理解の問題
「少し、いいかな?」
「…?」
「此処を出ようと思うのだが、もう戻ってくる事もないだろう。だからもし何か持っていきたいものがあるなら用意して欲しいんだ」
「えっと、はい」
チーの震えが収まってきて、少し躊躇するもセレネは出来るだけ優しい声を心がけて云っていた。
答えるように、チーはよろよろと立ちあがり、部屋の隅にあった台のようなところに歩み寄る。
手の中の友達を、大事そうに台に置くと、その横に綺麗に積まれている紙の束をばさばさ、と仕分けし始めた。チーがそれを持ち上げた瞬間、まとめてあった紐が切れて、ばさりと紙が広がってしまった。
あ、と言いながらチーはそれを丁寧に拾い集め、またがさがさと、優しい手つきでまとめていった。
紙は古臭く、文字は消えかけるほどに擦り切れている。そして、黒々としたインクの様なものでほとんどが汚れていた。
「それは…?」
「えっと、僕が『実験』を効率よく行えるように勉強に使ったものです。別の部屋でやったのですけど、覚えるようにと貰えたのです」
「それで、言葉を…」
「はい、僕は物覚えが悪かったけど、本を読むのは好きになりました。いっぱいあって、嬉しいです」
セレネが紙を拾い上げるのを見ながら、嬉しそうにチーは持っていた紙の束を抱きしめた。
がさり、と紙の束が音をたて、瞬間、しまったという顔になる。チーは慌てて、皺がよってしまった紙をのばそうと、一枚一枚丁寧に台の上に広げていた。
セレネは床から拾い上げた1枚の紙から目が逸らせないでいた。
紙は、何度もなぞったように文字の下の部分が擦り切れ、下に数字が書かれているから元々が本であったことが解る。そして紙を塗りつぶす様に幾重にも広がり、こびり付く様にして染み込んでいるインクは、おそらく、いや間違いなく血の跡だと理解してしまっていた。
「これは、血なのか…?」
「えっと、すいません、汚すつもりはなかったんですけど、覚えが悪いと本を持ったまま『実験』が始まってしまったから」
「いや、いい、すまない、続けてくれ」
セレネは目を瞑り、震える指でチーに紙を返す。
チーは変わらない笑顔だと言うのに、その染みの量はおびただしくて、その時の凄惨さを物語っていた。
紙の見た目は古く、擦り切れるほどに何度も読んだことが解るが、皺の跡やほつれた跡を丁寧に直され、大切にされていることが解る。それだけに、何度も染み込んだと思われる血の跡が、セレネの胸に深く釘を打ち込む様にして突き刺さった。
「―――それだけでいいのかい?」
「はい、チーと一緒に読んだ本です。あとは…僕には持てないし、覚えてますから」
小さな袋にぱんぱんに収まった紙を持ち上げ、云った。
まだまだ紙の束は残っていたが、その顔は晴れやかで、名残惜しそうに紙の山を見ていた瞳はもうなかった。
チーは友達の身体を撫でつつ、もうちょっとだからね、と漏らす。
「もうちょっと?」
その言葉に違和感を覚えて、セレネは思わず強い口調で聞いていた。
「えと、僕の『処分』が始まるんですよね?僕、あまり興味がなかったのだけど、今、とても満足してます」
「…『処分』とはなんだい」
「えっ?此処に帰ってこないのだから、僕、てっきり…」
「待て、それはどんな状況で言われたんだ」
険しく、低くうねる様に云うセレネに、チーはおどおどした様子で答える。
「あの、僕が『実験』を正しく受けていたら、幸せな『処分』をしてやる、と。その時に全てが終わる、っていつも。その時は、幸せの意味が、よくわからなかったんですけど、今はよく、わかります」
「………」
「確かに、チーが居なくなってしまったのは悲しいけど、僕の名前と、好きな本と、そしてチーと一緒だと思うと、お腹の下の方が、幸せだな、ってぽかぽかするんです」
「…………」
「ほんとは…ほんとは、チーには生きていて欲しかったけど、でも失ったものは戻らない、って本に書いてあったから…僕は『処分』が終わったら、本に書いてあったお花畑の世界で、チーを探そうと思うんです。 ―――チーと一緒に、ご飯を食べたい」
にこり、と小さな友達を抱きしめたチーは笑う。
セレネはふるふると震え、下を向いていた。
チーはその姿を見て、また怒らせてしまったのだろうか、そんな不安があふれ出す。そうして、幸せになってはいけなかったのではないかと思い至る。
