静かな夜
「なぁ…ダムトス、あの子は何故あんな性格になったのだろうな」
セレネはうつ伏せに寝転がったままの姿勢で云った。ひとしきり泣いて、泣いて、零れるモノがなくなって、蟠りがストンと胸に吸い込まれる様にして、ほとんどが消えていた。
「儂に解るはずがないじゃろ」
ダムトスは吐き捨てる様に云ったが、その強気な言葉とは裏腹に声は疲労で滲み、疲れ切っていた。
その様子にセレネは視線を少しだけ申し訳なさそうに向ける。暫し目を瞑り、それを吹っ切る様に軽く喉を鳴らしながら笑い、身体を起こした。
「―――ふふ、なんだ、じじぃは体力の限界か?軟弱だな」
「ふん、誰のせいで儂が疲れたと思ってるんじゃよ、この泣き虫女が」
「あぁ、―――すまないと思ってる」
「…前に云ったじゃろうが、相手を間違えるな、と」
「いや、あっている…助かった――――ありがとう」
恥ずかしそうに眼を逸らしながら云うセレネ。
それを見て、そう思うならこっちを向いて云うんじゃな、とダムトスは笑った。
うるさいっと投げつけた枕は簡単に避けられ、ばすっと音をたてて壁にあたり、地面に転がる。
ダムトスは笑いながらそれを拾い、セレネに投げ返した。
ぽすっと投げ返された枕を受け取り、セレネは視線を下げる。
下を向けば、自分の頼りない細い足が小刻みに震えているのが見えた。
「…私は…貴様のように物事を俯瞰して見れたらと心から思うよ」
「ふむ、全てを見通す氷の魔女がの?」
「ふふふ、それは嫌味か?人間の心が解らないから氷の魔女なのだろう」
「ふむ、興味ないのぅ。まさか、そんなものを気にしておるのか?」
「いや…違うよ。呼び名など、どうでもいい。ただ私は、自分が不甲斐無いんだよ」
セレネはまた徐々に湧き出てくる気持ちを振り切る様にして、静かに立ち上がり、窓を開けながら云った。
空は曇っていて、月は見えない。
雲の隙間からもれる月明かりにその姿は、淡く照らされた。
「私はね、最初はただ幸せを解らせてやろうと思っていたんだ」
「あの子にかの?」
「あぁ、無茶苦茶だろう?まず今の時点でさえ自分の事で精一杯なのだからな」
「まぁ、そうじゃろうな」
「チーはな、初めて会った私を気遣っていた。殴られてたから顔を腫らしたままね。―――なんて云ったと思う?」
「さぁのぅ、まぁ、大概心配しておったんじゃろ?」
「そうだな。ツラいのは自分の筈なのに、あの子は…泣かないでくれと、そう云って腫らした顔で笑っていたんだよ」
「……あの子らしいのぅ」
セレネはその時を思って、胸が締め付けられた。
あの時は、嫌われてもいいと、全てを話そうと決めていた。
それなのに自分は今、何をしている。自分は戯言しか云わない人間が嫌いだった。虫唾が走る。
ただ、今は…誰よりも自分が1番嫌いだった。
「なぁ、聞いてくれるか?―――私はね、本当はもっと以前からチーを助けることが出来たんだ」
「どういうことじゃ?」
「仕事だよ、あれは…貴族たちの遊びだった。私にも報告は来ていた、ただ魔物相手に何を馬鹿な事をと……詳しく見ようともしなかったんだ」
「…それを儂に云ってどうするんじゃ?…あの子は、知っているのかの?」
「ふふふ、言えないんだ、もう、言えないんだよ、これ以上嫌いたくないんだ」
「嫌いたくない、か…馬鹿馬鹿しい考えじゃのう」
「そうだな、わかって、いるさ…」
チーはたぶん、事実を伝えても変わらない。
あの子はそんな事で人を嫌ったりはしないから。
それがどうしたんですか?そんな事を云って首を傾げるだけだと確信できてしまう。
許されることが解っている懺悔なんて、絶対に、謝罪なんかじゃない。
これは自分の胸の中で謝罪し続けなければならないと決めていた。それは、これだけの話ではなかったが、他の事まで云う事は出来なかった。
セレネは自分は確実に甘えていると思う。
ただそれでも「自分を嫌いたくない」のは、最後の意地なんだろう。
本当は、底辺にこれ以上なんてないことは解っていた。
チーの事を考えて、胸がきゅう、と締め付けられた。
「……最初、はな、犬猫と同じだと思ったんだ、捨てられたものを拾うつもりだった。可愛がろうと、思っていたんだ」
「あぁ、そうじゃな」
「ただ…あの子はね、つまらない事で笑うんだ。只のパンを食べて、ひっくり返るほど吃驚してうまいと叫んだり…日に照らされて気持ちよくて融けてしまいそうだと笑ったり…たいした事をしてないのに私に、きらきらした顔を向けるんだ。……あの子はとんだ馬鹿だろう?」
「いつでも…本気で笑うからのぅ」
「私はさ、あれほど真っ直ぐな生き物は見た事がない。そんな子が…馬鹿な事に私になついてくれたんだ。そんなの…もう、手放せなくなってしまったよ」
「ふぅ…自分勝手、じゃな」
「解っている、私は何もしていない、あれが勝手にそう思ってしまってるだけなんだ」
言葉は徐々に闇の中に吸い込まれていって、消え入るような声はまた震えていった。
また泣くのか、というダムトスの言葉にうるさい、と返すも、声の勢いはまるでなくなっていた。
