始まった日
ぴちょん、と音がする。
薄暗い部屋にこだまする様に、水滴が滑り落ちた。
少年はゆったりとした様子でそれを眺めていた。
針金のように痩せた身体をぼろ布で覆っている姿は酷く薄汚れていて、薄茶色の髪に、髪とよく似た色彩の瞳を持っていた。
それだけを取ったのなら、不健康そうではあるが、ごく平凡な少年にも見える。
けれど、彼にはその平凡さを露のように消し去る特徴をその身体に宿してもいた。
彼の頭の根本からは、白い、透き通るような2本の角がぎらり、と生えていたのだ。
―――それは古から伝えられてきた、悪魔の印だった。
◇ ◇ ◇ ◇
「ね、お腹がすいたの?もうこれだけなんだけど…食べる?カリカリしてて、おいしいよぅ」
屈んでいた少年は、カチカチになった小さなパンの欠片を袋から取り出す。そうして朗らかに笑った。
ころ、と小さな音を立てパンの欠片は転がり、その瞬間、ちゅう、と嬉々とした声が響く。声の持ち主が嬉しそうにそれを齧り始めた。
この小さな生物は、つい最近に何処からかこの部屋にやってきた、少年の小さな迷い人だった。
ちゅうちゅう、と辺りを忙しなく動き回っていて、食べ物が其処にあれば、歓びを露わに食べ始める。
そんな嬉しそうな姿を見るたびに、少年は今まで感じた事のない、胸を包みこむ、やわらかな心持ちに襲われていた。
「チュウ?」
「んと、ごめんね…もう残ってないんだ」
眺めていた時間は僅かで、小さな欠片はすぐに無くなった。
首を傾げながら少年を見上げる姿に、もうないの?―――そんな催促されているようで、少年は困ったように眉を下げる。
小さな生物が来てから、催促される度に食べ物を与えていた。
食べる姿、満腹になったと、眠たそうにする姿、そんな姿が堪らなく嬉しかったのだけど、無くなってしまう事をまるで考えていなかったのだと、ふと、自分の浅慮を痛感する。
今までの自分は食べる事など、どうでもよかった筈なのに。
けれど、この小さな友達は、食べることが大好きだったから。
袋に入ったパンの欠片や、しなびた芋はいつからか大切な宝物に変わっていて、その頃から食べる事の嬉しさに満たされていた。
お腹以外も、満たされると知った。
そうだ。2人で半分こする楽しさも、知ったのだった。
手に持つ、空っぽになってしまった袋を見て、じくり、と寂しさに襲われる。
何も持たない自分に、彼はがっかりして、何処か別の所に行ってしまうのじゃないか、そんな不安に駆られた。
少年はその小さな「生物」と、もっと、ずっと一緒に居たいと思っていたから。
「ねぇ、チーは…何もなくても、此処に居てくれる?やっぱり僕は…チーとずっと一緒に居れたらなって思ってるんだけどな…」
「チゥ?」
チーと呼ばれた生物は小さな首を傾げ、少年を見つめる。
しかし、すぐにくしくしと顔を拭い始め、いつもの様に少年の膝の上によじ登り始めた。満足するほど食べてはいない筈だけれど、食事をしたから、眠くなったのかもしれない。
「んと…困ったなぁ」
「チュウ!」
薄暗い部屋に響くチーの声に、静かに!と怒られたような気がして、少年はパチパチと目を瞬かせる。
そうして、クスクスと笑い、小さな声で、ごめんね、とチーに謝った。
少年の不安を他所に、満足そうに眠ろうとするチーを見て、チーが幸せなら、それでいいじゃないか―――寂しさをごまかす様に、小さく笑った。
それに、と思う。今はないけれど、食べ物は時々来る人達が偶に置いていってくれる。
それまで待っていればいいんだと思った。
少年はチーをさわりと撫でた。
この時間も、少年はたまらなく好きだった。チーは幸せな時間を運んでくれる。
ちゅぅ、と眠そうな声をあげるのも、時機に寝息を立て始めるのも、小さく上下する身体を見るのも、幾度も、何度も見て、そのたびに幸せな感覚に襲われた。
くすぐったくも胸が暖かくなる、ゆったりとした心持ちである。
出来れば、こんな時間がいつまでも続くといいな、そう、少年は穏やかに、眼を閉じた。
―――そんな時だった。
ガチャンッ。
扉の開く音と共に、2人の男が部屋に入って来た。
音に驚いてチーは部屋の隅に飛ぶように駆けていってしまったが、少年は彼らを待つ間に生まれた期待を膨らませた。
けれど、久しぶりに見た男達は、何も持っていない。
思わず落胆したが、彼らに頼んだら、もしかしたら食べ物を貰えるかも…。
そんな淡い期待も飛び出してきて、少年は普段は許されていない筈の口を開いていた。