あぁしまった、と。自分は世の中に居てはいけない悪魔だと言われていたから、それは許されない行為なんだと、何度も教えられていたのを思い出した。
「ごめ、なさい。僕、僕が幸せを求めるような事はしちゃいけないの、忘れてました。いつも、言われてた筈なのに、だけど、嬉しかったから…ま、間違えてしまいましたっ」
困ったように眉を下げて云った。
「あの、ごめんなさい、お花畑は『良い人間』が行くんでしたね。僕は確か、マグマ?の中だったかな、あれ、人間じゃないからわからないや、ごめんなさい、僕、馬鹿だからいつも」
「…違うっ!」
早口に謝るチーに対して、無言で下を向いていたセレネが言葉を遮る。
えっ、と零すチーに、セレネは顔を伏せたまま、頭を左右に振り、もう一度、違う、と力強く云った。
「えぇと、その、僕が死んだら行くところを知っているんですか?」
セレネの反応に驚いたチーだが、そのまま直前まで話していたことを思い出し、期待するような瞳で、セレネに問いかける。それは実に無邪気な顔で、知らないことを知るという好奇心に溢れていた。
それがまた、セレネの心へと棍棒で殴る様な衝撃を与えた。
何が違うのか…解らないのだ。少年にとってそれは当たり前な事であって、疑問に思う事ではない。
もう無理だ…そう思った。
何故こんな初めて会っただけの他人を気遣うくせに、自分を全く省みない様な純粋なんだ…そんな想いだけがセレネの心を満たした。
「そんなものは知らない、いや、そんなもの考えたくもない。何もかもが違うのだ」
「何も?かも?」
「………すまない、少し、落ち着かせてくれ」
短く息を吐きつつ、セレネは自らの顔を両手で覆い、暫らくして、大きく息を吐いた。
激しい動悸と、湧き上がる怒りを、悲しみと共に沈めていった。
そうして、近くにいるチーの傍に座り込み、その顔を両手で覆い、ぐいっと目の前に持ってくる。
それは優しい力であるものの、強引で、瞳を合わせるようにして顔を合わせる2人。チーの瞳は戸惑うように揺れ、セレネの瞳は力強く目の前に座り込むチーの姿を映していた。
「あ、あの…」
「なんだ?」
「なにが、違うのですか?」
戸惑う顔を隠さずにチーは訪ねる。
セレネはもう一度深く息を吐き、チーの瞳を見つめた。
「何も、かもだよ。まず私はキミを『処分』するつもりなんて一切ない」
「えっ?」
「私は君をここから助け出すために来たんだ、殺すつもりなんか、ない」
「それじゃ」
「もちろん、君が幸せに思う事があったのは事実かも知れない。だが、私はそれでは許せないんだ」
「やっぱり、僕が幸せになっちゃいけ」
「違う、そんな意味じゃあない。まず前程からして、間違っている。キミは死ぬことに幸せを感じる前に、死ぬ前に、もっと、もっと多くの幸せを感じなければいけないんだ」
「死ぬ、前?」
「あぁ、もちろん、それが正しい事だとは言わない。だが、私がここに来て、キミを見つけてしまった以上、キミを死なせるつもりは微塵も、一欠けらだって、なくなってしまったという事だけは、間違いないのだよ」
「………?」
「私はね、自分勝手なのだよ。キミの幸せを本当に考えるのなら、選択肢はその方が良かったかもしれない。けどね、私は、私の勝手で、無理やり、キミを生かす。キミは多くのことを知らなすぎる。いっそ罪なほどに無知なんだ」
「僕は…馬鹿だから。よく、わからないです」
戸惑いながら、困ったように、チーは笑う。
自分が『処分』されない、ということは理解出来たが、何故、どうして、という事はわからなかった。
だからいつも愚図でのろまで、ゴミ虫なのだといって、殴られていたのだと思い出す。
その姿にセレネは眉を顰め、こつん、とチーの額に自分の拳を乗せた。
チーの瞳には、泣きそうな、それでいて儚げに笑うセレネの顔が映った。
「そうだな、今は、わからなくていい」
「今?」
「あぁ、私は魔女だと言っただろう?」
「はい」
「魔女はね、弟子を取るんだ。キミを、私の弟子にする。わからないなら、知ればいい、学べばいいんだ」
「えっ?」
「…私はね、キミの師になりたい」
許してくれるだろうか、そう微笑むセレネの顔は悲痛そうに歪んでいて、チーは思わず息をのむ。
