。
「――決めました」
抑えきれぬ興奮を笑みという形で押し出し、和也は真っ直ぐにノルディックを見据えた。そのどこか芝居じみた大仰さに、ノルディックはポーカーフェイスを浮かべながら内心でほくそ笑む。
そういう顔をした人間ほど大それたことをし、ノルディックの元に利益を運んでくるからだ。
「物件ですが、三つとも買わせていただきます」
腹を決めた和也は口元には笑みを、そして、瞳には意思を込めそう口にした。
「本当は工房を買うつもりでしたが、止めにしました」
苦笑を浮かばせ和也がそう言うと、ノルディックが興味深げにまゆを上げた。言質を取ったからといってそこで終わりではない。まだまだノルディックの演技に終わりはない。
「そうですか。それはまた、どうしてですか?」
「あなたのおかげもあるんですが、気づいたんです。前を見ていなかったなって。足元だけを見ていて進んでいる気はしましたけど、そうじゃっなかったんです。ただ、必死に足踏みをしているだけでした」
和也の胸には炎があった。強く燃えるそれは和也の思いを原動力に熱く、そして、激しく駆り立てていた。前へと、目の前に困難があるのなら焼き払ってでもその先へと進めと、炎は叫んでいた。
もっとも、のせられているだけなのですぐに燃え尽きてしまうのだが、それはまだ先の話だ。
「景色を見てみることにします。自分の足ではなく、世界を見るために前に進んでいこうと思います」
ノルディックが何も言わず、右手を差し出してきた。その無言の問いに和也も右手を出し、強く握ることで答えた。
ぶっちゃっけ、黒歴史の一幕だった。