「あの…」
「…くっせぇ!なんだこの匂い!おい、お前、どうにかしろよ!」
「ちっ。命令すんな。言われなくともやっている」
やっぱり無理かな…。
部屋に入るなり怒鳴りあう2人に、そんな言葉が小さく漏れていたと思う。
それでも、勢いで言ってしまう前に気づけて良かったと、男の1人が唱えた水魔法の濁流が、轟々と、少年の目の前に迫るのを漠然と眺めながら思った。
少年は、言葉にすれば何事も叶わないという事を、暫らくの平穏の中で忘れていたと思い出す。
勢いよく飛び出してきた水に、強く壁に叩きつけられる。口からは胸の中の空気が意思とは関係なしに吐き出されていく。衝撃が、身体を貫いた。
(あぁ、チーは大丈夫かな)
吹き飛ばされながらも、それだけが少年の心を占めていた。
チーは驚いていたから、飛び起きて隅の方に逃げていた。
濁流に呑まれることは無かった筈だと思う。朦朧としながら、少しだけ安堵した。少年は激しく感じる痛みに呑まれるようにして、意識を手放していた。
痛いと思うより、安心していた。
「おい、やりすぎだ。俺の服が濡れたらどうしてくれる」
「こんなもんだろ、俺だって臭いんだ。ちまちまやっても時間がかかるだけさ。ん?なんだ、あれ」
問われた男は水浸しになった部屋を歩き進め、隅に転がる灰色の物体を見つける。
ぴちゃぴちゃと水が跳ね、小さなものがうごめく、それと同時に感じる獣臭さに、男は顔をしかめた。
「ドブネズミかよ、きったねぇな。通りでいつも以上に臭い訳だ」
「おい、燃やすなよ?ただでさえ反吐が出るくらい臭いんだ、ゴミが燃えたら本当に吐きそうだ」
そう云って、男は、あぁ面倒くせぇ、と呟きながら顔をしかめ、唾を吐き捨てる。
俺だって…、隣でそう愚痴をこぼし始める男にひらひらと手を振りながら背を向け、転がっている少年の元に歩み寄る。そうして、少年の髪の毛を掴んでぐいっと引き起こした。
「うぅ…」
「おい、起きろ実験体。実験の時間だ。これ以上無駄な時間を使わせるんじゃねぇ、俺は忙しいんだ」
少年は頭をゆさゆさと揺らされながら、意識を覚醒させる。
思い出す様にして、空気が足りないと胸が訴え、ケホケホと咳き込んだ。
ぼんやりと眼に映るのは、いつも少年を「実験」に連れて行く男だった。あぁさっき来たから、そう思い、ひどく重たく感じる身体を起こそうとして、動かなかった。
眼を向ければ、頭を捕まれている事に気づいた。
(無理矢理立てばいいのだろうか、それとも、このままでいるべきなのだろうか)
もやがかかった様な思考で、ぼんやりと少年を掴む男の腕を眺める。
いう事を訊くと、つまらないと振るわれた腕。
いう事を訊かないと、激昂しぶつけられた拳。
そうしてまとまらない思考のまま戸惑っているうちに、髪の毛がぐいっと引っ張られ、あぁ怒らせてしまったと理解する。
勢いよく拳が振ってきた。
「早く立てって言ってんだよ!クソ鬼が!」
「ごめ、なさいッ…」
また壁に叩きつけられる。
胸が空気を求めているけど、必死で耐える。
息より先に、謝罪を口にするのだ。口にしていいのは謝罪だけと決められていたから。他の言葉を言えば殴られたけど、謝罪すればそれでいいと言われた昔の記憶が脳裏に散らつく。
もし今日も、言われた通りに出来たとしたら、食べ物が欲しいというお願いを訊いてもらえるだろうか…また、そんな淡い期待も顔を出した。
でも話せないというのに、どうお願いしたらいいのだろう、そう考え至って、全ては鎮座した。
「おい、ほどほどにしとけよ?今日は確かまた耐久力の検査だ。つまらなかったから明日も、とかなったら目も当てられねぇ」
「お前に言われたくねぇよ。前無駄に切り付けて殺しちまいそうになったのが問題になったじゃねぇか」
「どうせ、死ぬさ。早いか遅いかなんて変わらねぇよ」
違いない、そう云って、げらげらと笑った。
男達は上司である貴族達に、殺さずに実験するよう言われている。
しかし、どっちにしろ結果なんて求められていないし、意味なんてたいしてないのだとも感じていた。
ただそれで給料を貰えるのだから、それならそれで良いと―――自分達の一生なんてそんなもんだと考えていた。
少年は重たくなるまぶたを必死であけて、早く終わって、出来れば食べ物をチーに、それだけを、心から願っていた。
ガシンッ。
軽く開いていた扉が、先ほどより激しい音をたて、勢いよく開く。
