衝撃
なぜ、そんなことをしたと問われたところで、明確な答えを和也は返すことができなかっただろう。
死ぬとも、怪我をするとも思えなかった、などといった思考があったわけではない。
それはどこか、衝動にも似ていた。気づくと和也は飛び出しており、ナイフから女性を守った。
和也自身、理由を問われたところで言葉にできるものでもないだろう。
理由を強いて上げるとするならば、和也の人間性という言葉がしっくりくるのかもしれない。
女性は守るべき者、困っている人がいれば助ける、よくあるおためごかしめいた言葉だ。どこまで実践されているかわからないものだ。だがそれでも、そこには確かな質感があった。それは言われ続けてきたものだ。必ずしも実践されるとは思われていなかっただろう。けれど、叶わぬとわかっていても願われたものだ。それは祈りだ。処女雪のように淡く、淡く降り積もり、象った結晶だ。
異世界にあってなお、和也が和也としてある理由、それこそが和也を凶刃の前に立たせた理由で有り、矜持だった。
だが、それは女性――アーネスにとって、癇に障るものだった。
彼女は救われなかった者だ。善意に救われることなく、悪意に晒され続けた。結果として、首には枷が巻きついている。
残酷なことにそれはこの世界にとって、珍しいと言えるほどのことではないことだろう。街を出歩けば同類を見かけるほどには、ありふれたものだ。弱肉強食、この世界はそんな言葉がはびこっている。
そう、救われないことはよくあることであり、助けられることの方が希なのだ。
だから、アーネスは眼前で起きた事実に戸惑いを覚えるしかなかった。
気配で自らの背後に、誰かが立っていたのは知覚していた。先ほど打撃を与えた男の仲間だろうかとアーネスは思い、気を引き締め振り返るが予想は外れることとなった。
背中があった。頼もしいと感じるほどではないが、それでも角ばった男のものであることは間違いなかった。なにであるかはアーネスにも理解できた。だが、なぜとなると話は別だ。
アーネスの耳に音が届く。甲高く、耳障りな音色だ。金属と金属同士をぶつけた時に、響くものとよく似ていた。聞き慣れているといっても過言ではないだろう。ゆえにすぐ、理解した。それが刃と硬度の高いものがぶつかったせいだと。
回り込むようにしてアーネスは正面へと回り、自分を助けたであろう人物を見た。
視界に飛び込んできた和也の顔は、驚きに満ちていた。それは自分がなにをしたのかわからず、それゆえに戸惑いを顔に貼りつけているように見えた。そして、地面に落ちたナイフとアーネスの姿を見たことで、自らが行なった行為を認識したのか、ふわりと笑った。
それは打算のない笑顔だ。ただただ相手が無事であったことに安堵し、喜
ぶそんな笑みだ。誰かの不幸に泣き、誰かの幸せに笑む、そんなおとぎ話めいた言葉を信じさせるなにかがそこにはあった。
だからこそ、アーネスは苛立ちを抑えられなかった。
彼女は救われなかった存在だ。傷つき、汚され、狂わされた身だ。その身に潜む感情は八つ当たりとも、自己防衛とも取れるものだ。思いはたった一つの言葉をアーネスに宿らせる。
なぜ、今なのか、と。どうして、今更になって、手を差し伸べたのだ、と。
理不尽な怒りがアーネスの身を震わす。それを恐怖によるものと勘違いした和也は、自分より幾分背の低いアーネスに目線を合わせるため身を屈める。見下ろすような視線が怯えさせているのかもしれないと考えた結果だが、それは見事外れとなる。
それはちょうどいい位置にあった。気遣いからアーネスの眼前に下りてきた顔は、手を伸ばせば届く距離にあった。白魚のような細い指が和也の顎に触れた。
突然のことに和也は慌てるが、不安のためぬくもりを求めているのだろうと勝手に納得し、振りほどくようなことはしなかった。このとき、アーネスの手があたたかさを確かめるようなやわい触れ合いではなく、逃がさぬための力強いものだということに気づいていれば展開は変わっただろう。
和也は何一つ疑問に思うことはなかった。それはアーネスの額が自分の額に近づき、顎をがっしりと掴まれ、引き寄せられている時も変わらかなかった。
鈍い音が響く。そして、衝撃が脳を揺さぶる。ナイフにビクともしない体だったが、予期せぬ一撃に加え、脳に攻撃が加えられたことにより、脳震盪のような状態になり、和也の意識は薄れることとなる。
最後に見えたのはどこか、満足気なアーネスの姿だった。