しかし、チーの想いは、『死ねない』と理解した時から1つの事が頭をぐるぐると巡っていた。そのせいで他の事柄の理解力が落ちて、チーはセレネが言う事のほとんどを、おおよそ理解できていないかもしれないと自覚している。
心に膨らんできた申し訳なさと、今、もっとも考えている事が胸を締め付けた。
気がつけば、チーの視線はセレネから離れ、今も手の中に感じる、艶やかな毛並みの友達に注がれていた。
「わかっている、それが私の1番の勘違いだった。彼がキミにとってどれほど大切な者なのか、キミの状況がどんなものだったのか、キミの覚悟がどれほどのものなのか、私は何も理解していなかった」
「チーは大切な、友達です。1人に、したくない」
「あぁ、そうだね。私は所詮動物だと、短い期間の繋がりだと、侮ったのかもしれない。粗末な綺麗事しか言っていないというのに、私はその小さな身体の彼より、どれほど矮小なのかも理解していなかったのだよ。…名前だけで死を納得出来るはずがない、当たり前じゃないか」
つらつらと言い訳の様な物が口から吐き出される。
セレネは自分がひどく滑稽に思えて、それでも止まらない口が在って、気づけば唇を噛みしめていた。
あの時、チーがすぐに死を理解しているのが解った。
そして、ただ1人の友が居なくなって、泣きはしたが、随分と落ち着いているとも感じていた。勝手な解釈で安心していたのだと、自分のまぬけさに思い至った。
自分の尺度でしか物事を見れていない、そんな様々な感情と共に自責の念が圧し掛かり、激しく自分を嫌悪していた。
「僕は、此処から出れるなら、生きていたく、ないです。だって悪魔は、世の中を不幸にしかしないのでしょう?僕は、これ以上チーのように不幸な者を、増やしたくない、です」
チーは、小さな友達がいなくなってしまったことを、受けとめただけ。自分が嘆こうと何も変わらないことを、知っていただけ。死を、どれほど前からか受け止めていただけなのだと、そう結論付けたセレネは俯いていた顔をあげ、前を見る。
自分勝手だと思う。だが…そんな事は許さない、そう小さく呟きながら。
「チー。その小さな友達を少し触らせて貰っていいかな?そう、ありがとう、ちょっと待っていてくれ」
苦しそうにしていたセレネを心配そうに眺めていたチーに言葉をかける。
急な言葉に戸惑いながらも、ゆっくりと手渡された身体をセリエは優しく受け取り、ぶつぶつと何かを唱えだす。
いつかチーの身体にに氷の柱を押し当て、雷で打ち抜かれた時と同じようだと、友達を両手で抱えるセレネの姿をぼんやりと眺める。やっぱり、怒らせてしまったんだと思った。グズな自分が嫌になった。
チーは衝撃に備え、目を瞑る。その間も、チーが目を瞑ってからも、長い間、セレネは何かの呪文を唱え続けた。
「…もう、いいぞ」
「えっ…?」
かけられた言葉に驚く。
身体に痛みがなかった。手足をきょろきょろと見るチーにセレネは、キミには何もしてないよ、そう悲しそうに笑った。
その顔は少しの間だった筈なのに疲労が見え、額にはうっすらと汗をかいていた。
「…これを」
渡されたのは、灰色の石。
楕円の、丸みを帯びた小さな石だった。見たことがないはずなのに、どこか懐かしく思った。
「これは…?」
「キミの友達だよ。身体を癒す為に石に閉じ込めた。彼の微弱な魔力を感じるだろう?」
「…はい」
チーは灰色の石を頬にあて、つるつるとした肌触りの中に、さっきまでずっと一緒にいた友達の感覚を思い出した。
「この魔法は禁術だからね、誰も知らないだろう。けどきっと、彼は傷を癒して、またキミに笑いかけてくれる筈さ。それなら、そうだとしたらキミはそれまで生きなければいけない筈だろう?」
「ほ、ほんとう、ですか?チーがまた?」
「あぁ、本当さ。だから彼が傷を癒すまで、みんなを幸せにする方法を考え、学ぼうじゃないか…」
その言葉に今までで1番の笑顔を見せながら、チーは涙を流す。
セレネは穏やかな顔をしながら、ギュッと拳を握りしめる。
死んだ者は、生き返らない。それは甘美なほど優しく、切り刻むほどに残酷な嘘だった。
序章はあと1話くらいの予定です。
これを全部で1話にしようとしてたのは流石に無理があるなと感じました。
続きを楽しみにして頂けたら嬉しいです。
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