男達は驚き、素早く扉に目を向けるが、いまだ視点が定まらない少年は、音を感じたまま、ぼんやりと扉に目を向けた。
そこには長い透き通るような青い髪を振り乱す様にして、カツカツと歩いてくる女の姿があった。
(きれい…)
少年はまどろむような意識の中でそう思う。
鋭い形相ではあったと思う。けれど、流れる様な髪がさらさらと波打ち、白い肌が眩しく見えた。初めて見るその女性は少年に何処か神々しさを感じさせた。
同時に、初めて見る女性にある期待も浮かんでいた。もし、話を聞いてもらえるのなら、チーは食べ物を与えてもらえるかもしれない、そう思った。
「あ…ななたは…」
「なぜここに…?」
「喚くな、クズ共。殺されたくなければ、今すぐ出ていけ…私はその子に用があるのだ」
淡々と話す女性を男達は知っているようだった。
男達がしかし…、などと言い淀んでると、女は射殺す様な視線を男達に向け、再度殺すぞ、と呟く。
男達はその言葉にひっ、と短い悲鳴を上げ、顔を青くして部屋を飛び出ていった。
女は男達が居なくなった後、そのまま少年の目の前に近づいて、ゆっくりとしゃがみこんだ。
歩いている時は確かに怒気を孕んでいた筈だ。
けれど、近くに来た女の様子はそれとは全く違っていて、どこか悲しそうな、そしてすまなさそうな顔で目の前にしゃがみ込んでいた。
暫しの間が過ぎ、女はふぅと短い息を吐いて、少年の頬に戸惑いがちに手を伸ばし、優しく撫でた。
「気づくのが遅れて、済まなかった」
「…?」
「解らないかな…全て私の責任でもある事だ。しかし、これからキミは自由だ。私が…保障する」
女は、何処か張りつめた様な空気で、何かに耐える様にして云った。
少年は突然の言葉に意味が解らなかったが、同時に、なにが、と首を傾げることは出来なかった。
その顔は真剣であり、酷く苦しそうで、ともすれば泣きそうに見えたから。
意識がいまだにぼうっとする少年には、この女性が何を言いたくて、どうしてそんな顔をするのかは、まるで解らなかった。けれど、女が深く、悲しんでいることは理解出来た。
「…泣かないで」
…気づいたときには声が漏れていた。
「え?」
ひどく驚いた様子の女に、少年はあぁ、しまったと思う。しかし、思ったままを伝えようと思った。
「どうか、泣かないで下さい、僕は誰かが泣きそうになるのが、なんだか、とても嫌みたいなのです」
「………」
険しい顔をしていた女は、呆然としたように驚き、眉をぐにゃりと下げた後…わかった、と呟いた。
そうして、徐々に緩まる顔は悲しそうな様子は変わらないが、幾分か表情は穏やかになり、泣きそうではなくなった。
それを眺めて、少年は言えてよかった、と思う。
泣きそうな女を見て、思わず口から出てしまった言葉に、少年は本当は少し後悔していた。
自分は勝手に口を訊いていた。それは絶対に許されない行為の筈だった。
それでも、泣きそうな女性を見ているだけよりは、伝えることが出来てよかったとお腹の底が言っている気がした。チーだって泣きそうな顔は嫌いだったから。
ちゅう、と怒る友達を思い出して、自然と、笑みがもれた。
少年の笑顔を見た女は、大きく、目を見開く。
「キミは、そんな状態でも、笑うのか…」
驚愕したまま女は云った。
彼女の眼に映るのは水魔法によって所々から血を流し、殴られたのだろう、口周りを痛々しげに腫らした少年が不思議そうに此方を見ていた。
何時までも驚く自分に、大丈夫ですか、そう気遣ってもきた。
堪らず、胸に込み上げてきた憐憫の情に呑まれそうになるが、必死で只、必死に飲み降す。
女は静かに息を吐く。
目の前の少年が心配気な表情をするのを見て、落ち着くと同時に安心させたいと思った。
なるべく心を静めて、両の口の端をゆっくりと持ち上げようとしてみる。
「……あ」
その姿から、ゆっくりと笑おうとしてる、そう少年にも理解出来た。
女は、ゆっくりと眼を開き、にっこりとほほ笑んだように見えた。
―――が、数秒と待たずに上体が揺らぎ、こつんと、少年の額に自分の額をぶつけていた。
「やはり、無理か。こんなにも、笑顔になりたいと思っているのにな…」
そうして、一見すれば笑顔とも見える筈の表情をした、悲しそうな彼女の瞳から、すっ、と一筋の雫が伝わった。
それが少年と氷の魔女と呼ばれる女の出会いだった。
こんにちは。
傷だらけの鬼、初めてみました。
最後まで読んでもらえると、とっても嬉しいです。
私も読んでもらえるように努力していきたいと思いますっ。