ダムトスはまた深いため息をついた。
「どうしようもなく、馬鹿なんじゃのぅ」
「わかって、いる」
「ふん…では今あの子が何を考えていると思う?」
「…不安だろうな、怒らせてしまったと、自分が悪いんだとかそんな所だろう。…何も悪くないのにな」
「あぁそれもあるかもしれんの。じゃがそれだけなら、何故あの子は街に繰り出したのじゃ?あの子は馬鹿ではない。怒らせることを嫌がるなら、そんな事は決してしない子の筈じゃろ?」
「それは…」
「理解するべきじゃ。…あの子は不安なんじゃよ、この場所が、お前が、自分の存在がな」
「―――どういう事だ?」
それは随分と遠回りの言葉に感じた。
俯いていた顔をあげたセレネは当惑気で、ダムトスは顔を顰める。
そのまままたため息を吐きそうになるも、途中で止めた。
ここらで溜息なんて縁起が悪いものは打ち止めにしないと、自分の幸せが全部なくなってしまう気がしていた。
「まだ解らんのか、あの子の世界は狭い、その中心にいるのは誰だと思うんじゃ?」
「それは…」
セレネが思い浮かべるのは小さな友達。
いつも胸にぶら下がって、無意識の様だがしきりに触っている、人に内緒にするように小声で話しかけてもいた。
「自惚れて欲しくはないが…少しは自信も持つべきじゃの。知っているかの?あの子はこの館を1人で出ようとしていたんじゃよ」
「ば、馬鹿なっ!」
「騒ぐな、ちゃんと止めたよ。あの子が不安に思っているのは間違いない、じゃが不安に思うのは自分のためではなく、魔女…お前の為なんじゃよ」
「っ…―――だが、私は現に何も…」
ダムトスが攻める様な言葉を口にしてセレネは言葉に詰まる。
セレネにも理解は出来る。ただ、それを実際に認めるのは大きな問題があった。
確かに今のチーは、セレネが中心にいる、そんな状態なのかもしれない。
だがそれは、他に選択肢がないだけという事も間違いがなかった。
まず、結局はダムトスが勝手に言っているだけで、チーの本当の心は解らないんだ。
痛む胸を押さえながら、セレネは自分自身で1つ確信していた。
自分は何処までも自分勝手で、短気で、駄目な魔女なんだと。
チーの事を手放したくなどないのに、いつかそんな自分に愛想を尽かせて、あの子は離れて行ってしまう事だろうと思ってしまう、弱い人間なんだ。
ぽっかりと虚無の様な物で覆い尽くされそうになりながら、あの子はそんな事をしない、そんな事を考える。
―――こんな時でも自分は他人任せなのかと、涙がジワリと滲んだ。
「どうした、魔女、お前は自分勝手なんじゃろ?」
不敵に、云った。
「氷の魔女は、人の気持ちなど、考えないのじゃろう?」
「き、貴様ッ!」
「ふむ、いいではないか、それで。人の事ばかり考えるあの子には、それくらいが丁度いいんじゃろ」
限度はあるがの、そう続けるダムトスの顔は穏やかだった。
ポンっと頭を叩かれ、胸を覆っていたもやもやとしたものが霧散していく気がした。
セレネは俯いたまま動かない。
目尻に溜まった涙が零れそうになっていたから。
ぽんぽんと叩かれる振動が無駄に安らぎが与えられて、無性に腹が立った。大きく溜まってしまったそれを、絶対に、零さないと瞳に力を込めていた。
「ふぅ、もう、いいじゃろ?儂は疲れた、寝る時間がとっくに過ぎてしまった」
「くっ…―――い、いっしょう、寝ていろっ」
「ほっほっほ、じゃぁお言葉に甘えてぐっすり寝ようとするかの」
素早く身を翻しながら扉を開けて、ダムトスはわざとらしくウインクをする。
セレネは思いっ切り枕を投げつけるも、寸前で閉められた扉に阻まれてしまった。
ぼすんと、枕は地面に落ちる。其れを拾ってくれる人間は、もうこの部屋にはいない。今更ながらに恥ずかしくなった頬が火照ってきて、少しだけ寂しい様な、けれどそれ以上にすっきりした気持ちになっていた。
窓から流れてきた風がさわりとセレネの髪を撫でた。
「ばかはどっちだ、あのじじぃめ…」
枕を拾いに行きながら零す様に云った。
ダムトスのたった1つ2つの言葉で、沈んでいた気持ちが浮上してしまった自分が単純で、眼の下にクマを作りながら笑う男が憎らしくも、少しだけ嬉しかった。治癒魔法をさせた上に無理させてしまった。
その後ろ姿が、少しだけずるいと思った。
「チーに、チーに逢いたい…」
落ち着いたら、無性に込み上げてきた。今日もあの小さな身体を地面で丸めているのだろうか。
今日はひどい事をしてしまった。
それは…許す許さないではないのだと思う、私は刻み込まなければいけない。
そうだ、私は気持ちなんて解らない、自分勝手なのだから。
私が私であっていいのなら、それは変わらない、もとより、変われるなら直ぐに変わっているんだ。
がちゃりと扉を開く。
ひんやりとした空気が頬に触れて、部屋の空気が廊下に流れ出す。
いつの間にか月は出ていて、強い瞳を取り戻したセレネを照らし出していた。
ふぅ、と息をつくセレネの声だけが廊下に響いた。
あと少しで魔女の章がおしまいです。
楽しんで頂けたら嬉しいです。